世界史上に民主主義が出現したのは近代の英仏米各国においてであり、その象徴的国家制度である選挙が始まったのもこれらの国々である。そのフランス革命においては確か「自由、平等、博愛」が合い言葉になっていたと覚えている。今これに因んで現代世界を見るとき、自由ばかりがなぜ強調されてきたのかとの疑問がわく。以下のような状況があるからだ。
今の世界、その政治や外交で、「自由と民主主義」という言葉ほど多用される用語はないだろう。近頃頻発される「価値観外交」とやらにおいても、「自由と民主主義」が金科玉条になっている。ところが、そう唱え続けている政治家が、この語を本当に理解しているのだろうかと思うことも多いのである。自由という言葉がまず「金融(活動)の自由」とか「貿易の自由」を指していたり、民主主義という言葉を選挙とだけ理解するから真の「民主」が他方の「自由」に虐げられているやの風潮も存在しているのではないか。「自由と民主主義」という国ほど、そういう社会における格差がますます激しくなっていて、日米などでも反省が始まっているほどだ。
一例、日本のように、男性の半分が給料が少なすぎて結婚できず、子が持てないような社会になりつつあるのにその原因を為政者が懸命に隠しているような国が、民主主義社会と言えるのか。「自由、平等、博愛」とは確かに抽象的な言葉であるが、近代政治において生まれたそういう考え方、感じ方を表現したものだろう。これに基づいて物事を語れば、民主主義の真の前提になっているヒューマニズム、特に博愛、友愛という理念はどこに行ってしまったのか。平等の方はまだまだ先の話としても、今の世界、国家社会は博愛が薄いように思えて仕方ないのである。G7だけで固まって、国連が軽視されるやの風潮についてもそう思えて仕方ないのである。そもそも、国連のような存在を育て上げなければ地上から戦争はなくせないし、戦争はヒューマニズム最大の敵であろう。