僕の年代だと、標記の言葉、思想は常識に属することだろうが、若い人々には分かるだろうか? そして、ここに現れた思想こそ、保守政治(家庭論)とそれとの闘いが関わるキーワードの一つのように思ってきた。日米共通してのことだ。例えば、夫婦別姓、アメリカ福音派の「中絶反対」などなど。まとめて言えば、こういうことだろう。女性の社会的自立問題。家庭、子育てを事実上女性にのみ押しつけてきた社会的伝統。
「人形の家」とは、イプセンのある戯曲名。主人公ノラの「人形から人間への自立」が描かれたものだ。この戯曲から、ノラが女性解放運動の伝統的象徴にされてきたと伝えられている。古い日本でいえば、「元始女性は太陽であった」の平塚ライチョウ、「青鞜社」のように。
他方、日本女性に押しつけられてきた伝統が七去三従である。三従とはこういう女性道徳である。
「子ども時代は父に従い、結婚したら夫に従え。そして、年を取ったら子(家長を継いだ長男)に従うべし」
七去は難しいが、とにかくこういうもの。次の七つのどれかがあれば、妻が離縁されても文句も言えないというものである。子がないこと、義父母に従順でないこと、おしゃべり、窃盗、淫乱、嫉妬深い、悪疾があることの七つだ。
さて、日本の農村などではまだまだこういう風習が残っていて、それが現に女性の自立、生き方を著しく抑え込む問題を生んで来たのではないか。一例、こんな「常識」もここから生み出され、農村育ちの男性などに残っている場合も多いだろう。
「子どもは3歳まで母が育てるべし」。そのために「いったん仕事を辞めても仕方ない」というところから、年齢別女性労働者人口の「M字型」ができあがって来たと言われる。Mの窪みが「いったん退職(後に、悪条件の再就職)」の年齢帯なのである。「母の掌こそ、育児の要諦」との育児思想がまた、このM字をもたらし、我が国の産休明け保育などの低年齢保育を歴史的に堂々と遅らせる口実になってきたのであった。今でこそ、保育、学童保育の「待機児童数」が失政として社会問題になっているが、昔の行政の言動を知る者にとっては、隔世の感があるところだ。
家事を全くやらぬ男への今の「(熟年)離婚」問題も、「人形の家」や七去三従の類の思想から起こったものとも言えるだろう。こういう高齢男性は、ちょっと前には「ぬれ落ち葉」と呼ばれてきた。「掃いても掃いてもくっついて離れない」ことを指しているようだ。これがまた、少子化問題の原因にもなっているのである。
「この男相手じゃ、第2子なんてとんでもない」。
自民党男性議員は、ほとんどが「人形の家」派なのではないだろうか。共働きは少ないだろうし。こんなところでも、日本の政治を考えてみることだと思う。夫婦別姓なんて、決して認められないはずだ。