かねてから想像し、思っていたことだが、標記のことについて、ユダヤ教の聖典(キリスト教の旧約聖書と同じ)のイスラエル的読み方が関わっていることを、改めて知った。雑誌「世界」11月号の「国家神信仰を批判する」(森本あんり東京女子大学学長)によって。なおこのイスラエル流旧約聖書解釈はアメリカ共和党にも当てはまるとも同論文中にあった。イスラエルはどうも、神の預言を実行しているつもりなのではないか。
『ユダヤ民族の帰趨は、ユダヤ人の問題である以前に、まずもってキリスト教の将来に関わる問題と捉えられているのである。というのも、ユダヤ民族のシオンへの帰還は、聖書に予言された終末到来の前提とされているからだ。聖地にイスラエルが復興されることなくして、約束された終末が訪れることはない。(中略)今日のイスラエル国家は、可見的な政治の現実であると同時に、ユダヤ民族の契約を受け継いだキリスト教会にとって強い理念的な関心事なのだ。この傾向は、聖書の言葉を文字通りに受け取ろうとする福音派のキリスト教徒で特に強い。
そんな神学論議がいったいどれほど現実世界に影響を及ぼすのだろう、と訝しむ人がいるかも知れない。だがアメリカは、そもそも建国以前から「新しいイスラエル」という自己意識を持って出発した国である。聖書の中で隷属状態にあったユダヤ民族がエジプトを脱出して新天地に至ったように、ヨーロッパという旧世界の桎梏と腐敗を脱出して汚れなき新世界を建設する。これが歴史の折り目ごとに繰り返し表明されてきたアメリカの自己理解であった』
ついで、こういう選民意識、「国家神信仰」にたいして、著者はこういう批判を加えている。
『神がイスラエルに求めたのは、宗教的な祭儀や行事ではなく、社会正義を行うことである。「公道を水のように、正義を尽きない川のように流れさせよ」(第5章24節)という、ごく世俗的な倫理の徹底である。ヤハウェは、契約遵守の内容として、宗教ではなく倫理を求める。それも、庶民の日常生活において実現されるべき平明な世俗倫理を』
『イスラエルの神は全世界を統括するが、イスラエル自身は歴史の中心でも目的でもない』
『神の「絶対的正義」は、しばしば欧米の独善的な覇権主義の淵源のように論じられる。しかし、絶対的正義はあくまでも神の正義であって、それを信じる者の正義ではない』
さて、以上を読むと我々聖書の素人にも今のイスラエルやアメリカの乱暴狼藉が分かるような気がするのである。かねてから「こうなのだろうな」と推論していた内容が、「やはり!」という形になって。アメリカ福音派とは、進化論と同時に、神を万物の造物主とする旧約聖書の創世記をもかたく信奉している人々なのだ。一方は科学として、他方は信仰としてと語られてきたのだが、矛盾するこの二つをともに受け入れ、生活の指針ともするということは、僕ら日本人には全く理解不能であろう。