標記のことについて、岩波新書「シリーズ日本近現代史第6巻」の「アジア・太平洋戦争」(吉田裕一橋大学大学院社会学研究科教授、専攻は日本近現代史)から抜粋する。
『その天皇は、いつ開戦を決意したのか。すでに述べたように、日本が実質的な開戦決定をしたのは、11月5日の御前会議である。しかし、入江昭『太平洋戦争の起源』のように、9月6日説も存在する。この9月6日の御前会議で決定された「帝国国策遂行要領」では、「帝国は自存自衛を全うする為、対米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に、概ね十月下旬を目途とし戦争準備を完整す」ること(第一項)、「右に並行して米、英に対し外交の手段を尽して帝国の要求貫徹に努」めること(第二項)、そして、「十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合においては、直ちに対米(英蘭)開戦を決意す」ること(第三項)が決められていた。』
『このように、9月6日の御前会議の重要性は明らかだが、この時点で事実上開戦を決意したとするのには、やはり問題がある。なぜなら,この時点では、昭和天皇その人が対米英開戦に対して確信を持てないでいたからである。(中略) 海軍の資料によれば、9月5日の両総長(陸軍参謀総長と、海軍軍令部総長。6日御前会議の前日に会議に出す原案を話し合っもの)による内奏の際「若し徒に(もしいたずらに)時日を遷延(せんえん)して足腰立たざるに及びて戦を強ひらるるも最早如何ともなすこと能はざるなり」という長野軍令部総長の説明のすぐ後に、次のようなやりとりがあった(伊藤隆ほか編『高木惣吉 日記と情報(下)』)。
御上〔天皇〕よし解った(御気色和げり)。
近衛総理 明日の議題を変更致しますか。如何取計ませうか。
御上 変更に及ばず。』
こうして、第一項概ね十月下旬を目途とした戦争準備の完整と、第二項外交交渉による問題解決とという順番を「この通りで変更に及ばず」と、天皇が決断したのである。後になって彼は、もしそう決断しなければ軍の一部などを中心に内乱が起こっていたはずだと、一種この決断を弁護している。としても、そういう時点まで情勢が進んでいたということも含めて、天皇主権国家の国家元首としての責任は免れない。
国民に対してある国への敵愾心を煽り続けると、いつしか天皇でさえも国民の戦争希望を抑えられない時代がやってきたと、そんな法則を教えてくれているようだ。