【社説】
直視セヨ 偽ルナカレ 憲法60年に考える(下)
2007年5月3日
昭和前半の歴史をふり返るとき心に屈託が生まれてしまいます。「直視セヨ ミズカラヲ偽ルナカレ」。そんな気構えで史実をたどり、思うことがしばしばです。
第二次大戦に学徒出陣した吉田満氏の手記「戦艦大和ノ最期」を読み直してみました。
文部科学省の二〇〇六年度の教科書検定で、高校用日本史教科書から沖縄戦での集団自決が軍の強制だった旨の記述が一斉に消えてしまうという衝撃の“事件”があったからです。沖縄戦とは何だったのか。
歴史への責任がある
「日米最後の戦闘」とも呼ばれた沖縄戦は、一九四五年三月二十六日の米軍の慶良間諸島上陸から六月二十三日の事実上の戦闘終結までの三カ月の戦いでした。
惨たる戦闘の最たるものは、日本人の戦死者十八万八千百人のうち沖縄一般県民の死者が九万四千人にものぼったことでした。
戦艦大和の出撃は、米軍が沖縄本島に上陸し「鉄の暴風」攻撃にさらされていた四月六日でした。
戦記には、稚拙で無思慮極まりない作戦に伊藤整一・司令長官はじめ各艦艦長がこぞって抵抗したこと、連合艦隊参謀長が「一億玉砕ニ先ガケテ立派ニ死ンデモライタシ」と真の作戦目的を明かすことでやむなく作戦が承諾されたことなどが記されています。
生還を期しがたい特攻作戦だったことは暗黙の了解でしたが、三千五百の乗組員が従容として死についたわけではありません。
「国のため君のために死ぬことで十分」とする兵学校出身者と「死をもっと普遍的な価値に」と煩悶(はんもん)する学徒出身士官との激論があったことは印象的です。
ついに鉄拳乱闘の修羅場ともなった論戦を収拾したのは臼淵磐大尉の「敗レテ目覚メル 日本ノ新生ニサキガケテ散ル マサニ本望」の持論だったことが回想されています。
歳月の流れにも時間差
「直視セヨ ミズカラヲ偽ルナカレ」は、必死を目前にしての吉田氏(当時少尉)の覚悟の言葉ですが、あらゆる時代、あらゆる局面にあてはまる金言です。集団自決も直視されなければなりません。
集団自決住民は沖縄各地で六、七百人とされ、軍によって配られた手榴弾(しゅりゅうだん)を爆発させたり、肉親親族がカマやカミソリで殺し合う悲惨さでした。この惨劇を軍の強制とする判断を避ける文科省の検定こそ歴史を偽るものといえるでしょう。
一億玉砕が叫ばれ、戦艦大和の出撃もそのための捨て石でした。県民を戦火に巻き込む持久戦が選択され沖縄は投降の許されない「軍官民共生共死」のなかでした。
軍の強制をめぐる多くの証言記録や生き証人も存在します。沖縄では今、諦観(ていかん)に似た憤りが急速に広がっているといわれます。「また本土に騙(だま)されるのか」と。
戦後憲法は前文の通り、再び戦争の惨禍が起こることがないようにとの決意でした。戦没者三百万人、その平和主義には中国や韓国などアジア諸国へ侵略と植民地支配に対する謝罪の意味が込められています。
しかし、加害と被害の間には歳月の流れにも大きな違いがあります。戦前の歴史を忘れたかのような憲法改定の動きと従軍慰安婦問題の再燃や戦後補償訴訟提起は象徴的です。
最高裁は最近になって、日中共同声明(七二年)は個人に対する戦後賠償は放棄したもの、との初判断を示しましたが、中国や韓国では戦後は終わっていないのです。
憲法改定の動きに中国や韓国の指導者の直接の発言はありません。それは内政不干渉の原則を守っているからで、強い警戒心と猜疑(さいぎ)心を抱いているのはもちろんです。
「過去の戦争への反省が不十分な日本が軍備を強化しようとしているのは心配。他国はともかく日本人が銃を持つのは不安」(中国の新聞編集者)。「軍事力と交戦権を回復した日本は『普通の国』でなく、『普通ではない国』として韓国に脅威を与える」(朝鮮日報社説)
近隣諸国を納得させられるのか。やはり平和主義はアジア諸国への百年の誓約です。いまだに恩讐(おんしゅう)を超えるには至っていません。
不完全な人間への自覚
作家の吉行淳之介氏は「戦中少数派の発言」で、戦争に鼓舞される生理をもつ圧倒的多数の存在を語りました。
戦争への感情爆発と陶酔の病理について、「昭和史」の半藤一利氏は日本人の腹の底の攘夷(じょうい)の発露とし、精神分析の岸田秀氏もペリー来航のショックと屈辱的開国が引き起こした日本の人格分裂で説明しています。
理性や合理ではなく、その場の空気に支配される日本人の病理を研究したのは評論家の山本七平氏ですがいずれも自己の直視を忘れたわれわれの弱さや未熟さの指摘です。
憲法にこめられた立憲主義や戦争放棄は、不完全な人間への自覚からの権力やわれわれ人間自身への拘束規定でしょう。その知恵を尊重したいものです。
直視セヨ 偽ルナカレ 憲法60年に考える(下)
2007年5月3日
昭和前半の歴史をふり返るとき心に屈託が生まれてしまいます。「直視セヨ ミズカラヲ偽ルナカレ」。そんな気構えで史実をたどり、思うことがしばしばです。
第二次大戦に学徒出陣した吉田満氏の手記「戦艦大和ノ最期」を読み直してみました。
文部科学省の二〇〇六年度の教科書検定で、高校用日本史教科書から沖縄戦での集団自決が軍の強制だった旨の記述が一斉に消えてしまうという衝撃の“事件”があったからです。沖縄戦とは何だったのか。
歴史への責任がある
「日米最後の戦闘」とも呼ばれた沖縄戦は、一九四五年三月二十六日の米軍の慶良間諸島上陸から六月二十三日の事実上の戦闘終結までの三カ月の戦いでした。
惨たる戦闘の最たるものは、日本人の戦死者十八万八千百人のうち沖縄一般県民の死者が九万四千人にものぼったことでした。
戦艦大和の出撃は、米軍が沖縄本島に上陸し「鉄の暴風」攻撃にさらされていた四月六日でした。
戦記には、稚拙で無思慮極まりない作戦に伊藤整一・司令長官はじめ各艦艦長がこぞって抵抗したこと、連合艦隊参謀長が「一億玉砕ニ先ガケテ立派ニ死ンデモライタシ」と真の作戦目的を明かすことでやむなく作戦が承諾されたことなどが記されています。
生還を期しがたい特攻作戦だったことは暗黙の了解でしたが、三千五百の乗組員が従容として死についたわけではありません。
「国のため君のために死ぬことで十分」とする兵学校出身者と「死をもっと普遍的な価値に」と煩悶(はんもん)する学徒出身士官との激論があったことは印象的です。
ついに鉄拳乱闘の修羅場ともなった論戦を収拾したのは臼淵磐大尉の「敗レテ目覚メル 日本ノ新生ニサキガケテ散ル マサニ本望」の持論だったことが回想されています。
歳月の流れにも時間差
「直視セヨ ミズカラヲ偽ルナカレ」は、必死を目前にしての吉田氏(当時少尉)の覚悟の言葉ですが、あらゆる時代、あらゆる局面にあてはまる金言です。集団自決も直視されなければなりません。
集団自決住民は沖縄各地で六、七百人とされ、軍によって配られた手榴弾(しゅりゅうだん)を爆発させたり、肉親親族がカマやカミソリで殺し合う悲惨さでした。この惨劇を軍の強制とする判断を避ける文科省の検定こそ歴史を偽るものといえるでしょう。
一億玉砕が叫ばれ、戦艦大和の出撃もそのための捨て石でした。県民を戦火に巻き込む持久戦が選択され沖縄は投降の許されない「軍官民共生共死」のなかでした。
軍の強制をめぐる多くの証言記録や生き証人も存在します。沖縄では今、諦観(ていかん)に似た憤りが急速に広がっているといわれます。「また本土に騙(だま)されるのか」と。
戦後憲法は前文の通り、再び戦争の惨禍が起こることがないようにとの決意でした。戦没者三百万人、その平和主義には中国や韓国などアジア諸国へ侵略と植民地支配に対する謝罪の意味が込められています。
しかし、加害と被害の間には歳月の流れにも大きな違いがあります。戦前の歴史を忘れたかのような憲法改定の動きと従軍慰安婦問題の再燃や戦後補償訴訟提起は象徴的です。
最高裁は最近になって、日中共同声明(七二年)は個人に対する戦後賠償は放棄したもの、との初判断を示しましたが、中国や韓国では戦後は終わっていないのです。
憲法改定の動きに中国や韓国の指導者の直接の発言はありません。それは内政不干渉の原則を守っているからで、強い警戒心と猜疑(さいぎ)心を抱いているのはもちろんです。
「過去の戦争への反省が不十分な日本が軍備を強化しようとしているのは心配。他国はともかく日本人が銃を持つのは不安」(中国の新聞編集者)。「軍事力と交戦権を回復した日本は『普通の国』でなく、『普通ではない国』として韓国に脅威を与える」(朝鮮日報社説)
近隣諸国を納得させられるのか。やはり平和主義はアジア諸国への百年の誓約です。いまだに恩讐(おんしゅう)を超えるには至っていません。
不完全な人間への自覚
作家の吉行淳之介氏は「戦中少数派の発言」で、戦争に鼓舞される生理をもつ圧倒的多数の存在を語りました。
戦争への感情爆発と陶酔の病理について、「昭和史」の半藤一利氏は日本人の腹の底の攘夷(じょうい)の発露とし、精神分析の岸田秀氏もペリー来航のショックと屈辱的開国が引き起こした日本の人格分裂で説明しています。
理性や合理ではなく、その場の空気に支配される日本人の病理を研究したのは評論家の山本七平氏ですがいずれも自己の直視を忘れたわれわれの弱さや未熟さの指摘です。
憲法にこめられた立憲主義や戦争放棄は、不完全な人間への自覚からの権力やわれわれ人間自身への拘束規定でしょう。その知恵を尊重したいものです。