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日本国憲法の成立をめぐって    千里眼

2007年04月30日 14時57分05秒 | Weblog
日本国憲法の成立をめぐって その1

 少々の修正は加えられたが、基本的にはGHQの作成した案によって、日本国憲法は成立したのだ、と私は思っていた。与えられたと言っても「いいもの」は守っていくべきなのだ。日本国憲法の内容は、世界に誇れるものなのだ、と考えていた。ところが、調べれば調べるほど、この日本国憲法には日本国民の知恵が生かされていることに気づく。アメリカに押し付けられたという評価が間違っているのに気づかされる。

 法学館憲法研究所の池田香代子氏は、サイトのなかで次のように書いている。
 「私は鈴木安蔵さんの試案を見て、すごく不思議な思いに駆られました。それはGHQの憲法案に似ているだけでなく、‥‥自由民権運動‥‥その中で土佐の植木枝盛が書いた憲法案である『東洋大日本国国権案』にもよく似ていたからなんです」と。

 日本国憲法の成立過程を調べるには、国会図書館のサイトがよい。ここには、日本側の文献、生の史料・資料、関係する個人のメモなども漏れなく収録されている。それゆえ、日本人の手になる憲法草案・私案もすべて集められている。それだけではなく、アメリカ公文書館の資料も憲法に関連する基本的なものはすべて収録されている。GHQの憲法問題の責任者だったホィットニー、直接の担当者だったラウエルのメモまで収録しているのだ。何よりもすばらしいのは、そうした文献、資料がすべて「テキスト」という形でその全文を見ることができるのだ。ただし、私は残念なことに英文を読めないので、GHQ関連の資料は読めないのだ。翻訳して日本文が添付してあると、助かるのだが。
 ただし、このサイトに紹介されているのは、所蔵している膨大な資料のうちのほんの一部である。しかし、重要と思われるものは、ほぼ網羅しているのではないかと思われる。

 さらに、よいことには時系列で配列し、内容ごとに簡単な概説が加えられている。それが、そのまま日本国憲法制定史の簡単な概説書になるようになっているのだ。さらには親切に、年表や人物紹介まで付けているのだ。このサイトを作った人の苦労がしのばれる。この優れものを利用しない手はない。

 GHQ・マッカーサーは一貫して、日本が自主的に新憲法を作成・制定することを望んでいた。日本側の憲法改正の動きのきっかけなったのが、1945年10月4日の近衛文麿国務相(東久邇宮内閣)とマッカッサーの会談であった。その席上、近衛が政府組織についての意見を求めたのに対し、マッカッサーが「憲法ハ改正ヲ要スル」と示唆した。これを受けて、日本側の憲法改正の動きが活発化することとなった。

 10月13日、幣原喜重郎内閣は、正式に憲法改正案作成の着手に取り組むことを決め、松本烝治国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会の発足が決定した。この結果、憲法改正作業は、近衛を中心とする内大臣府と政府の機関である憲法問題調査委員会の両者で進められることになった。

 こうしたなか、日本国内では各種組織の案や、学者その他個人の私案など、相次いで発表されるようになり、憲法改正へ向けた日本国内の気運の高まりがみられた。日本自由党・進歩等や社会党など各政党もそれぞれ試案を発表していった。これらの改正案はほとんどすべて、明治憲法の一部手直し程度の案で、明治以降の天皇制をそのまま受け継ぐような案であった。

 民間での憲法制定の準備・研究を目的として結成された「憲法研究会」は、改正案「憲法草案要綱」を発表し、GHQにも提出した。この内容は民主的な内容で、他の案とは大きくことなるものであった。国民主権の原則を採用し、天皇は「国家的儀礼」を司るとものして天皇制を残すという内容のものであった。

 民生局のラウエルはこの「憲法研究会」の案「憲法草案要綱」に注目し、これに綿密な検討を加え、その所見をまとめた。(ラウエル・メモ)彼は、憲法研究会案の諸条項は「民主主義的で、賛成できる」とし、かつ国民主権主義や国民投票制度などの規定については「いちじるしく自由主義的」と評価している。憲法研究会案とGHQ草案との近似性は早くから指摘されていたが、1959(昭和34)年にこの文書(ラウエル・メモ)の存在が明らかになったことで、憲法研究会案がGHQ草案作成に大きな影響を与えていたことが確認された。

 翌年にはいって、政府の憲法調査会の草案作りはやっとまとまってきた、2月1日の毎日新聞が、その草案をスクープして紙上に全文を掲載した。その内容は明治憲法の一部手直し程度のものなので、それを見て憤ったマッカーサーはただちに、2月3日にホイットニーに憲法案作成を指示した。わずか1週間で民生局は改正案を作成し、マッカーサーに2月10日に提出している。

 GHQがこれまでの政策を転換し、GHQの手で改正案を作っているということをまったく知らなかった日本政府は、憲法調査会案の受け取りを拒否され、2月13日にGHQ草案が手交されたのである。この時の政府関係者の驚愕は大きかったそうである。


日本国憲法の成立をめぐって その2

1.ポツダム宣言受諾に際しての米国政府内の意見対立
 8月10日の御前会議で国体護持を条件にポツダム宣言受諾を決定した、日本政府は中立国を通じて、「国体護持」を条件に受け入れると、連合国に申し入れた。それを受けてアメリカ政府はその取り扱いを検討する。そのホワイトハウスでの会議は長時間にわたった。スチムソン陸軍長官は、「流血の硫黄島、沖縄の繰り返しを避けるため」と「ソ連軍の日本本土侵攻を避けるため」に、この条件を認めるべきだと主張した。軍関係者は賛成したが、バンーンズ国務長官は強烈に反対し、あくまでも無条件降伏であるべきだと主張し、会議はまとまらなかった。翌日、トルーマン大統領は、妥協案を採用し、バンーンズ回答書が日本へ伝えられることになった。
 それは「天皇および日本政府の国を統治する権限は連合国最高司令官に属する」、「日本の究極的政治形態はポツダム宣言に従い、日本国民が自由に表明する意思に従い決定される」というものであった。日本は8月14日の午前会議で最終的に受諾を決定したのだ。
 バンーンズ回答書の前者は天皇を残した形での間接統治、後者は天皇制については日本国民の意思にまかせる、という内容である。そして、この回答書が、その後の天皇の戦争責任を免責する根拠になっていくのである。
 
2.アメリカ政府の日本占領基本政策-(省略)
 
3.憲法制定についてのGHQの基本的態度
米国政府の憲法改正についての基本方針は「日本の統治体制の改革」(1946年1月7日)に始めて記されている。「選挙民に責任を負う政府の樹立、基本的人権の保障、国民の自由意思が表明される方法による憲法の改正といった目的を達成すべく、統治体制の改革を示唆すべきである」とし、憲法改正は、日本側が自主的に行うように導かなければ日本国民に受容されないので、改革の実施を日本政府に「命令」するのは、「あくまで最後の手段」であることを強調している
『日本側に自主的に作らせる』というこの方針を、マッカーサーもGHQも受け継いでいたことは明らかである。GHQ文書、その幹部のメモを見てもそう言える。

4.日本側の憲法改正案の内容とその特徴
 幣原内閣の閣議で研究開始を決定したのに続いて、民間でも様々な議論が交わされ新聞紙上を賑わせた。
 幣原内閣の「憲法問題調査委員会」の案がまとまるのはよく1946年2月2日のことであった。その前日の毎日新聞のスクープで、その内容を知ったGHQは、そのあまりにも時代錯誤的な内容に驚いたのだ。
  第一条 日本国は君主国とする。
  第二条 天皇は君主にして此の憲法の条規に依り統治権を行う
  第三条 皇位は皇室典範の定むる所に依り万世一系の皇男子孫之を継承す
  第十条 天皇は行政各部の官制及び官吏‥‥を任命す
 「わが国は君主国であり天皇は統治県を総攬する根本原則には些かの変更もなく」と説明しているように、明治憲法をそのまま引き継ぐ内容であった。驚くべきことには、勅令の発布権まで天皇に認めているのである。

5.GHQの政策・態度の転換
 この『毎日新聞』によるスクープ記事は、GHQが日本政府による自主的な憲法改正作業に見切りをつけ、独自の草案作成に踏み切るターニング・ポイントとなった
 マッカーサーは、ただちに憲法改正を日本側にまかせる態度を転換し、2月3日に民生局へ憲法草案の作成を指示した。ラウエルらはわずか1週間で原案を作成し、マッカーサーは2月12日にその草案を承認した。
 ラウエルは、GHQ草案作成にはいる以前に目を通した、憲法研究会の案「憲法草案要綱」に注目していた。ラウエルがこれに綿密な検討を加え、その所見をまとめたメモが国会図書館に所蔵されている。彼は、憲法研究会案の諸条項は「民主主義的で、賛成できる」とし、かつ国民主権主義や国民投票制度などの規定については「いちじるしく自由主義的」であると評価している。
 GHQ草案作成をわずか1週間で仕上げるには、この検討済みで内容に賛成していた憲法研究会案を下敷きに使う以外に道はなかった、

6.憲法研究会の「憲法草案要綱」の内容
 憲法研究会のメンバーは、高野岩三郎、馬場恒吾、杉森孝次郎、森戸辰男、岩淵辰雄、室伏高信、鈴木安蔵の7名である。
 その草案の内容を次に示す。(条文を部分的に次に引用する)

 国家の統治権にかかわる部分では、国民主権を明確にし、天皇は国家的儀礼のみを担当するとしている。現在の象徴天皇制とほぼ似た内容である。
一、日本国ノ統治権ハ日本国民ヨリ発ス
一、天皇ハ国政ヲ親ラセス国政ノ一切ノ最高責任者ハ内閣トス
一、天皇ハ国民ノ委任ニヨリ専ラ国家的儀礼ヲ司ル
一、天皇ノ即位ハ議会ノ承認ヲ経ルモノトス

 国民の権利義務については、国民の請願権、発案権、国民投票権を規定するなど、すぐれた内容を持っている。
一、国民ハ法律ノ前ニ平等ニシテ出生又ハ身分ニ基ク一切ノ差別ハ之ヲ廃止ス
一、国民ノ言論学術芸術宗教ノ自由ニ妨ケル如何ナル法令ヲモ発布スルヲ得ス
一、国民ハ国民請願国民発案及国民表決ノ権利ヲ有ス
一、国民ハ労働ニ従事シ其ノ労働ニ対シテ報酬ヲ受クルノ権利ヲ有ス
一、国民ハ健康ニシテ文化的水準ノ生活ヲ営ム権利ヲ有ス
一、国民ハ休息ノ権利ヲ有ス国家ハ最高八時間労働ノ実施勤労者ニ対スル有給休暇制‥‥
一、男女ハ公的並私的ニ完全ニ平等ノ権利ヲ享有ス

 上記の「国民ハ健康ニシテ文化的水準ノ生活ヲ営ム権利ヲ有ス」という条文は、現憲法の第25条「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という形でそのまま生かされている。この生活権・生存権の考え方は、欧米の基本的人権の理念のなかには含まれていなかった内容である。したがってラウエルらが考え付くはずはない。明らかに、この憲法研究会案を下敷きにした証拠である。
 民生局内部の原案作成作業について、一連の作業経過が分る資料が国会図書館に所蔵されている。この分析をする余裕は今回なかった。

6.まとめに代えて
 保守系論客の言う「日本国憲法はアメリカが押し付けたものだ」という見解は誤っていることは、以上の私の分析で理解してもらえるはずである。
 1946年2月2日以前においては、アメリカ政府もGHQも一貫して、日本が自主的に憲法改正を進めることを期待していたのは明らかである。これを否定することは、きちんとした資料が残されている以上、不可能である。

 では、2月3日のマッカーサー民生局への指示については、私はこう思う。松本烝治ら政府案作成にあたった人たち、幣原喜重郎首相は政権中枢の人たちの、あまりにも時代錯誤的な暗愚さがこの結果を生んだと言わざるを得ない。天皇制を明治期と同じ形で温存することの不可能なことは、明らかであったにも関わらず、明治憲法の部分的手直しで連合国側が受け入れるであろうという甘い観測がどこから出てきているのであろうか。彼等の手記や関連メモが残されているので、こうした分析も可能である。

 民生局のラウエルが、わずか1週間でGHQ草案をまとめた経過は前に述べたとおりである。あきらかに、憲法研究会の「憲法草案要綱」を下敷きにしていたであろうことも前に述べたとおりである。
 保守系論客や自民党など改憲論者が「アメリカに押し付けられた」という主張は、憲法第9条を改正の理由付けに利用しているのに過ぎない。
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1 コメント

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感謝。 (楽石)
2007-04-30 19:30:01
丁寧な解説をありがとうございます。
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