ポーランド戦の「敗北による勝ち抜け狙い」に、やはり一言。
この問題についてその後、多くの専門家らの意見を読んでみたが、「当然」とばかりに賛成している人がほとんどで、それが気になって仕方なかった。言うならば、日本人らしい「専門馬鹿ばかり」と思えたものだ。つまり、思考、判断の領域が狭い。どのようにそうなのか? 一言で言えば「勝ち抜け至上主義」に偏っていて、スポーツにおける最も大切な物を見ることができていない。その最も大切なモノこそ、スポーツを人類文化(活動)たらしめている要素なのだと思う。
さて、端的に問うてみたい。スポーツは勝ち抜けが全てなのか? 違うと思う。少なくとも勝ち抜けと同じほど大切なものがあるのだが、ポーランド戦ではそれが全く無視されてしまったと、そこを僕は強調したい。(チーム・スポーツ・ゲームの)勝利目指して人として最大限のプレーを行い、個人・組織の極限の力をだすという本質的側面が無視されてしまった。日本人が苦手な文化活動としてのスポーツということをこそ、ここで僕は強調したいのである。このゲームも勝つことによって勝ち抜けをも目指すべきだったのだと、その結果たとえゲームに負けて勝ち抜けに失敗することがあったとしても、そうすべきだったのだと、僕は強調したい。
現に、あのゲームの観客が、途中で続々と帰って行く様がテレビで映し出されていた。「勝ち抜けのために、このゲームは敗退選択」ということによって、スポーツ自身を放棄し、これを観たい人を無視したのである。勝ち抜けにだけ拘る人々はテレビを観ていた世界の人人でも圧倒的に少なかったはずであって、そういう人々こそが、勝ち抜けではなく、スポーツを求めている人々なのだろう。他方、賛成した人々はやはり、スポーツを文化としてみないで勝ち抜けだけを見る人だったのではないか。特に多くの批判が西欧先進国から上がっていたのも、スポーツを人類の文化と見る観点からだったはずだ。
ここでさらに一言追加をしたい。勝ち抜けだけに拘り過ぎる風習は、長い目で観ればそのスポーツ自身をダメにしていくのではないか。
「合法なものであっても、反則は見苦しい」
「ネイマールのダイブは見苦しい」
「一生反則をしなかったリネカーは、とても立派だ」
米大陸流プロスポーツ主義が勝敗こそ全てという風習を作って、スポーツを汚してきたのではないか? 日本人は近代ポーツ発生時のアマチュアリズムをもう一度思い出すべきではないだろうか。レスリング、アメリカンフットボール、アマチュアボクシング、チアリーディング、相撲、柔道、バドミントン、などなど大変な構造的不祥事と思われるものが多発しているだけに、こういう論議が今改めてこの国で大切になっているのではないか。
『勝敗だけに拘りすぎると、スポーツはどんどん醜いモノになっていく』
この問題についてその後、多くの専門家らの意見を読んでみたが、「当然」とばかりに賛成している人がほとんどで、それが気になって仕方なかった。言うならば、日本人らしい「専門馬鹿ばかり」と思えたものだ。つまり、思考、判断の領域が狭い。どのようにそうなのか? 一言で言えば「勝ち抜け至上主義」に偏っていて、スポーツにおける最も大切な物を見ることができていない。その最も大切なモノこそ、スポーツを人類文化(活動)たらしめている要素なのだと思う。
さて、端的に問うてみたい。スポーツは勝ち抜けが全てなのか? 違うと思う。少なくとも勝ち抜けと同じほど大切なものがあるのだが、ポーランド戦ではそれが全く無視されてしまったと、そこを僕は強調したい。(チーム・スポーツ・ゲームの)勝利目指して人として最大限のプレーを行い、個人・組織の極限の力をだすという本質的側面が無視されてしまった。日本人が苦手な文化活動としてのスポーツということをこそ、ここで僕は強調したいのである。このゲームも勝つことによって勝ち抜けをも目指すべきだったのだと、その結果たとえゲームに負けて勝ち抜けに失敗することがあったとしても、そうすべきだったのだと、僕は強調したい。
現に、あのゲームの観客が、途中で続々と帰って行く様がテレビで映し出されていた。「勝ち抜けのために、このゲームは敗退選択」ということによって、スポーツ自身を放棄し、これを観たい人を無視したのである。勝ち抜けにだけ拘る人々はテレビを観ていた世界の人人でも圧倒的に少なかったはずであって、そういう人々こそが、勝ち抜けではなく、スポーツを求めている人々なのだろう。他方、賛成した人々はやはり、スポーツを文化としてみないで勝ち抜けだけを見る人だったのではないか。特に多くの批判が西欧先進国から上がっていたのも、スポーツを人類の文化と見る観点からだったはずだ。
ここでさらに一言追加をしたい。勝ち抜けだけに拘り過ぎる風習は、長い目で観ればそのスポーツ自身をダメにしていくのではないか。
「合法なものであっても、反則は見苦しい」
「ネイマールのダイブは見苦しい」
「一生反則をしなかったリネカーは、とても立派だ」
米大陸流プロスポーツ主義が勝敗こそ全てという風習を作って、スポーツを汚してきたのではないか? 日本人は近代ポーツ発生時のアマチュアリズムをもう一度思い出すべきではないだろうか。レスリング、アメリカンフットボール、アマチュアボクシング、チアリーディング、相撲、柔道、バドミントン、などなど大変な構造的不祥事と思われるものが多発しているだけに、こういう論議が今改めてこの国で大切になっているのではないか。
『勝敗だけに拘りすぎると、スポーツはどんどん醜いモノになっていく』
戦前日本には、「体育」と「道」があっただけだ。柔道、剣道、弓道、相撲道・・・。戦前にも五輪スポーツは行われていたが、これらは学生スポーツとも結びついて「体育」の延長ではなかったか。軍国主義の時代には、この体育によって強い兵士を作ることこそ、国家の最大関心事となっていた。
そして、戦前戦後とも日本特有のプロ野球の隆盛。この野球界と相撲界とに限っては、プロがアマを支配して来たと言っても過言ではない。
こういう日本のスポーツの歴史においては、スポーツを身体文化ととらえる観点、思想がなかなか育たなかった。だからこそ、簡単に勝敗至上主義に陥ってしまった。勝利至上主義はこんな特徴を持っている。
・応援しているチームが負けると、毒つく。いくら良いプレーがあっても負けるとだめとなりがちだ。ここでも、ポーツ自身を見て、評価していないということだろう。
・贔屓チームが負けたということは、相手チームが勝ったことであって、いわゆる相手へのリスペクトが欠ける。大事な国際ゲームで負けた時などに暴動のようなことがおこるのも、こういうスポーツ観の延長とも言えないか。
・勝てばどんなプレーも許されるというようなところもあるが、スポーツ自身を汚すようなやり方ではないか。はっきりとしたスポーツルールの他に、スポーツ精神に基づいたスポーツ倫理というものもあるはずだが、プロの勝利至上主義がこれをどんどん汚してきたということはなかったか。
・などなど・・・・
ネイマールの次ぐらいにアレだけど、
文ちゃんは、触りたがらないよね。