関電は昨日午前、資源エネルギー庁から再稼働作業に入るよう指示をを受けたとし、「さあ、これでお墨付きはもらった!」と嬉々として発表したのであったが、実際に資源エネルギー庁からその指示があったのはその20分後、発表の時点ではまだその指示は出ていなかった。
なぜそんなことが起こるのかといえば、この再稼働へ向けての一連の動きは完全な出来レースで、その間に「各機関で慎重な検討する」というのも単に茶番に過ぎなかったことを示している。
ようするに、「国民の安全、安心のために」を大義名分にしながらも、その過程ははじめに再稼働ありきの脚本に従った「儀式」ないしなマニュアルにしか過ぎなかったということだ。
したがって、この発表は関電のミスではない。関電は「とっくに決まっていた」シナリオに基づいて「さあ、出番」と発表したのみで、その間の時間的ズレはその進行を担当した舞台監督の「ちょっとしたキューの出し間違え」にしか過ぎないのだ。
ところで、これを知ったのは今日の「朝日」の朝刊(2面)であるが、その扱いは単なるエピソードとして囲み記事で報じられているのみだった。ようするに、メディアも、この間の過程が全くの出来レースであることを知っていながら、それをチェックするどころか、「世の中ってそんなもんですよ」と完全に肯定しきっているということである。それが怖い。
そうした観点からは、こうしてその事態の重要性を改めて指摘する方が、なんだか野暮で世間知らずの言い分とされ、国民の生命に関する密室での大談合が、「そんなのあってあたりまえでしょう」で済まされてゆくのだ。
まさに「暗い日曜日」である。
なぜそんなことが起こるのかといえば、この再稼働へ向けての一連の動きは完全な出来レースで、その間に「各機関で慎重な検討する」というのも単に茶番に過ぎなかったことを示している。
ようするに、「国民の安全、安心のために」を大義名分にしながらも、その過程ははじめに再稼働ありきの脚本に従った「儀式」ないしなマニュアルにしか過ぎなかったということだ。
したがって、この発表は関電のミスではない。関電は「とっくに決まっていた」シナリオに基づいて「さあ、出番」と発表したのみで、その間の時間的ズレはその進行を担当した舞台監督の「ちょっとしたキューの出し間違え」にしか過ぎないのだ。
ところで、これを知ったのは今日の「朝日」の朝刊(2面)であるが、その扱いは単なるエピソードとして囲み記事で報じられているのみだった。ようするに、メディアも、この間の過程が全くの出来レースであることを知っていながら、それをチェックするどころか、「世の中ってそんなもんですよ」と完全に肯定しきっているということである。それが怖い。
そうした観点からは、こうしてその事態の重要性を改めて指摘する方が、なんだか野暮で世間知らずの言い分とされ、国民の生命に関する密室での大談合が、「そんなのあってあたりまえでしょう」で済まされてゆくのだ。
まさに「暗い日曜日」である。
彼は昨年、「自然権を振り回し、ひとりホッブズ的な世界を生きてきた管首相は全く理解不能」(八月12日付)と記した記者。
1面で「決める政治 公約捨てた」とよく判らない見出しの筆者は曽我豪氏。麻生首相の論文(文藝春秋)代筆を自ら吐露し、「原発への忌避感が強い国民世論を説得することが政府の義務」と説いたこの人が政治部長。
そしてユーストリームで池袋のエプロンデモ、おおい町の座り込み現場の中継をボーと見ていて、気が付いたら日曜が終わりそうです。