私は昭和十七年一月日本放送協会(現NHK)に入社、技術部に所属していた。
昭和十九年十二月から一年間軍隊にいた。
その間四月から十二月まで中国にいた。
これが昭和激動の時代であった。
復員後日本放送協会に復職、八月十五日の放送局の模様を、
当時の技術担当者から直接聞くことが出来た。
「玉音放送」の録音盤のことも聞いたが、
当時の記録はすべて廃棄したので「玉音放送」は聞くことは不可能であった。
民間放送の開始とともに名古屋のCBCに入社した。
戦後十年位経過した頃、玉音放送録音盤と関係が新しく始まった。
私と日本放送協会に同期に入社した先輩寺田さんが、
CBCに入社東京支社で同僚として仕事を始めた。
その時「玉音放送」を聞かせてくれた。
始めて聞いた天皇陛下の声しかも実に鮮明で雑音もない。
当時NHKの放送では「玉音放送」は雑音の中から聞こえる声であった。
寺田さんは「玉音放送」の複製盤を自宅に持っている。
そのコピーである。
寺田さんは終戦の八月頃は中継局勤務で放送会館にはいなかった。
戦後会館の録音室勤務となった。
戦後アメリカ軍将校に「玉音放送」録音盤の複製を依頼された。
当時の複製担当者春名氏と寺田氏は複製盤を三枚作成した。
その一枚は春名氏の録音盤、現在NHKで保存されている「玉音放送」である。
もう一枚が同僚だった寺田さんが預かった。
戦後十年経過した頃、「玉音放送」のテープに複製したコピーを
寺田さんから聞かされた。
複製盤は十回再生すると雑音で聞けなくなる。
いままで三回再生した。
現在NHKで放送される玉音放送より音は良質である。
録音盤の雑音は少なく天皇陛下の声が鮮明に録音されている。
このときはじめて玉音放送をゆっくりと聞くことが出来た。
戦後二十八年八月十五日午後二時、寺田さん保存の録音盤は、
CBCテレビ「ワイドショー&YOU」で放送された。
寺田さんの一生をかけた執念の昭和音風景「玉音放送」
録音盤コピーは、CBC資料室に保存されている。
寺田さんは平成十二年病気のため亡くなられた。
戦後三十年頃、友人から手書きの「戦争終結の詔書」のコピーをいただいた。
「玉音放送」を聞くときはこの詔書を開いて、難解な漢字文を目で確かめて聞く。
明解な理解が出来るようになった。
終り
昭和十九年十二月から一年間軍隊にいた。
その間四月から十二月まで中国にいた。
これが昭和激動の時代であった。
復員後日本放送協会に復職、八月十五日の放送局の模様を、
当時の技術担当者から直接聞くことが出来た。
「玉音放送」の録音盤のことも聞いたが、
当時の記録はすべて廃棄したので「玉音放送」は聞くことは不可能であった。
民間放送の開始とともに名古屋のCBCに入社した。
戦後十年位経過した頃、玉音放送録音盤と関係が新しく始まった。
私と日本放送協会に同期に入社した先輩寺田さんが、
CBCに入社東京支社で同僚として仕事を始めた。
その時「玉音放送」を聞かせてくれた。
始めて聞いた天皇陛下の声しかも実に鮮明で雑音もない。
当時NHKの放送では「玉音放送」は雑音の中から聞こえる声であった。
寺田さんは「玉音放送」の複製盤を自宅に持っている。
そのコピーである。
寺田さんは終戦の八月頃は中継局勤務で放送会館にはいなかった。
戦後会館の録音室勤務となった。
戦後アメリカ軍将校に「玉音放送」録音盤の複製を依頼された。
当時の複製担当者春名氏と寺田氏は複製盤を三枚作成した。
その一枚は春名氏の録音盤、現在NHKで保存されている「玉音放送」である。
もう一枚が同僚だった寺田さんが預かった。
戦後十年経過した頃、「玉音放送」のテープに複製したコピーを
寺田さんから聞かされた。
複製盤は十回再生すると雑音で聞けなくなる。
いままで三回再生した。
現在NHKで放送される玉音放送より音は良質である。
録音盤の雑音は少なく天皇陛下の声が鮮明に録音されている。
このときはじめて玉音放送をゆっくりと聞くことが出来た。
戦後二十八年八月十五日午後二時、寺田さん保存の録音盤は、
CBCテレビ「ワイドショー&YOU」で放送された。
寺田さんの一生をかけた執念の昭和音風景「玉音放送」
録音盤コピーは、CBC資料室に保存されている。
寺田さんは平成十二年病気のため亡くなられた。
戦後三十年頃、友人から手書きの「戦争終結の詔書」のコピーをいただいた。
「玉音放送」を聞くときはこの詔書を開いて、難解な漢字文を目で確かめて聞く。
明解な理解が出来るようになった。
終り
年に一回、教材にしてきました。
学生たちは、存在は知っているので、
それなりに興味を持ってくれました。
一字一字、意味を解説していくと、
なるほど、という顔をしていました。
案外、次世代に戦争を伝えるには
良い素材だと思いますよ。