たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

『アガサ・クリスティー自伝』(下)-「第二次大戦Ⅱ」より

2023年02月07日 11時45分19秒 | 本あれこれ
『アガサ・クリスティー自伝』(下)-「第二次大戦Ⅰ」より
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/36fb424f20a354895451a17c864ac34d




「それから数カ月もわたしたちには何の新しい知らせもなかった。ロザリンドが知らせを受けてから丸24時間わたしには何もいわなかった。娘はいつもと変わらない様子をしていた・・・これまでも娘はいつも大へんな勇気ある人物であった。しまいに、いうのはいやだが、いわなくてはすまされないことと知って、娘はいきなりいった、「お母さん、これを見てくれたらいいと思うわ」とわたしに電報を手渡した。それには、彼が戦闘中に戦死したものとして明確に取扱われることが報じられていた。

 人生での最も悲しいこと、耐えぬくのに最もむずかしいことは、自分の最も愛する者を苦しみ悩みから救うことができないとわかることである。人の肉体的な不自由を援助する何らかのことはできるが、心の痛みを助ける何のこともできはしない。わたしは間違っているかもしれないけれど、ロザリンドを助けてやるのに最もいいことは、できるだけ何もいわないで、いつもと変らずやっていくことだと考えた。それがわたし自身の場合でも同じ感じだろうと思った。誰からも話しかけられたくないか、事を大きくいってもらいたくない。これが娘のために一番よいこととわたしは期待したが、人のことはほんとはわかるものでない。わたしが強い断固としたタイプの母親で、娘を叱りとばし、もっとはっきり感情をむき出しにしなさいと強いるようだったら、娘にとってかえって楽だったかもしれない。直感には誤りなしとはいえない。人は愛するものを傷つけまいと、むごいほど念願する・・・間違ったことをしないようにと願う。わかっているつもりだけれど、絶対確実とはいえない。

 娘はプーリラッチの大きながらんとした家で、マシューと一緒に暮しつづけていた。マシューはかわいい少年で、わたしの記憶では、いつもとても幸せそうな少年だった。幸せをつかむこつを持っていた。今も持っている。(略)

 戦争のことを思う時、押し寄せてくる憤激の潮にやりきれないことが時々ある。英国ではあまりにも短い期間にあまりに多くの戦争があった。最初の戦争は、びっくりして、信じられないようなもので、全く意味のないもののように思われた。でも、人は相手が傷を受けて当分害はしなくなったと信じ、また望んでいたー同じドイツ人の心に戦争を望むことは再び起こらないだろうと信じ望んでいた。ところが起きた・・・今にしてわたしたちは、歴史の一部である文書から、ドイツは第二次大戦の来るずっと前何年も戦争の計画をたてていたことを知った。

 だが、人は戦争が何一つとして解決したものがないという恐るべきいやな感じのままにされているーまた戦争に勝つということは、負けるのと同時に悲惨なものだということ! 戦争には、かつては時と場所というものがあったと思うー戦争好きは別として、自分の種族が生きつづけることができず、・・・死に絶えるような時。おとなしく、やさしくしていて、楽に屈服すれば災害を招くとき、戦争は必要であった、というのは自分かそれとも相手のいずれかかが死滅しなければならなかったからだ。鳥や獣のように、自分の属する地域のために戦わねばならなかった。戦争は奴隷、土地、食料、女・・・生き延びるために必要なものをもたらした。だが今わたしたちは戦争を避けることを覚えなくてはならない、それはわたしたちの気質がおとなしいから、あるいは人を傷つけるのがいやということからではなくて、戦争は利益をもたらさず、戦争によって生き延びることもできず、敵も同じく、戦争によって破滅させられるからである。トラの時は終り、今、わたしたちはまさに悪党やぺてん師、泥棒、強盗やスリたちの時代を迎えている。だがその方がまだましなのだ・・・上へ向う一つの段階なのである。

 少なくとも、善意のようなものの夜明けはあるとわたしは信じている。わたしたちは地震があったと聞けば気にするし、人類に大へんな災害があったと聞けば心配する。助けてやろうと思う。それが本当の勝利なのだ・・・これがどこかへきっとつながるものとわたしは考える。決して早急にではなしに・・・何事もそう早急にできるものではない・・・だがとにかくわたしたちは希望がもてる。わたしたちは三大徳ー信義、希望、愛の中の二番目の美徳をあまり取上げないし、評価していないと時々考える。信義は、いうなら、わたしたちにはあまり過ぎるぐらいある・・・信義は人を鋭く、固く、容赦ないものとするし、信義は乱用もされる。愛はわたしたちの心の中の最高のものとしていやでも知っている。だが、同じように希望というものがあることをあまりにもしばしば忘れてはいまいか、また希望についてめったに考えることも忘れてはいまいか? わたしたちはあまりにもすぐ絶望しがちで、すぐこういいたがる、「何をしたったどうなる?」希望という美徳はこの現代にこの世代に最も育成しなくてはならない美徳である。

 わたしたちはわたしたちの手で福祉国家を作り上げ、それがわたしたちに不安からの解放を、安全を、日々の糧を、そして日々の糧以上のものを与えてくれたのだが、それでもなおこの福祉国家の中で、誰にとっても将来に期待をかけることが年々むずかしくなってきているようにわたしにはみえる。するだけの価値あるものは何もない。なぜか?わたしたちはもう生きるために戦わなくてもよいからだろうか?生きるということはもはや興味さえないのであろうか?生きているという事実の値打ちをたしたちはありがたく思えなくなっている。わたしたちには宇宙の困難さ、新しい世界の開発、違った種類の困窮や苦しみ、病気と苦痛、そして生存のための荒々しい熱望とが必要なのかもしれない。

 ええ、わたし自身は希望いっぱいの人間である。わたしから絶対消し去ることのできな一つの美徳は、希望だとわたしは思っている。そこにわたしが一緒にいて非常に報いられる人物、わたしの愛するマシューがいるのである。彼はどうしようもない楽天的性質を持ちつづけている。」


(『アガサ・クリスティー自伝(下)』乾信一郎訳 早川書房 1982年8月10日5刷、385-388頁より)