たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

三好春樹『関係障害論』より-「一方的関係が権力を生む」

2023年02月12日 10時15分02秒 | 本あれこれ


「フランスの哲学者で、ミッシェル・フーコーという人がいます。いきなり難しい話になりますが、それまでの権力論、権力がどうやって生まれるかというと、マルクス主義的な権力論が信じられていました。つまり階級があって、生産手段を持っている者と持っていない者がいて、生産手段を持っている者が搾取をして、それで権力が出来上がるというわけです。特権的な地位を上の階級が守るために権力が生じた、というわけですね。じゃあ、プロレタリアートが権力を取ったらどうなったかというと、別の権力ができただけでもっとひどかったということが、社会主義の崩壊で明らかになったわけです。

 ところが、フーコーの権力論は違います。権力はどうやって生まれるかというと、一方的にみる眼差しというのが、実は権力の発生基盤だと言うのです。つまり、こちら側からは見えて、向こうからは見えないという関係が、実は権力の始まりだということを言いました。

 そうすると、たとえば、専門家というのは、それだけで権力なんだということになります。医療の専門家はそれ自体、「権力者」だということになります。となると、知識の体系そのものが実は権力を創り出している、ということになります。フーコーは、権力というのは私たちの外にあるのではなくて、私たちの関係の中に縦横に存在しているものだとして、自分自身がいかに権力的でない関係を持ちうるか、ということを一生の課題とした人です。

 この一方的にみるということですが、介護現場では医者でなくても、誰もそうした「権力者」になってしまいます。監視カメラというのがあるでしょう。監視カメラを導入して省力化を図ろうなんていう施設がありますが、あれは、一介の寮母が老人に対して権力者になるということです。こちらからは見えて向こうからは見えないのです。

 しかも、あれは省力化にはなりません。ずっとモニターを見ているヤツが一人いるわけですから、ベッドサイドにも行かれません。

 ベッドサイドにいってスキンシップのひとつもすればおとなしく寝てくれるものを、何か起こらないかとモニターをじっと見ているわけです。ベッドサイドにいって老人の顔を見るというのは、権力的ではないのです。相手もこちらの顔を見えますからね。自分がどんな顔で相手を見ているのかということを、いつも相手の眼差しによって点検されることになります。だけど監視カメラだと、それがなくなってしまいます。だから権力者なんです。そして権力を持った人間は必ず堕落します。

 たとえば、精神病院など閉鎖的なところで、職員がすごく堕落していくということをよく見聞きします。老人ホームでもそうです。自分の権力性みたいなものに精神が堕落させられていくということです。

 フーコーは、そういう一方的に見るというシステムが完成したのは近代社会だ、と言っています。たとえば、工場には働いている人がいて、それを一方的に監視する人がいる。また、学校も、教師が上にいて一方的に上から生徒を見ている。こういう構造も一つの権力だ、という言い方をしています。その典型的なものは刑務所だとも言っています。だいたい刑務所に習って工場も学校もできたということを、『監獄の誕生』という本で明らかにしていますが、この中に監獄に行った人はいないでしょうね。行ったとしても手を挙げないでしょうけど。

(略)

 留置場の構造というのは、まさにこれです。

 監視する警察官がここにおりますと、留置場の房というのは、半円状になっていて、壁で仕切られています。ですから、お互い同士は全然見えないけれど、監視する側からは全部が見えるというふうになっています。生活全部を24時間見られる、ということです。

 しかも、房はけっこう明るいのです。向こうは暗いのです。だから相手が見ているかどうかよくわからないのだけど、見ているかもしれないという意識がずっとあります。トイレなども隠れてはできません。片隅に腰くらいの高さの塀があって、そこに座って上半身は出るのですが、そこでトイレをします。終わると、自分では水を流せませんから、看守に「3房、大」とか「3房、小」とか言います。あっ、私の入っていたのが第3房だったんです。私はさすがに10日間くらいは便が出なかったです。なんてデリケートなんだろうと思いました。とにかく全部見られるということです。これがいわば権力だという言い方をするわけです。」

(三好春樹『関係障害論』1997年4月7日初版第1刷発行、2001年5月1日初版第6刷発行、㈱雲母書房、21-26頁より)