たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

旅の思い出-中国・成都をたずねて

2023年02月23日 19時46分56秒 | 小さな旅の思い出
 昨晩、アドベンチャーワールドから成都へと里帰りしたジャイアントパンダの永明(えいめい)、桜浜(おうひん)、桃浜(とうひん)が成都双流国際空港に到着した時のライブ映像をみていて懐かしく思い出しました。わたしが成都をたずねたのは1999年4月初めのことでした。

 成都はパンダの故郷、三国志ゆかりの地。武侯祠(諸葛孔明廟・三国志聖地)、宝光寺(北郊外新都区にある隋代創建の古刹)、杜甫草堂などを訪れました。市内バスに乗ったりもしました。切符を販売する女性が乗ってくると、切符を購入するときの乗客とのやりとりが、言葉がわからないため、喧嘩しているようにきこえたのも楽しい思い出です。空は灰色にみえましたが、いつも薄曇りでその日は晴れているということでした。自分があまりにも不甲斐なく、至らな過ぎて交流は途切れましたが知り合った女性のおじいさんの家に泊めていただき、親戚の家でご馳走してくれました。親戚という血が日本よりもずっと濃いと感じました。おじいさんは元軍人で台湾にも家を持っているという、おそらくかなり上流階級の上品な方でした。成都の空港に着いたのは夜でした。迎えの車で空港近くのレストランによってくれました。ものすごいご馳走で、女性がこれはわたしのお給料の一か月分だったかもっとだったかに相当する料金だからたくさん食べてねと言ってくれましたががとても食べきれないのが残念でした。誰もが日本は一億総中流階級だと思い込んでいた頃の話。

 使い捨てカメラで撮った写真を捨てきれずにまだ持っています。場所をとるものではないので、あの世へ旅立つ時のお供として一緒に燃やしてもらいたいものの候補としておきましょうか。この世にいる間に、いつかもう一度、今度は九寨溝を訪れたいと思っていましたが変形性膝関節症の末期によりもう叶いません。中国は新疆ウイグル自治区、成都、大連と三回旅しました。身に余る贅沢を十分にしてきました。

 帰りは北京経由、北京市内のホテルで一泊しました。知り合いの男性に送迎してくれるよう手配してくれて、カタコト英語でなんとかなったんだったかな。北京動物園を一人で訪れました。チケットを購入するとき、我先にと買いたい人の山で自分もがんばらないと永久に買えないと声を出したことを思い出します。ジャイアントパンダはここでも特別扱いでした。アドベンチャーワールドのHPをみると、16頭の子宝に恵まれたスーパーお父さん、永明さんは1992年北京動物園生まれ。
















フランクル『夜と霧』より-医師、魂を教導する

2023年02月23日 12時33分21秒 | 本あれこれ
『夜と霧』より_生きる意味を問う
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/677e7f114445e55d3034cc5bcf39c508


『夜と霧』より_生きる意味を問う_続き
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/b623e57cc15f729a6d958ae8467e93e6



『夜と霧』より_精神の自由
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/1e91fff232b8d5c50dfb13cf392a3df6





「こうして、わたしは語りはじめた。とらわれのない目には、お先真っ暗だと映ってもしかたない、と言った。また、わたしたちはそれぞれに、自分が生き延びる蓋然(がいぜん)性は低いと予測しているだろう、ともつけ加えた。収容所にはまだ発疹チフスはひろまっていなかったが、生存率は五パーセントと見積もっていた。そして、そのことを人びとに告げた。わたしは、にもかかわらずわたし個人としては、希望を捨て、投げやりになる気はない、とも言った。なぜなら、未来のことはだれにもわからないし、つぎの瞬間自分になにが起こるかさえわからないからだ。そして、たとえあしたにも劇的な戦況の展開が起こるとは期待できないとしても、収容所での経験から、すくなくとも個人のレベルでは大きなチャンスは前触れもなくやってくることを、わたしたちはよく知っている。たとえば、とびきり労働条件のいい特別中隊への小規模な移送団に思いがけなく編入されるとか、同じような羨望の的の、被収容者を「幸福」で舞い上がらせるようなことは、いつも突然起こるのだ。

 わたしは未来について、またありがたいことに未来は未定だということについて、さらには苦渋に満ちた現在について語ったが、それだけでなく、過去についても語った。過去の喜びと、わたしたちの暗い日々を今なお照らしてくれる過去からの光について語った。わたしは詩人の言葉を引用した。

「あなたが経験したことは、この世のどんな力も奪えない」

 わたしたちが過去の充実した生活のなか、豊かな経験のなかで実現し、心の宝物としていることは、なにもだれも奪えないのだ。そして、わたしたちが経験したことだけでなく、わたしたちがなしたことも、わたしたちが苦しんだことも、すべてはいつでも現実のなかへと救いあげられている。それらもいつかは過去のものになるのだが、まさに過去のなかで、永遠に保存されるのだ。なぜなら、過去であることも一種のあることであり、おそらくはもっとも確実なあることなのだ。

 そしてわたしは最後に、生きることを意味で満たすさまざまな可能性について語った。わたしは仲間たちに語った。横たわる仲間たちはひっそりと静まり返り、ほとんどぴくりとも動かなかった。せいぜい、時折かすかにそれとわかるため息が聞こえるだけだった。人間がいきることには、つねに、どんな状況でも、意味がある、この存在することの無限の意味は苦しむことと死ぬことを、苦と死をもふくむものだ、とわたしは語った。そしてこの真暗な居住棟でわたしの話に耳をすましている哀れな人びとに、ものごとを、わたしたちの状況の深刻さを直視して、なおかつ意気消沈することなく、わたしたちの戦いが楽観を許さないことは戦いの意味や尊さをいささかも貶めるものではないことをしっかり意識して、勇気をもちつづけてほしい、と言った。わたしたちひとりひとりは、この困難なとき、そして多くにとっては最期の時が近づいている今このとき、だれかの促すようなまなざしに見下ろされている、とわたしは語った。だれかとは、友かもしれないし、妻かもしれない。生者かもしれないし、死者かもしれない。あるいは神かもしれない。そして、わたしたちを見下ろしている者は、失望させないでほしいと、惨めに苦しまないでほしいと、そうではなく誇りをもって苦しみ、死ぬことに目覚めてほしいと願っているのだ、と。

 そしてしめくくりとして、犠牲としてのわたしたちについて語った。いずれにしても、そのことに意味はあるのだ、と。犠牲の本質は、政治的理念のための自己犠牲であれ、他者のための自己犠牲であれ、この空(むな)しい世界では、一見なにももたらさないという前提のもとになされるところにある、と。もちろん、わたしたちのなかの信仰をもっている者には、それは自明のことだろうし、わたしもそのひとりだ、と。

 わたしは、ひとりの仲間について語った。彼は収容所に入ってまもないこと、天と契約を結んだ。つまり、自分が苦しみ、死ぬなら、代わりに愛する人間には苦しみに満ちた死をまぬがれさせてほしい、と願ったのだ。この男にとって、苦しむことも死ぬことも意味のないものではなく、犠牲としてのこよなく深い意味に満たされていた。彼は意味もなく苦しんだり死んだりすることを望まなかった。わたしたちもひとり残らず、意味なく苦しみ、死ぬことは欲しない。この究極の意味をここ、この居住棟で、今、実際には見込みなどまるでない状況で、わたしたちが生きることにあたえるためにこそ、わたしはこうして言葉をしぼりだしているのだ、とわたしは語り納めた。

 わたしの努力が報われたことを知ったのは、それからほどなくのことだった。居住棟の梁(はり)に電球がひとつともった。そしてわたしは、涙を浮かべてわたしのほうへ、礼を言おうとよろめき寄ってくるぼろぼろの仲間の姿を見たのだ。しかし、この夜のように、苦しみをともにする仲間の心の奥底に触れようとふるい立つだけの精神力をもてたのはごくまれなことで、こうした機会はいくらでもあったのにそれを利用しなかったことを、わたしはここで告白しなければならない。」


(ヴィクトール・E・フランクル、池田香代子訳『夜と霧(新版)』2002年 みすず書房、137- 140頁より)