「強制収容所の人間の内面生活がいびつに歪むのは、つきつめればさまざまな心理的身体的なことが要因となってそうなるのではなく、最終的には個々人の自由な決断いかんにかかっていた、延べたが、これはもっとくわしく説明すべきだろう。
被収容者を心理学の立場から観察してまず明らかになるのは、あらかじめ精神的にまた人間的に脆弱な者が、その性格を展開していくなかで収容所世界の影響に染まっていく、という事実だった。脆弱な人間とは、内的なよりどころをもたない人間だ。では、内的なよりどころはどこに求められるのだろう、というのが、つぎの問いだ。
元被収容者についての報告や体験記はどれも、被収容者の心にもっとも重くのしかかっていたのは、どれほど長く強制収容所に入っていなければならないのかまるでわからないことだった、としている。被収容者は解放までの期限をまったく知らなかった。もしも解放までの期限などということが問題にされたとしたらだが(たとえばわたしがいた収容所では話題にのぼったことがなかった)、それは未定で、実際、無期限であっただけでなく、どこまでも無制限に引き延ばされるたぐいのものだった。ある著名な心理学者がなにかの折りにこのことにふれて、強制収容所におけるありようを「暫定的存在」と呼んだが、この定義を補いたいと思う。つまり、強制収容所における被収容者は「無期限の暫定的存在」と定義される、と。
新たに送りこまれた人びとは、収容所についたとき、そこを支配している状況をなにひとつ理解していなかった。そこから出てきた者たちは沈黙せざるをえなかったし、ある収容所にいたっては、まだだれももどってきた者はいなかった・・・。収容所に一歩足を踏み入れると、心内風景は一変する。不確定性が終わり、終わりが不確定になる。こんなありように終わりはあるのか、あるとしたらそれはいつか、見極めがつかなくなるのだ。
ラテン語の「フィニス(finis)」には、よく知られているように、ふたつの意味がある。終わり、そして目的だ。(暫定的な)ありようがいつ終わるか見通しのつかない人間は、目的をもって生きることができない。ふつうのありようの人間のように、未来を見すえて存在することができないのだ。そのため、内面生活はその構造からがらりと様変わりしてしまう。精神の崩壊現象が始まるのだ。これは、別の人生の諸相においてもすでにおなじみで、似たような心理的状況は、たとえば失業などでも起こりうる。失業者の場合もありようが暫定的になり、ある意味、未来や未来の目的を見すえて生きることができなくなるからだ。かつて、失業した鉱山労働者を心理学の立場から集団検診した結果、このゆがんだありようが時間感覚におよぼす影響をさらにくわしく調査しなければ、ということになったことがある。心理学では、この時間感覚を、「内的時間」あるいは「経験的時間」と呼ぶ。
収容所の話に戻ろう。そこでは、たとえば一日のようなわりと小さな時間単位が、まさに無限に続くかと思われる。しかも一日は、権力をかさにきたいやがらせにびっしりと埋めつくされているのだ。ところがもう少し大きな時間単位、たとえば週となると、判で捺したような日々の連続なのに、薄気味悪いほどすみやかに過ぎ去るように感じられた。わたしが、収容所の一日は一週間より長い、というと、収容所仲間は一様にうなずいてくれたものだ。ことほどさように、収容所での不気味な時間感覚は矛盾に満ちたものだった。
ここから連想されるのは、トーマス・マンの『魔の山』に記された、心理学的に見ても正鵠(せいこく)を射た観察だ。この小説は、心理学的に収容所と似通った状況に立たされた人間、すなわち退院の期日もわからない、「未来を失った」、未来の目的に向けられていない存在として便々と過ごす結核療養所の患者の精神的な変化を描いたものである。療養所の患者は、まさにここで話している強制収容所の被収容者そのものだ。
ある被収容者が、かつて、新たに到着した被収容者の長い列にまじって駅から強制収容所へと歩いていたとき、まるで「自分の屍のあとから歩いている」ような気がした、とのちに語ったことがある。この人は、絶対的な未来喪失を骨身に染みて味わったのだ。それは、あたかも死者が人生を過去のものと見るように、その人の人生のすべてが過去のものになったとの見方を強いるのだ。
「生きる屍」になったという実感は、さらなるほかの要因によっていっそう強まった。この拘束は無期限らしいとの感触が徐々に強まると、空間的な制限、すなわち拘禁ということもまたひしひしと感じられてくる。鉄条網の外にあるものは、とたんに近づきえないもの、手の届かないものとなり、ついにはどこか非現実なものとなる。収容所の外の出来事も人間もふつうの生活も、収容所にいる者には、なにもかもがどこか幽霊じみた、非現実なものに思えてくる。ちらとでも外を垣間見ることができたときには、外の生活は被収容者の目に、まるで死者が「彼岸」から此岸をながめおろしているかのように映る。それで、被収容者は目の前に広がるふつうの世界にたいして、時がたつにつれ、まるでこの「世界はもうない」かのような感覚をもたざるをえないのだ。
人間として破綻した人の強制収容所における内面生活は、追憶をこととするようになる。未来の目的によりどころをもたないからだ。過去へとさかのぼる退嬰(たいえい)的な傾向については、すでに別の文脈でふれた。これには、おぞましい現在に高(たか)をくくれるという効果がある。しかし現在、つまり現前する現実に高をくくることには、危険な一面がある。多くの英雄的な人びとの例が示しているように、収容所生活においても現実に真正面から向き合うきっかけはあったのに、それを見失ってしまうのだ。
現実をまるごと無価値なものに貶(おとし)めることは、被収容者の暫定的なありようにはしっくりくるとはいえ、ついには節操を失い、堕落することにつながった。なにしろ「目的なんてない」からだ。このような人間は、過酷きわまる外的条件が人間の内的成長をうながすことがある、ということを忘れている。収容所生活の外面的困難を内面にとっての試練とする代わりに、目下の自分のありようを真摯に受けとめず、これは非本来的ななにかなのだと高をくくり、こういうことの前では過去の生活にしがみついて心を閉ざしていたほうが得策だと考えるのだ。このような人間に成長は望めない。被収容者として過ごす時間がもたらす過酷さのもとで高いレベルへと飛躍することはないのだ。その可能性は、原則としてあった。もちろん、そんなことができるのは、ごくかぎられた人びとだった。しかし彼らは、外面的には破綻し、死すらも避けられない状況にあってなお、人間としての崇高さにたっしたのだ。ごくふつうのありようをしていた以前なら、彼らにしても可能ではなかったかもしれない崇高さに。しかしそのほかの者たち、並みの人間であるわたしたち、凡庸なわたしたちには、ビスマルクのこんな警告があてはまった。
「人生は歯医者の椅子に坐っているようなものだ。さあこれからが本番だ、と思っているうちに終わってしまう」
これは、こう言い替えられるだろう。
「強制収容所ではたいていの人が、今に見ていろ、わたしの真価を発揮できるときがくる、と信じていた」
けれども現実には、人間の真価は収容所生活でこそ発揮されたのだ。おびただしい被収容者のように無気力にその日その日をやり過ごしたか、あるいは、ごく少数の人びとのように内面的な勝利をかちえたか、ということに。」
(ヴィクトール・E・フランクル、池田香代子訳『夜と霧(新版)』2002年 みすず書房、117-123頁より)