「-姉を弔う-
姉は、1945(昭和20)年7月2日、鉄道自殺をした。数え俊23歳だった。
遺書の末尾には、「非常時に死んでゆくのは申し訳ない。戦地にいる兄(あに)さんに申し訳ない。」と、書かれてあった。兄さんとは、自分の夫のことである。
姉は19歳の年に、康夫兄の元に嫁いだ。婚家先は、小さい坂を下るとすぐ見える。
姑さまになる人は、坂を何度も登って来て、「嫁にけでこねぇ」と頼んだ。母は迷った。が、同居していた叔父たちが取り決めてしまう。姑さまと、家から出た人が従兄なのだというのが決め手だった。式まで決まってしまい、母は自分の着物を染め替え、作り替えて持たせた。
姉の気持ちはどうだったのだろう。姉は、川で洗ったようなと、人にホメられるほどの色白で、村の演芸会の花形だった。康夫兄も踊りがうまい。
(略)
親類や、親が決める結婚、いや、決めてくれる結婚なのだ。
誰よりも熱心に通い詰めた姑さまは、それで嫁を大事にするのかというと、そうではない。冬の土間で、姉は俵を編む。姑さまは炬燵に当たれとも言わなかった。
「よく我慢したものだ」と、リワ姉は言う。
康夫兄は出征した。海軍兵だった。横須賀にいる康夫兄に面会に行く日、姉は、長いコートを着ていた。くすんだ緑地に濃い薔薇の花が刺しゅうされてあった。姉はうれしいのだとわたしは思った。袖は元禄袖にちぢめていた。長いタモトは、「ぜいたくだ」と言われていたのおで、そうしたのだろう。亡くなった後も、タモトの仮縫いはそのままだった。
(略)
姉は入院した。誰も看病に行く者はいない。
「挙国一致」「銃後を護れ」と言われた戦時下、人一倍、働かねばならない嫁の身である。これ以上、人の重荷になるなど許されることではなかった。
(略)
康夫兄が「戦死したそうだ」という噂が流れた夜、姉は病院を抜け出したのだという。
「戦争さえながったら、康夫さえ帰って来るごとわかっていれば姉(あんね)、死なながったのよ」と、母は呪文のように言いつづけた。母の言う通りであれば、姉もまた戦争の犠牲者なのだ。犠牲者でありながら、犠牲を強いた国に詫びて死んだ悲劇。もちろん、姉は犠牲などとは思わなかったろう。
戦争は負けて集結し、康夫兄は帰還した。妻への土産は、闇市で買い求めたかかとの高いよそ行きの草履だった。」
「-名誉な死と不名誉な死-
姉は遺書に「非常時に死んでゆくのは申し訳ない。戦地にいる兄(あに)さんに申し訳ない。」と書いた。非常時とは「国の非常時」ということである。「名誉な死」の賞賛される時代、自分の「不名誉な死」を、国と夫に詫びたのだ。詫びる必要などなかったのだ。なぜなら、人の死に「名誉な死」と「不名誉な死」などあろうはずがない。
この地区に住んでおられる小原ミチさんは、戦争未亡人だ。姉と同世代でもある。
戦争が終わって間もなく、村役場の係の者が、「戦死者の家」という標札を付けに来て、ミチさんにこう話す。「『この札は国のために尽した名誉な家の標しだ。世間の人達がこの名誉な家にお礼の気持を忘れないようにするために付けるのだ』ってナス。そしてまたその次さ、『遺族の人たちは、国のために立派に命を捧げた家族の名誉を、傷つけねェように、その名誉さ恥じねえ暮らしをするように』ってナス」と。
(略)
役場の標札係は、国の使いである。戦時中、働き手を出征させた農家の門口に、「名誉の家」という標札を付け、戦争が終結した後もまた、標札を持って現われ、名誉の意味を説く。一枚の「札」は、外に向けては名誉をたたえる心を強制し、内に向けてはその名誉を傷つけるなと強制した。」
(2012年1月6日、日本経済評論社 発行『自分の生を編む』プロローグ、3-8頁より)
→続く