「こんにち、労働の世界では果たせない「自己実現」の欲求は、消費生活に向かっている。高度消費社会の到来により、消費者はあたかも社会の「主役」に躍り出たかのようである。
たしかに、消費に対する欲求は、かつての日本の生活様式を変えうるほどである。しかし、さまざまなメディアを通して溢れるばかりの商品の「情報」が氾濫している現代社会にあっては、われわれの欲求自体が際限なく高次化する傾向にあり、しかも一方的に操作され作られてしまう可能性が高いことに注意を払う必要があろう。
とはいえ、何が人間にとって自然で基本的な欲求であり、どこからがそれ以上の作られた欲求なのかを判断することはきわめて困難であるから、自らの欲求を律する内的な倫理を持つことが、消費の<主体>であることの最低条件である。
この観点からすると、「欲望自然主義」にとりつかれた現代人は、むしろ消費生活において疎外された存在であるといわざるをえない。
この「欲望自然主義」は、モノあるいはサービスの消費を通じて獲得された「豊かさ」が個人の「しあわせ感」を形成するという、幸福があたかも量的に表現されうるかのような<一元的な>価値志向によって拍車がかけられている。
そのため、人間関係を含めてあらゆることが金銭的な損得勘定で判断されるような風潮が生みだされ、われわれの日常生活を支配している。
いうまでもなく、消費の自由度は、よほど大きな資産でもないかぎり、収入の大きさに依存するから、こうした風潮のもとでは、より高い賃金・地位を求めての出世に大きな関心が払われるが、それは<競争>を通じて実現されることになる。
この<競争>は、現代の日本社会においては、実に人間がこの世に生を受けたときにすでに始まっている。乳幼児は、定期検診のたびごとに標準発達段階に照らして精神的・肉体的な「能力」が測られ、より早く「大人」になることが促される。
学校教育においては、科学技術に支えられた高度な社会に適応する「能力」が求められ、それによって質の高い労働力が育成されることが期待される。
このように教育によって、人間のさまざまな「能力」がこの<一元的な>価値によって評価される結果、この基準から外れた「能力」をもつ者は、低い評価しか受けず、しだいに脱落していくことになる。
成績に限らず、社会の<一元的な>物の見方は、当事者の子供たち自身のあいだにもひろがり、異質な者に対する不寛容を生みだし、陰湿な「いじめ」となって現れている。
こうして、事実上、学校の管理教育は、<効率>を理念とする人間の品質管理の場になってしまっている。
家族もまた、この現代社会のなかにある以上、それとは違う論理を持つことは難しい。量的に測られうる「幸福」の獲得をめざす<競争>で勝ち抜くべく、夫は企業戦士として、その候補者としての子供は受験戦士として、家庭で再生産され、社会に送り出される。
グラムシ(1891-1937)の指摘によれば、今世紀はじめにフォードは、新しい経営様式に必要な質の高い労働力を得るために、高賃金と引き替えに労働者の生活に介入し、その管理を試みた。
いまや日本において、それは、社会的規模で<競争>を通じて恐ろしいほど徹底してなされている。こうして<効率>という生産の論理が生活全体に浸透し、人間相互の人格的な関係に基づく生活に固有な「意味の世界」が失われていくことになった。
(船津衛編著『現代社会論の展開』1992年、北樹出版 214-215頁より。)
たしかに、消費に対する欲求は、かつての日本の生活様式を変えうるほどである。しかし、さまざまなメディアを通して溢れるばかりの商品の「情報」が氾濫している現代社会にあっては、われわれの欲求自体が際限なく高次化する傾向にあり、しかも一方的に操作され作られてしまう可能性が高いことに注意を払う必要があろう。
とはいえ、何が人間にとって自然で基本的な欲求であり、どこからがそれ以上の作られた欲求なのかを判断することはきわめて困難であるから、自らの欲求を律する内的な倫理を持つことが、消費の<主体>であることの最低条件である。
この観点からすると、「欲望自然主義」にとりつかれた現代人は、むしろ消費生活において疎外された存在であるといわざるをえない。
この「欲望自然主義」は、モノあるいはサービスの消費を通じて獲得された「豊かさ」が個人の「しあわせ感」を形成するという、幸福があたかも量的に表現されうるかのような<一元的な>価値志向によって拍車がかけられている。
そのため、人間関係を含めてあらゆることが金銭的な損得勘定で判断されるような風潮が生みだされ、われわれの日常生活を支配している。
いうまでもなく、消費の自由度は、よほど大きな資産でもないかぎり、収入の大きさに依存するから、こうした風潮のもとでは、より高い賃金・地位を求めての出世に大きな関心が払われるが、それは<競争>を通じて実現されることになる。
この<競争>は、現代の日本社会においては、実に人間がこの世に生を受けたときにすでに始まっている。乳幼児は、定期検診のたびごとに標準発達段階に照らして精神的・肉体的な「能力」が測られ、より早く「大人」になることが促される。
学校教育においては、科学技術に支えられた高度な社会に適応する「能力」が求められ、それによって質の高い労働力が育成されることが期待される。
このように教育によって、人間のさまざまな「能力」がこの<一元的な>価値によって評価される結果、この基準から外れた「能力」をもつ者は、低い評価しか受けず、しだいに脱落していくことになる。
成績に限らず、社会の<一元的な>物の見方は、当事者の子供たち自身のあいだにもひろがり、異質な者に対する不寛容を生みだし、陰湿な「いじめ」となって現れている。
こうして、事実上、学校の管理教育は、<効率>を理念とする人間の品質管理の場になってしまっている。
家族もまた、この現代社会のなかにある以上、それとは違う論理を持つことは難しい。量的に測られうる「幸福」の獲得をめざす<競争>で勝ち抜くべく、夫は企業戦士として、その候補者としての子供は受験戦士として、家庭で再生産され、社会に送り出される。
グラムシ(1891-1937)の指摘によれば、今世紀はじめにフォードは、新しい経営様式に必要な質の高い労働力を得るために、高賃金と引き替えに労働者の生活に介入し、その管理を試みた。
いまや日本において、それは、社会的規模で<競争>を通じて恐ろしいほど徹底してなされている。こうして<効率>という生産の論理が生活全体に浸透し、人間相互の人格的な関係に基づく生活に固有な「意味の世界」が失われていくことになった。
(船津衛編著『現代社会論の展開』1992年、北樹出版 214-215頁より。)
現代社会論の展開 | |
船津 衛 | |
北樹出版 |