たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

フランクル『夜と霧』より-第ニ段階収容所生活-収容所のユーモア

2024年12月18日 13時48分17秒 | 本あれこれ

フランクル『夜と霧』より-第ニ段階収容所生活

「部外者にとっては、収容所暮らしで自然や芸術に接することがあったと言うだけでもすでに驚きだろうが、ユーモアすらあったと言えば、もっと驚くだろう。もちろん、それはユーモアの萌芽でしかなく、ほんの数秒あるいは数分しかもたないものだったが。

 ユーモアも自分を見失わないための魂の武器だ。ユーモアとは、知られているように、ほんの数秒間でも、周囲から距離をとり、状況に打ちひしがれないために、人間という存在にそなわっているなにかなのだ。

 ひとりの気心の知れた仲間と数週間、建築現場で働いたとき、わたしはこの仲間にすこしずつユーモアを吹きこんだ。毎日、義務として最低ひとつは笑い話を作ろう、と提案したのだ。それも、いつか解放され、ふるさとに帰ってから起こるかもしれないということを想定して笑い話を作ろう、と。この男は外科医で、以前は病院の外科で助手をしていたが、わたしはたとえば、この仲間がゆくゆく帰郷し、職場に復帰してからも、収容所暮らしの習慣がなかなか抜けないさまを描いてみせて笑いを誘った。前もって言っておかねばならないが、作業現場では現場監督がやってくると、監視兵はあわてて作業スピードを上げさせようとしていて、「動け、動け!」とどなって労働者を急きたてた。

 さて、わたしの話はこうだ。

 あるとき、きみは昔のようにオペ室で長丁場の胃の手術をしている。突然、オペ室のスタッフが叫びながら飛びこんでくる。「動け、動け!」つまり「外科医長が来たぞ!」というわけだ。

 仲間たちも、似たような滑稽な未来図を描いてみせた。夕食に招かれた先で、スープが給仕されるとき、ついうっかりその家の奥さんに、作業現場で昼食時にカボーに言うように、豆が幾粒か、できればじゃがいもの判切りがスープに入るよう、「底のほうから」お願いします、と言ってしまうんじゃないか、など。

「ユーモアへの意志、ものごとをなんとか洒落のめそうとする試みは、いわばまやかしだ。だとしても、それは生きるためのまやかしだ。収容所生活は極端なことばかりなので、苦しみの大小は問題ではないということをふまえたうえで、生きるためにはこのような姿勢もありうるのだ。

 たとえば、こうも言えるだろう。人間の苦悩は気体の塊のようなもの、ある空間に注入された一定量の気体のようなものだ。空間の大きさにかかわらず、気体は均一にいきわたる。それと同じように、苦悩は大きくても小さくても人間の魂に、人間の意識にいきわたる。人間の苦悩の「大きさ」はとことんどうでもよく、だから逆に、ほんの小さなことも大きな喜びとなりうるのだ。

 たとえを挙げよう。わたしたちがアウシュヴィッツから、バイエルン地方にあるダッハウの支所に送られたときのようすはどうだったか。わたしたちは、移送といえばガス室のあるマウトハウゼン行きだ、と恐れていた。列車がドナウ川に架かる橋に近づくたびに、わたしたちは緊張した。同行の、収容所暮らしの長い仲間が断言するには、マウトハウゼンへは本線からはずれて橋を渡っていくのだという。護送車に詰めこまれた被収容者が、移送団は「ただ」ダッハウに向かっているだけだと気づいたときの、文字通り小躍りせんばかりの喜びは、このようなことを体験したことのない者にはとうてい想像できないだろう。」

(ヴィクトール・E・フランクル、池田香代子訳『夜と霧(新版)』2002年 みすず書房、71-73頁より)

 

 


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