たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

卒論の指導(第一回目)

2015年07月23日 19時06分03秒 | 卒業論文
卒業論文を書き始めるまでの過程を振り返ってみようと思います。
第一回目の個別指導に向けてこんな個別指導調査票にこんなふうに私書いていました。
2001年5月のことでした。
タイトルは「職業観と生活観についての考察」としていました。ここに「女性の」が加わっていくことになります。
よろしかったら読んでください。

 

「私たちは、日常生活の中で常に自分の位置を確認したいと思っている。自己の存在を証明したいと望んでいる。だが、今日の社会は工業、技術、及び科学によって支配された、また、官僚制の合理的諸原理によって組織された、高度に分配化された大衆社会であり、あたかも精密機械のように職務を遂行する官僚制が、企業の組織原理として採用されている。従って、個々の組織が合理的に運営されるには、組織のメンバーの主観的感情や欲望は排除されなければならない。私たちは、巨大な産業機構の中の一つの歯車に過ぎないと言える。

 だが、私たちはアルファベットで現される記号化したモノではない。意志をもった主体的な行為者であり、かけがえのない自らの生を生きなければならない。各々が固有の生活史をもっている。では、現実に、組織の一員として働く私たちにとって、”組織のメンバーとして働く”という日常的実践的なる行為は、どのような意味をもつのか。そこで経験する他者との相互作用は、アイデンティティの形成にどのように関わってくるのか。私たちの人格的な発達に何をもたらしているのか。私たちは、”働くことを通して自分の資質を生き生きと表現できているのだろうか。日常生活の中に埋没し、自分自身を見失っていないだろうか。時間に縛られてしまってはいないだろうか。制服を着用している時の私たちはまぎれもなく、この私自身なのか。私たちは、生きていくためには好むと好まざるとに関わらず、ある特定の環境に適応していかなければならない。日常的に克服する努力が必要とされるような抵抗に直面し、葛藤を経験する。


 平凡な日常生活は、つまらぬものと捉えられがちだが、固有の生活史をもつ私たちの一日一日は、決して”平凡”という言葉で片づけられるものではない。一日一日は似ているようでも異なった色を帯びている。同じようなことの繰り返しに見える日常生活の中にこそ、幸福はある。何を幸福と捉えるかによって世界は違って見える。私たちは幸福を求めている。幸福を基礎とした日常生活における自己実現。お金のために辛抱して働くという職業観とは異なる職業観。我慢してやっているのではない、自らやっていることとしての”働く”ということ。公的生活と私的生活とのバランスをどのようにとりながら、どこに生きがいを見出し、様々な役割を調整しながら、日常生活をどのように営んでいくのか。ストレスとどうつきあっていくかということも、現代の日常生活において重要な課題であろう。こうした点を現在非正規社員として働き、毎日同じことを繰り返すだけの創造性のない仕事を主にこなしてきた私の、日常的経験を踏まえて考察してみたいと思う。」

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