たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

絵本の力、生きる力~子どもと大人が共に育つこの世界へ-子どもと言葉

2025年03月11日 00時45分42秒 | グリーフケア
(乳幼児精神保健学会誌Vol.7  2014年10月より)

「絵本の力、生きる力~子どもと大人が共に育つこの世界へ~柳田邦男

子どもと言葉

  子どもにとって言葉はどういう意味を持ったり、あるいは成長過程の中でどういう言葉を獲得し、表現していくのか、そんなことを考える上で絵本の言葉の部分に焦点を当てます。

 その前に、ちょっと今回の大震災の中で子ども達がどういう経験を死、そしてそれがどういう風に言語化されたのか、その一端をお話しします。東北各地の被災地で子どもたちが作文を書いています。日本の学校教育の中で作文がとても重視されていて、国語の時間に限らず、色々と文章を書かされます。体験した事を文章にし、津波や大地震の揺れの恐怖体験というものがトラウマとなって心の中に抑圧され、沈んでしまう前に表現することによって自分自身を見つめなおす、それがトラウマを乗り越える力にもなっていくことがとても大きな意味を持っていると思うんです。各学校でそういうことをやったり、あるいはカウンセリングの場ですすめたり、子どもたちが文章で自分の体験を語ることが盛んに行われています。

 いろいろ振り返って子どもたちが、子どものころから本に親しむ、絵本に親しむ、しかも親が読み聞かせをする。それが編集され単行本になって市販されている。あるいは地域の自治体や教育委員会などが編集したり、学校独自で作ったということで、子どもたちの体験記を私もたくさん集めています。その文章の中から子どもたちがどんな言葉で自分の体験を表現しているかを調べてみました。今日はほんのその一端を紹介します。ごらんのようにこれは津波がおしよせてきた瞬間ですね。こちらが太平洋沿岸、これは仙台の南、仙台平野の一角。名取市。この辺りは名取市です。これは仙台空港があります。これは貞山掘といって江戸時代に作られた運河です。川ではありません。米などを運ぶ運河。津波はこれを乗り越えて、一面、家々を倒しながらおしよせてきました。第一波です。10メートル前後ありすさまじい勢いでした。

 これは宮城県の三陸沿岸の最南端牡鹿半島に女川町というのがありまして、そこは太平洋と仙台湾と両方から津波に挟み撃ちされる形になって、すさまじい状況になりました。高さ10メートルを超えるビルがみるみる水没していく状況です。こんな中で生き残った子どもたちの表情と言葉を収集した本です。女川町の子どもたちの文章を集めた「まげねっちゃ」これは東北弁で負けないぞという意味です。そんな中でいくつかの文章の一部を読ませていただきます。これは小学校4年生10歳のじゅんなちゃんという子の文章の一部です。

 いつもより星がたくさん光っていて、この地震でどのくらいの命が亡くなったのだろうと思いました。そして今思うことは、1つ1つの命がすごく大切だということです。これからも1つ1つの命を大切にしていきたいです。

 これは、夜空をながめて星が光っている。星1つ1つを見上げ、それが亡くなった人たちが天国に行って夜の星になったのかという思いがあるんでしょう。数知れない星の輝きを見て、2万人近くがなくなったあの震災で犠牲になった人たちの命のことを思う。このこと自体がとても女の子らしい感性だなと思うんですね。10ぐらいで空の星を眺めて、被災地たちのことを思う。亡くなった命の数に重ね合わせて胸にしみわたるように感じる、そして言葉として1つ1つの命という表現をしている。これは最近、小中学校で命の教育がとても重視されていて、先生たちが悩んでいるテーマですね。デジタル文明の中で物事がデータ化されたり、記号化されたりしていく。その中でリアリティのある命の実感を子どもたちにどう持たせたらいいのか。小学生の3、4割は、人は死んでも生き返ると本当に思っている。アニメやゲームの中で殺されてもまた登場する、リセットすればまた生きられる、現実の命についてもそう思っている時代に、命を実感的にわかるようにするにはどうしたらいいか。非常に教育的には難しいんですね。そこで学校によっては、ヤギを育てて子が生まれるのを見て、命っていうものについて実感的に教えようとしていますが、なかなかそれが身につかない。だから子ども同士でもびっくりするような凶悪事件が起こったりする。そういう中で1つ1つの命の大切さっていうことを、やっぱり、津波という恐怖体験の中で身にしみて感じたんではなかろうかと思うんですね。特に私が驚いたのは、「生かされている命」という言葉が登場してくることなんですね。

 これは中学校3年生のあべこうじ君って男の子ですけれど、少し長いけれど、それでも一部なんです。読んでみますね。

 あの自身は私たちの町だけでなく私自身もかえてくれました。水も電気も食料もない世界で学んだことがたくさんありました。人間はとても弱いです。一人でなんか絶対生きていけません。支え支えられて生きているのです。あの自信を体験し、乗り越えようとしている私たちには自然に強い絆ができだと思います。助け合い協力して命を守りあった私たちはもう何にも負けないと思います。あの地震で私も成長することができました。初めて死を覚悟しました。それから生まれ変わったように過してきました。あの地震を乗り越えたことで自信がつきました。命のはかなさを知り、1日1日を一生懸命生きるようになりました。自分が生かされていることを知り、少しでも誰かの力になれるように努力し続けました。これからも生かされている命を大切に一生懸命生きて生きていきまくります。

  こうも書いているんですね。

 これからも生かされている命を大切に
 自分が生かされていることを知り

 この生かされている命っていう表現は普段の子どもたちの日常生活の中では登場しない言葉です。キリスト教や仏教など宗教のお説教の場ではしばしばでてきます。私たちの命は自分で作ったものではないし、あるいは自分で自分を生かしているわけでもない。天から与えられ、神様から与えられたもの、そういうものだということ。だから傲慢になってはいけない。謙虚に命を大事して生きましょうと宗教は教えてくれる。しかし日常の家庭生活や学校での生活の中でそういう言葉を使うどころか、意識さえ普段はありません。この子が避難生活中か家庭が信仰深い家庭なのかわかりません。けれどいずれにしても子どもの耳に行ってくる言語環境の中で知らず知らず「生かされている命」という言葉がこの中学校3年生の男の子の中に取り込まれたんですね。いかに子どもにとって言語環境が大事か、周りでどんな言葉を使っているのか、あるいはどういう状況の中でどういう言葉が出てくるのか、それが非常に大切なことなんです。大人の使う言葉が問われている。私は子どもたちの作文をたくさん読んで、その中に出てくる言葉をとらえて、感銘を受けたり、驚いたりしているわけですが、とりわけこの「生かされている」というのが出てきたのが、とても驚きであり感動的でした。

 もうひとつだけ紹介させてもらいます。これは中学校1年生のやはり男の子です。


 私は将来何になろうか決めていません。一応は医者になりたいと思っています。医者の中でも国境なき医師団に入りたいと思います。そんな中で心にぐさっと一番きたのは今を生きるという言葉でした。人の役に立つ仕事をしたいのです。人が苦しんでいるところを助けたりするなど人の思い出に残るような人になりたいです。人間は生きる希望をなくすると自殺する。私は希望を作りたいのです。生きているだけで幸せという希望を作りたいのです。

  こんなことを書いています。子どもたちもたくさん津波にのまれた人の遺体を見たり、あるいは自分もかろうじて生きのびている。そういう体験の中からどういう言葉でそれを表現するのか、いわば限界状況の中で人は何を感じたり考えたりするのか、子どものレベルで表現したのがこういう言葉だと思うんですね。青年の主張コンクールに出るために書いたわけではないので、自分の体験したことから自分の体験したことから出てくる言葉を書いているんだと思うんです。

 絵本を読むにあたって絵本の言葉はとっても大事で、絵も大事です。両方大事なんです。でも往々にして読み聞かせの中で親、あるいは保育士や先生は言葉をあまり重視しないでサッサッサーと読んでしまいがちです。絵と言葉は非常に深いところでコラボレートしている。そういうことを読み手の大人は理解しなければいけない。整理すると、非常につらい実体験がある。恐怖やあるいは悲しかったり、辛かったりする。そういう実体験があの状況の中で生まれた。そして、自分を取り巻く言葉、言語環境、そして、みんな大変な経験をして避難所や仮設等で生活している環境がある。その実体験と環境で使われる言葉。それが一体になって融合して、その子にとって命が本当にリアリティーのある形できざまれていく。単に漠然とした恐怖体験ではなくて、言語化することによって、その意味づけまで含めて、記憶に残る。そういうことが子どもにとっては恐怖体験を客観視し、そして乗り越えていく1つの大事なステップになるのではないかと思うんです。」





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