(乳幼児精神保健学会誌Vol.7 2014年10月より)
「絵本の力、生きる力~子どもと大人が共に育つこの世界へ~柳田邦男
「絵本の力、生きる力~子どもと大人が共に育つこの世界へ~柳田邦男
マールとおばあちゃん
もう1冊紹介するのは、これもごく最近、今年翻訳されたベルギーの作家のモルティールさんが物語の言葉を書き、カーティーベルメールさんが絵を描いた絵本です。2人ともベルギーのフランドル地方に生まれ育った方のようです。非常にピンク系が強い絵です。絵が美しいんですが、単に美しいだけでなく、いろんな動物や小鳥や花や樹木、そしてその中に主人公のマールという少女がいて、絵の技法としては木版画、コラージュ、様々な技術を重ね合わせて非常に複雑で感性豊かな表現をしている。こういう絵の表現者なんですね、非常に現代的だと思うんですね。そして表紙に使う絵はシンボリックな意味を持っています。このマールという少女がすました表情をして木の枝に乗っています。このマールは非常に個性が強く、自我が強い、そういうことをシンボリックに表現しています。それは物語が冒頭からびっくりするような形で展開します。これは桜の木の下でお母さんが乳母車の赤ちゃんに手を差し伸べているところですが、生まれて間もないマールのことを描いています。(カールはすでに)乳母車じゃなくて立っている。その左側の方に、ここにマールがいて、これにマールがいて、これお母さんですけれどね、読んでみますね。
マールは桜の木の下で生まれました。おかあさんがそこで読書をしていたのです。
おかあさんが読んでいたのはとてもおもしろい本でした。
本当におもしろい本でしたのでおかあさんは没頭してしまい、
赤ちゃんが生れようとしていることに気がつきませんでした。
それは、ちょうどおしっこに行きたくなったときに、だいじょうぶもうすこし
がまんできると思うような感じでした。
とても愉快な書き出しですね。
でも、マールの辞書にがまんということばはないのです。ここから出して/今すぐ。
マールは押したり、たたいたり、けったりして、桜の木の下に自分ででてきたのでした。
こういう話はそんなことはないよって、みなさん思うかもしれませんが、あるんですよ。実は私の知り合いのお嬢さんが家で、出産はまだだろうと我慢していて、とうとう我慢できなくなってタクシー呼んだんです。タクシーに乗ったら、そこで自分でお産しちゃったんです。すごいお母さんだなと思いました。そういうことってあるんですよ。だから私はこういう作品を読んでも別に驚かないっていうか、あり得ることだなあと思うんですね。
それはさておき、この絵にも象徴的も示すように非常にカラフルなコラージュ、あるいは版画的な技法を駆使して、母とこの関係やマールという子の個性を表現しようとしています。次のページにマールがいかに自我の強い、個性的な女の子かというのがみごとに表現されています。
マールはとんてもなくはやく成長しました。生後6か月になるころには、もう庭をはねまわっていたのです。そんなことってあるのかなってね。ふつう1歳ぐらいになってようやくよちよち歩きをするんですけれどね。
桜の木から小さな柵まで行ったかと思うと、池のまわりを一周してもどってきます。
みて!あたしはやいでしょ!ねえ、みた?だれも追いつけないくらいはやかっ
たわ。
まあ6か月でこんなことを言ってるわけはないんですが、気持ちいいんでしょうね。
そして数か月後、最初の言葉を口にしました。それはママでもパパでもなくクッキー。マールはいつだっておなかをすかせているのでした。クッキー。マールはいつもそういいます。
このクッキーっていうのは実は伏線で、あとはおばあちゃんが大好きにいなって、おばあちゃんがこの子を可愛がって、おばあちゃんも甘いものが好き、マールと一緒に2人でクッキーの箱をいっぺんに全部あけちゃうぐらい食べる。それが何を象徴しているかというとおばあちゃんとマールが本当に仲良しの一体感があって、毎日の時間を過ごしているということなんです。でもそういう中でおばあちゃんが倒れて入院する。しかも言葉を発しなくってしまう。おそらく、脳内出血か何かで言語障害をおこしたんでしょうね、お父さんと今度はマールだけになるんですが、またお父さんが突然亡くなってしまう。そういう中でマールはどういう役割を果すのか。途中を飛ばして最後のころにいきますね。おじいちゃんが亡くなって、霊安室に安置されています。おばあちゃんは病院でもう言語障害で言葉を発しない、脳卒中の後遺症で病院にいます。そして医療スタッフは、どうせおばあちゃんはいろんなことわからないしおじいちゃんに言葉もかけられない。だから、おじいちゃんが亡くなってもお別れに連れて行く必要がない。医学医療の面から考えると、おばあちゃんはそのままでいいという考えなんです。ところがマールはおばあちゃんといつも一体となった生活していたから、おばあちゃんの表情や口ごもるような唇の動きら言葉を読み取ることができる。おばあちゃんの気持ちをマールがもっともよく知っているんです。マールはおばあちゃんにおじいちゃんのそばに行って最後のお別れをさせたい。でも、医療スタッフはそうさせてくれない。そこでマールは毅然としておばあちゃんを車いすに乗せます。そして、看護師の主任さんが制止するのも振り切って、おじいちゃんの安置されているところに連れていこうとします。そのときのこの絵を見てください。カラフルに描いてあるのはおばあちゃんとマールだけです。おばあちゃんの絵は少しグリーンのくすんだような花柄模様なので、あまり色はくっきりしませんけど、マールはピンク系の赤のワンピースを着ていきいきと描かれ、そして振り向いて制止しようとする看護師をにらんでいます。看護師の方は全部すりガラスの向こうにいるような、くすんだ白で描かれています。これは医療スタッフが医学的な見地からだけで患者に対応して、その中におけるヒューマニティーを失っている。そのことを表現しているのが、すりガラスの向こうにいるような描き方なのです。そして本当にヒューマニティー豊かにこの世に存在しているおばあちゃんとマールとの関係性、それをカラフルな色をあえて対照的に出すことによって表現している。
私は人間の命は人称性をもっていることをずいぶん前に気づいて、いろんなことを考えてきました。1人称の命、1人称の死は自分自身の命であり死です。命は、科学的医学的一般的に存在する死だけでなく、ひとそれぞれの個性を持った肉体と心を持っている。その中で医学的な意味での命と、人間一人ひとりが大切に抱えている命が異質なものがある。1人称の命は死に直面した時、自分はどういう最期を選ぶか、病院、ホスピス、在宅様々な場があるがどこが一番いいと思うか、痛み苦しみながら緩和ケアだけでいいのか、最後まで治療的な試みをしてもらって1分でも1秒でも長生きしようとするのか、これが1人称の死。特に1人称の死で大事なのは最期の残された時間をどう生きるか、思い残しのない人生の締めくくりをどうするのか。1人称の死にとってとても大事です。
これに対して2人称の死は愛する人の死、家族の死です。つまり2人称の立場に立つと死にゆく人が本当にその人らしく最期を迎えられるようにサポートする。介護やケアをする役割を果たす。しかし同時にもう1つの仕事が待っています。それは自分自身の心の中で失われる、愛する人と別れるということ。その愛する人亡き後、どう生きるかというグルーフワークが問われます。これは2人称の死の特性ですね。これに対して3人称の死は第3者の死ですから、友人、知人は悲しみや辛さを伴いますが、それは2人称などではない。子を亡くした母親や連れあいを亡くして残された伴侶、その辛さは3人称の死ではわからない、感じられない。ましてこれが第3者。遠い外国で起こった戦争やテロや様々なものは自分にとってはただのニュースでしかない。その日お笑い番組を見て笑うことができる。でも医療者にとって患者は3人称ではあるけれど、そういう赤の他人の3人称とは違うはずですね。やはり治療という局面を介して、その1人称2人称の死と密接な関わりを持って、今死に逝く人やあるいは残された人に、なんらかのシンパシーを感じたり、あるいはより良い形をつくるために協力する立場であったりするわけですが、現代の医学というのは往々にして冷たい3人称になりがちです。医学的に見て、これはもう治療不可能、これは治らないとなると興味を失ってしまうとか、あるいは痛み苦しみに対してあまり関心をむけない、そういった冷たい関係性が生まれがちです。医学が進めば進むほど、標準的治療法や、できることとできないことの区別がつくものですから、その中で割り切ってしまう。そのことをすりガラスの向こうのくすんだ白色の中で表現している。しかしマールは感性がとても豊かで、おじいちゃんと別れなければいけない2人称の死を迎えつつあるおばあちゃんに対して、やはり自分自身も大事なおじいちゃんが亡くなる2人称の立場で悲しみを共有している。共有する者ならではの理解力を持って、なんとしてもおばあちゃんに一生に一度しかない別れの場面を失わせてはいけないと少女なりに豊かな感性を持って決行しているのです。そして、おばあちゃんを亡骸のそばに連れて行きます。
おじいちゃんは、ひんやりした場所にいました。ほんとうにひんやりした場所でしたから、マールの口から、小さな白い組みたいなものがでました。おばあちゃんの口からもでます。きれいな雲ね。きれいでしずかで、いいひんやりね。マールは車椅子を押して棺に近づきました。おじいちゃんの口からは、白い雲はでてきません。両目をとじて、まだほほえんだままでした。
「ねえ」おばあちゃんは話しかけ、おじいちゃんの、くせのある髪を指ですきました。それからマールをみて、にっこりしていいました。「クッキー!」
こういう終わり方なんです。おばあちゃんは言語機能を失っていても、愛する夫が旅立つ、そのことを全身でわかっている訳です。マールもそのことをわかっている。おばあちゃんは言葉には出さないけれど、おじいちゃんの髪を撫ぜすいている。そして、ずーと一緒にクッキーを食べて歩んできたマールのその象徴的な言葉「クッキー」。ここでクッキーを食べたいという意味ではなくて、言語機能が障害を受けているがゆえに言葉が出てこないけれど、もっとも親しんだ、たくさん使った言葉「クッキー」だけがかろうじて声になって出てきたのでしょう。それはお菓子としてのクッキーではなく、本当に大事な豊かな時間、そして言葉にはできないけれどこみあげてくるものが思わず「クッキー」という言葉になったに違いない。そんな深い意味を持ったシーンなんですね。おばあちゃんがじっと見つめ、マールもほほ笑みをたたえて見つめている。素晴らしい画だなあと思います。こんな深いことを絵本は表現しています。私がこう申し上げたからといって、子どもに読み聞かせをする時にこう説明しなさいと言ってるつもりはないんです。でも幼い子はマールのように言語化できなくても感じることができるし、それが知らず知らずに心にしみいついて、そして子どもなりに、その感動や深い思いがその子のパーソナリティー形成にとても大きな意味を持ってくるということではないかなと思うのです。」
