たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

春のプリンス・エドワード島への旅-オーウェルコーナー歴史村

2022年12月27日 16時54分16秒 | プリンスエドワード島への旅
春のプリンス・エドワード島への旅_4日目
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/e8d4a3299d683dd3c339646aacea06c9
















-ご案内-

 プリンスエドワード島の心の拠り所は、その地域の歴史遺産にあります。オーウェルコーナー歴史村の使命は、島の典型的な地域社会の雰囲気、趣、活気までも歴史遺産として、1895年当時そのままに保存、かつ紹介していくことにあります。





-オーウェルコーナー村への植民-

 1766年、測量長官サミュエル・ホランドにより、英国の植民地大臣フランシス・オーウェル卿にちなんで名付けられたこのオーウェル村には、19世紀の初めよりアイルランド人、アメリカからのロイヤリスト(アメリカ独立戦争時の英国支持者)、高地スコットランド人たちが移住してきました。彼らは昔ながらの古い生活様式を新しい土地にそのまま持ち込み、彼ら自身のものを作り上げ、また子孫たちのための基礎を築きあげました。19世紀の終わりには開拓の苦難から比べれば、より近代的な生活ができるようになりましたが、生活の基盤はまだその土地と伝統に根ざしていました。

-PEI農業歴史博物館-

 ヨーロッパの影響を受けたプリンスエドワード島の農業の歴史を展示したPEI農業歴史史博物館をどうぞお楽しみ下さい。州の各種収集物を見学することから、また島民たちの真の経験や声を感じることができます。皆様が当館をを御覧いただいて、私たちの先祖たちが得麺した苦難-殊に私たちにとっては当然のことと思われるような「食べ物を得る」ということであったりもしました-などをよりよく理解し、そしてまた現代の私たちのためにたゆみなく働いている農業に従事する方々へのより多くの感謝を感じていただけることを願っております。


-教会と墓地-

 オーウェル村に植民してきた長老派教会派の人たちは、初めは近くのベルファストの会派に加わりました。人口が増えるに従って、1861年にオーウェル長老教会が建設され、ゲーリック語と英語で礼拝が行われました。当初は伴奏もなく聖歌隊長の先導で讃美歌を歌っておりましたが、1892年に聖歌隊用の演壇とオルガンが加えられました。1925年には当会派もカナダ合同教会に加わりました。近隣のヴァーノンに新しい教会が建設されると、オーウェルでの礼拝はなくなりました。現在の教会は1930年代当時の様に再現されております。隣接する墓地は1884年まで歴史は遡り、現在でもまだオーウェル会派により利用されています。





-学校-

 オーウェル学校は1895年にJ.S.オニール氏を教師として迎えて開校し、小学1年より高校1年の過程まどを教える学校として、地元の教育委員会により運営されておりました。当時のオーウェル学校は、現在では基本と思われるような諸事が不足していたにもかかわらず、多くの生徒たちが専門学校や大学に進学し、好成績を残すという高い学力を達成しておりました。村に残る者も商業を学んだり、家族農場で働いたり、また冒険好きな者は海外に出て行ったり、機会を求め島を後にする者もいました。








-シングルミル-

 冬の間には、男たちは斧や鋸を持って森に行くものでした。木を切り倒し、枝をはらい、丸太にして、馬橇で運んできます。黒トウヒ、栂(ツガ)、杉、樅(モミ)などの丸太を40㎝長さの角材に切り、手動で手斧や槌を使って薄いコケラ板に削いでいきました。荒削りのコケラ板は、さらに削り台の上で刃物を使って、最終仕上げをします。こうしてできたコケラ板は建物の外壁や屋根に使われました。

この肉体労働に集約された技術は、徐々に機械にとってかわりました。展示されている1915年版のシャーロットタウンのブルース・スチュワート社製、製材機と連結しているエッジャーは、17馬力の動力を使用します。製材機でコケラ板を削ぎ、エッジャーで仕上げの形に四角く切ります。それをやはり梱包の器械で束ねて、より早く市場に出すことができるようになりました。


-公会堂-

田舎の島民たちにとって、彼らの小さな地域共同体の中での子供たちの誕生、演劇、教育、宗教、仕事、ロマンスや誰かの死までもが、日常生活の静かなドラマとして取り上げられました。公会堂では、音楽コンサートやダンス、ボックスランチ親睦会、仕事の集まり、討論会や公開会議などが行われ、人気の中心的集会所でした。

最初のオーウェル公会堂は1960年代に焼失し、現在の建物は1970年代に建て替えられました。
当公会堂では伝統的な催しが現在でも行われており夏の間毎週水曜の夕方に音楽家やダンサーがケイリー(島の伝統的な音楽会)に集います。皆様もどうぞご一緒にお楽しみください!



-クラークストアと家屋-

リチャードとデニスのクラーク兄弟は、1856年にアイルランドからオーウェルコープに移住してきました。数年後、彼らはオーウェルに移り、兄のリチャードがジェネラルストア(雑貨屋)を開きました。リチャードの死後は、デニスが商人としての責務を継ぎ、1905年までこの店を経営していました。

この小さな店では、しばしば物々交換にて、人々が自給できないもの、例えば台所用品、服地、量り売りの食品、灯油、金物類、靴、洋服、薬、缶入りの食品、贈答品や玩具、数々の新商品などを買うことができました。買い物客はまた卵、カラス麦、バターや馬の毛までも店に持ち込み、その売上高を貸方としてそれぞれの勘定口座に書き入れておく方式でした。

1900年までは列車と地域の郵便配達によって、島中に点在する400の小さな郵便局に郵便が集配されていました。そのような小さな郵便局の一つが、クラークストアの店の奥にあり、デニスが連邦政府との契約に従って運営していました。

店の奥にクラーク家の家屋が隣接してあります。台所はクラーク家の女主人が食事を料理したり、保存したり、洋服を縫ったり修繕したり、洗濯したり、アイロンをかけたり、家族に必要があればそれに応えたり、と忙しい農家の生活の中心でした。台所の料理用薪ストーブは調理をするとともに、寒い冬の夜には暖をとるために欠かせないものでした。

正面玄関の両側には静かなビクトリア朝の客間と落ち着いたダイニングルームがあります。たくさんの疲れた人々がこの階段を上って羽根布団のベッドにもぐりこみ、体を休めたことでしょう。二階の部屋の一つには機織機、糸つむぎ機他、毛糸や織物を作るための器械が置かれています。

またこの家の二階あ、約10年間裁縫師のイライザ・ラトローブの住まいでもありました。ヤング・レディース・ジャーナルといった雑誌から型紙を取った彼女の作品は、たくさんの特別な行事を美しく彩ったことでしょう。




-農場-

1895年当時の農業は、職業というよりは生活手段でした。平均的な農家の所有面積は100エーカー(約12万坪)で、各種家畜、馬、羊、乳牛、山羊、鶏、豚などを飼い、また様々な作物も栽培されていました。ジャガイモやカラス麦は商品作物として作られ、オーウェルコーブのブラッシュワーフから出荷されていました。

島では1880年代から簡単な酪農業が始まり、オーウェルの農民たちは、1894年にオーウェルコーブに建設されたチーズ工場に牛乳を運んでいました。

馬車小屋には馬車や馬橇、霊柩車など、また納屋には初期の農機具が展示されています。
















-鍛冶屋-

輸送や重労働を馬に頼っていた地域では、鍛冶屋は重要な位置を占めていました。石炭を燃やした炉で、洗練された時間の勘を使って金属を熱し、様々な形をした鉄床の上で巧みに金槌を使って、馬の蹄鉄、釘、鋸、蝶番、家庭用品、農機具や各種部品、そして装飾品なども作っていました。

鍛冶屋は日常の仕事の他にも、馬の売買、動物の世話についての相談、さらに地元の歯医者といった役割までしていました。


-歴史村-

オーウェルコーナーは20世紀の初めまでは活気ある村でしたが、輸送手段、教育、商業、雇用などが田舎から徐々により大きな町、島の中心へ移るにしたがって、このような小さな共同体の重要さ、役割が減少していきました。オーウェルコーナーは、1973年にセンテニアル委員会からの出資にて、同年7月に公開されました。

















夜、シャーロットタウンのデルタホテルで”赤毛のアンカントリーディナー”をいただきました。
ツアーに組み込みでした。


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