「向き合うということ Iさん
5月21日からの続き
宿に戻ってさっそく風呂に入り、一休みした。新築らしい、木と畳の若々しい香りが心地よかった。それから安藤さんを囲って座談会となった。僕達が本を読んだり、ニュースを通して知った被災地というものと、安藤さんが実際に乗り越えてきた災害を比べる対話である。教えてもらったことは様々である。支援を求めたり、義援金を受け取るにも印鑑等身分証明の品々が必要であり、本当になにもかも流されてしまった人ほど支援されなかったこと。物資や土地の不足が震災バブルを生み出し、被災者ばかりが物価の高騰に苦しめられたこと。これからの暮らしを取り戻して行くには、どうしても先立つものが必要であり、経済的な自立を、早く、自力で成さねばならないこと。報道では津波が今まさに街を壊している映像、積み上げられたガレキの街の空撮ばかりであるが、本来はその間に、ガレキが道も何も覆い尽くした姿があったということ。何よりも先に道路を確保するため、散乱するガレキを積み上げたのである。安藤さんは、ガレキに覆われた道無き道を、山を、一日以上かけて歩き通し、家族の安否確認をしたという。ニュース報道のように大きくものを捉えると、一つ一つは軽くなっていく。そして、軽いものを集めた認識はとても薄っぺらである。安藤さんの話は、ニュースにはならない。しかし、真実の体験で、その厚みがあった。それを間近に感じることで、僕の震災の記憶は遥かに具体的なものとなった。もちろん実体験とは違うが、安藤さんの経験を僕が知ることで語り伝えることも出来ようと考えたのである。夕食はまたとても豪華で食べきれない程だった。写真を見返してもまた食べに行きたくなる。
夕食後は、この民宿のオーナーである遊佐さんのお話を聞かせてもらった。遊佐さんは民宿の他に定置網や魚や牡蠣の養殖を営んでおり、海に出ていたそのときに地震が起きたという。船を守るために沖に出る。漁師の常識として港を離れると、まったく見たこともないような景色だったという。海の底で泥が湧き上り、島の山肌が崩れて海に落ちて行き、岸辺の山では揺らされた杉の木が花粉を撒き散らし、黄色にもやに見えたそうだ。まさに町が崩れ去るような光景だったのだろう。その後遊佐さんは船がガレキに巻き込まれないよう、他の漁師とともに沖へ沖へと避難して行った。その間も余震があり、船が大きく揺れた。死さえ覚悟し、海に沈み見つからなくなってしまうことの無いよう、救命胴衣を二重に着込んだと語ってくれた。海で被災した遊佐さんは、港の風景がまさに崩れて行くのを目撃したのである。安藤さんとはまた違う体験を僕は聞かされ、このことも伝えて行こうと決意した。」
また夜遅くまで起きていたが、3日目の朝はまだ暗いうちに起きた。遊佐さんの好意で、漁船に乗せてもらえることになったのだ。定置網を見せてくれるという。僕と先生だけ起きだし、遊佐さんたちのトラックに乗り、港に向かって走り出した。いくつかの船がランタンで
照らされている。小船に乗り、ドッグへ向かう。少し大きな船に乗り換えて、沖へ出て行く。船のスピードと冷たい風が気持ちいい。ようよう日が昇りはじめた。」
(2014年3月20日 慶応義塾大学文学部発行より引用しています。)
***********
長いので後2回か3回に分けて書きます。
大川小学校に行ったことも書かれていますので次回、紹介できればと思います。
私自身の今の体験から、社会の仕組みが弱い立場の人を思いやる、本当に困っている人に今すぐ必要な手を差し伸べるようになっていないことを痛感しています。
行政の手続きはすべて申請主義、受給資格はあってもこちら希望して書類を出さなければ何も出てきません。情報が横で共有されるわけではないので、あっちの窓口、こっちの窓口に行って同じことを何回も言わなければなりません。
例えば、失業状態を余儀なくされれば、家賃を払い続けるのも大変なことです。。
友人の助言もあって少し調べてみましたが、これだけでは負担を軽減できるような手立ては
どこにもないらしいことがわかりました。年齢や、心身ともに健康状態であることなどで、
自治体に利用できる仕組みもないようです。
いろいろと学びの日々です。
もう少し先、今の状況が落ち着いて断捨離もさらに進んだら、東北を訪れたいなと心のすみっこで思い続けています。
5月21日からの続き
宿に戻ってさっそく風呂に入り、一休みした。新築らしい、木と畳の若々しい香りが心地よかった。それから安藤さんを囲って座談会となった。僕達が本を読んだり、ニュースを通して知った被災地というものと、安藤さんが実際に乗り越えてきた災害を比べる対話である。教えてもらったことは様々である。支援を求めたり、義援金を受け取るにも印鑑等身分証明の品々が必要であり、本当になにもかも流されてしまった人ほど支援されなかったこと。物資や土地の不足が震災バブルを生み出し、被災者ばかりが物価の高騰に苦しめられたこと。これからの暮らしを取り戻して行くには、どうしても先立つものが必要であり、経済的な自立を、早く、自力で成さねばならないこと。報道では津波が今まさに街を壊している映像、積み上げられたガレキの街の空撮ばかりであるが、本来はその間に、ガレキが道も何も覆い尽くした姿があったということ。何よりも先に道路を確保するため、散乱するガレキを積み上げたのである。安藤さんは、ガレキに覆われた道無き道を、山を、一日以上かけて歩き通し、家族の安否確認をしたという。ニュース報道のように大きくものを捉えると、一つ一つは軽くなっていく。そして、軽いものを集めた認識はとても薄っぺらである。安藤さんの話は、ニュースにはならない。しかし、真実の体験で、その厚みがあった。それを間近に感じることで、僕の震災の記憶は遥かに具体的なものとなった。もちろん実体験とは違うが、安藤さんの経験を僕が知ることで語り伝えることも出来ようと考えたのである。夕食はまたとても豪華で食べきれない程だった。写真を見返してもまた食べに行きたくなる。
夕食後は、この民宿のオーナーである遊佐さんのお話を聞かせてもらった。遊佐さんは民宿の他に定置網や魚や牡蠣の養殖を営んでおり、海に出ていたそのときに地震が起きたという。船を守るために沖に出る。漁師の常識として港を離れると、まったく見たこともないような景色だったという。海の底で泥が湧き上り、島の山肌が崩れて海に落ちて行き、岸辺の山では揺らされた杉の木が花粉を撒き散らし、黄色にもやに見えたそうだ。まさに町が崩れ去るような光景だったのだろう。その後遊佐さんは船がガレキに巻き込まれないよう、他の漁師とともに沖へ沖へと避難して行った。その間も余震があり、船が大きく揺れた。死さえ覚悟し、海に沈み見つからなくなってしまうことの無いよう、救命胴衣を二重に着込んだと語ってくれた。海で被災した遊佐さんは、港の風景がまさに崩れて行くのを目撃したのである。安藤さんとはまた違う体験を僕は聞かされ、このことも伝えて行こうと決意した。」
また夜遅くまで起きていたが、3日目の朝はまだ暗いうちに起きた。遊佐さんの好意で、漁船に乗せてもらえることになったのだ。定置網を見せてくれるという。僕と先生だけ起きだし、遊佐さんたちのトラックに乗り、港に向かって走り出した。いくつかの船がランタンで
照らされている。小船に乗り、ドッグへ向かう。少し大きな船に乗り換えて、沖へ出て行く。船のスピードと冷たい風が気持ちいい。ようよう日が昇りはじめた。」
(2014年3月20日 慶応義塾大学文学部発行より引用しています。)
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長いので後2回か3回に分けて書きます。
大川小学校に行ったことも書かれていますので次回、紹介できればと思います。
私自身の今の体験から、社会の仕組みが弱い立場の人を思いやる、本当に困っている人に今すぐ必要な手を差し伸べるようになっていないことを痛感しています。
行政の手続きはすべて申請主義、受給資格はあってもこちら希望して書類を出さなければ何も出てきません。情報が横で共有されるわけではないので、あっちの窓口、こっちの窓口に行って同じことを何回も言わなければなりません。
例えば、失業状態を余儀なくされれば、家賃を払い続けるのも大変なことです。。
友人の助言もあって少し調べてみましたが、これだけでは負担を軽減できるような手立ては
どこにもないらしいことがわかりました。年齢や、心身ともに健康状態であることなどで、
自治体に利用できる仕組みもないようです。
いろいろと学びの日々です。
もう少し先、今の状況が落ち着いて断捨離もさらに進んだら、東北を訪れたいなと心のすみっこで思い続けています。