東京電力・福島第一原子力発電所事故の特徴
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/b167f2d9cb993c57954ff0cafec64029
『福島原発事故独立検証委員会 調査・検証報告書 』より、
「福島原発事故独立検証委員会 北澤宏一委員長メッセージ
不幸な事故の背景を明らかにし、安全な国を目指す教訓に
-日本の原子力安全維持体制の形骸化-
この検証の中で、日本の原発の安全性維持の仕組みが制度的に形骸化し、張子のトラ状態になっていることが明らかになりました。その象徴は「安全神話」です。安全神話はもととも立地地域住民の納得のために作られていったとされますが、いつの間にか原子力推進側の人々自身が安全神話に縛られる状態となり、「安全性をより高める」といった言葉を使ってはならない雰囲気が醸成されていました。電力会社も原子炉メーカーも「絶対に安全なものにさらに安全性を高めるなどといいうことは論理的にあり得ない」として彼ら自身の中で「安全性向上」といった観点からの改善や新規対策をとることができなくなっていったのです。メーカーから電力会社への書類でも「安全性向上」といった言葉は削除され、「安全のため」という理由では仕様の変更もできなくなっていました。
原子力安全委員会が「長期間にわたる全交流動力電源喪失は、送電線の復旧股は非常用交流電源設備の修復が期待できるので考慮する必要はない」とする指針を有していたという事実がその好例です。なぜ高い安全性を実現しなければならないはずの原子力安全委員会がこのような内容を盛り込んだ指針を作らなければならないのでしょうか。この指針があることで、電気事業者は過酷事故への備えを怠った面があります。安全を犠牲にして電力事業者の負担をなるべく減らそうとするご機嫌とりにしか見えません。原子力推進側にいたことのある、ある政府高官は「当時は原子力安全委員会において、東電の発言権が大きかったことは確かです。そして一旦このような指針が決められると「間違っていた」として訂正することはほぼ不可能でした」と語っています。
米国や欧州では1979年のスリーマイルアイランド事故や2001年9月11日の同時多発テロ事件の後、センサー類やベントのためのバルブの改善を含むいくつかの過酷事故対策が実施されました。しかし当時の日本政府や電気事業者はこうした対策の多くを無視し、その結果、過酷事故への備えが不十分となっていました。世界平均の数十倍もの高い確率で巨大地震が発生する国である日本が過酷事故対策についてこのような態度をとってきたこは国際社会に対しても恥ずべきことと言わねばなりません。
この調査中、政府の原子力安全関係の元高官や東京電力元経営陣は異口同音に「安全対策が不十分であることの問題意識は存在した。しかし、自分一人が流れに棹をさしても変わらなかったであろう」と述べていました。じょじょに作り上げられた「安全神話」の舞台の上で、すべての関係者が「その場の空気を読んで、組織が困るかもしれないことは発言せず、流れに沿って行動する」態度をとるようになったということです。これは日本社会独特の特性であると解説する人もいます。しかし、もしも「空気を読む」ことが日本社会では不可避であるとすれば、そのような社会は原子力のようなリスクの高い大型で複雑な技術を安全に運営する資格はありません。」
⇒続く
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/b167f2d9cb993c57954ff0cafec64029
『福島原発事故独立検証委員会 調査・検証報告書 』より、
「福島原発事故独立検証委員会 北澤宏一委員長メッセージ
不幸な事故の背景を明らかにし、安全な国を目指す教訓に
-日本の原子力安全維持体制の形骸化-
この検証の中で、日本の原発の安全性維持の仕組みが制度的に形骸化し、張子のトラ状態になっていることが明らかになりました。その象徴は「安全神話」です。安全神話はもととも立地地域住民の納得のために作られていったとされますが、いつの間にか原子力推進側の人々自身が安全神話に縛られる状態となり、「安全性をより高める」といった言葉を使ってはならない雰囲気が醸成されていました。電力会社も原子炉メーカーも「絶対に安全なものにさらに安全性を高めるなどといいうことは論理的にあり得ない」として彼ら自身の中で「安全性向上」といった観点からの改善や新規対策をとることができなくなっていったのです。メーカーから電力会社への書類でも「安全性向上」といった言葉は削除され、「安全のため」という理由では仕様の変更もできなくなっていました。
原子力安全委員会が「長期間にわたる全交流動力電源喪失は、送電線の復旧股は非常用交流電源設備の修復が期待できるので考慮する必要はない」とする指針を有していたという事実がその好例です。なぜ高い安全性を実現しなければならないはずの原子力安全委員会がこのような内容を盛り込んだ指針を作らなければならないのでしょうか。この指針があることで、電気事業者は過酷事故への備えを怠った面があります。安全を犠牲にして電力事業者の負担をなるべく減らそうとするご機嫌とりにしか見えません。原子力推進側にいたことのある、ある政府高官は「当時は原子力安全委員会において、東電の発言権が大きかったことは確かです。そして一旦このような指針が決められると「間違っていた」として訂正することはほぼ不可能でした」と語っています。
米国や欧州では1979年のスリーマイルアイランド事故や2001年9月11日の同時多発テロ事件の後、センサー類やベントのためのバルブの改善を含むいくつかの過酷事故対策が実施されました。しかし当時の日本政府や電気事業者はこうした対策の多くを無視し、その結果、過酷事故への備えが不十分となっていました。世界平均の数十倍もの高い確率で巨大地震が発生する国である日本が過酷事故対策についてこのような態度をとってきたこは国際社会に対しても恥ずべきことと言わねばなりません。
この調査中、政府の原子力安全関係の元高官や東京電力元経営陣は異口同音に「安全対策が不十分であることの問題意識は存在した。しかし、自分一人が流れに棹をさしても変わらなかったであろう」と述べていました。じょじょに作り上げられた「安全神話」の舞台の上で、すべての関係者が「その場の空気を読んで、組織が困るかもしれないことは発言せず、流れに沿って行動する」態度をとるようになったということです。これは日本社会独特の特性であると解説する人もいます。しかし、もしも「空気を読む」ことが日本社会では不可避であるとすれば、そのような社会は原子力のようなリスクの高い大型で複雑な技術を安全に運営する資格はありません。」
⇒続く