2023年4月10日読売新聞オンライン、
https://news.yahoo.co.jp/articles/74336c715c284dcda6be8d8687bdf65f2ae2c48b
「尾崎豊さんの兄が埼玉弁護士会長に…「弱者の人権を擁護」「自分のギターを弟が使い始めた」
埼玉弁護士会会長に尾崎康氏(62)が1日付で就任した。1992年に26歳で亡くなったシンガー・ソングライターの尾崎豊さんは実弟。10日に開いた記者会見で「弱者の人権を擁護する活動をする。権力乱用を厳重に警戒し、抗議していく」と語った。任期は1年。
尾崎氏は東京都練馬区出身。早稲田大法学部を卒業後、97年に弁護士登録した。少年事件や児童虐待問題などに取り組み、弁護士任官制度で横浜地裁などの民事部門の裁判官として勤務した経験もある。
記者会見では兄弟関係に触れ、「自分が使わなくなったギターを小学生だった弟が使い始めた。彼が音楽を始めたきっかけだったかも」と話した。」
尾崎豊、1992年4月25日26歳で永眠。もし存命なら、いまこの時どんな歌をこの世に届けてくれているでしょうか。1980年代、校内暴力、学級崩壊といった世相を背負って登場した尾崎の歌は鮮烈でした。大人たちに管理されることへの反発、やりきれなさ、どうしようもない、どこにもぶつけることのできない、若者だけがもつ心の葛藤の代弁者のような存在となりました。コンサートに一度だけいきました。郷里近郊の市民会館。ウィキペディアにあるコンサート歴をみると1985年か1987年の全国ツアー公演。舞台セットの上から飛び降りる姿はガラス細工のように危ういと思った記憶があります。ピアノを弾きながらの「卒業」を聴けたことは、振り返れば人生の宝物のひとつでしょうか。最初で最後当時の人気番組ベストテンに登場した姿もみました。亡くなってから、最後となった代々木のコンサートにいかなかったことを悔やみました。
上記のニュースをみて20数年ぶりに『街路樹』のCDを聴いています。レコードと本は断捨離してしまったので手元にあるのはこれだけ。YouTubeにアップされている「卒業」「15の夜」「I LOVE YOU」「17歳の地図」「ダンスホール」なども視聴しながら高齢者に片足ずぼっと入ったばあさんが涙しています。いつもジーパン。ビンテージとか高価なものではなくありふれたものだったか。当時は十分にわかっていなかった歌詞と確かな歌唱力のすごさに震えると共に、とがって聴こえた尾崎の歌声があたたかく響きます。瞳の表情の豊かさよ。こんな人、もう日本で生まれることはないでしょう。
この世は噓だらけ。なにが本物なのか、コロナとワクチンの嘘に騙されたか騙されなかったかというフィルターを通してみると今まで信じてきたことのほとんどが幻想にすぎませんでした。すっかり心が疲れ、精魂尽き果て、生きる気力が奪われしまいそうな中で聴くと、尾崎の魂の叫びは本物だったのだと沁みます。こんな日本社会は窒息しそう、あまりにも生きづら過ぎると、永遠に26歳の尾崎に語りかけたいような気持ちになります。
高齢者を守るため、他人の思いやりという、大人たちに都合のいい大義名分のもと、3年間顔を隠すことを強要され続けた結果マスクを外すことができなくなった中学生、高校生、大学生に尾崎の歌はどう聴こえるでしょうか。マスクの下に感情を閉じ込めて、生きながら死んでいるように、死にながら生きているようにみえてしまいます。これはちょっともう可哀想すぎてみていられません。コロナ騒動でアホな大人たちがつくった莫大な負の遺産を背負うのは彼ら、彼女ら。社会に怒っていいんだよ、反発していいんだよ、こんな社会にした大人たちにバカヤローって叫んでいいんだよ。
リアルタイムで尾崎の歌を聴いた世代もこんな社会にした大人たちの一員にはなりましたが同時にこんな社会の犠牲者の世代でもあり、尾崎の歌は永遠に若者たちのバイブル足り得ると思います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/d1/1a8abff1af0ff2df5dacd551506034be.jpg)
「1986年6月にニューヨークに渡り、1年の間ミッドタウンからダウンタウン、そしてアップタウンのあちこちを住み歩いた。196st.に住むスパニッシュの暮しは、なわとびをする子供達の様にもの静かな激しさがあった。何度かため息をつくと、酔いどれた娼婦がおいでおいでと手まねきをする。ポンコツの車の上で、ボリュームをめいっぱいに上げたラジカセを片手に、ブラックの少年達は互いの顔を見合わせ、大声で笑う。ニューヨークのビルはひしめきあい、そして東京の空よりはるかに高い。東京の風は、僕を戸惑わせていた。誰もがそうであるかの様に貪欲で、スマートになろうとすればするほど滑稽だ。君に会うまでに、つまりこのレコードを作り上げるまでに、かなりの時間がかかった。それはビジネスと体制とのギャップかもしれない。そして僕の理想との・・・。東京はとても広い街だ。歩く度に何かにぶつかる。その時々にわずかな情熱を感じることが出来たなら・・・胸をはってみたらいい。空はとても高く、街並はとても平坦だ。歩く時、立ち止まる時、走り出す時、夢見る時、いつでも、そしてどこの場所にいても、僕は捜し続けてきた。
-1988年7月尾崎豊」
https://news.yahoo.co.jp/articles/74336c715c284dcda6be8d8687bdf65f2ae2c48b
「尾崎豊さんの兄が埼玉弁護士会長に…「弱者の人権を擁護」「自分のギターを弟が使い始めた」
埼玉弁護士会会長に尾崎康氏(62)が1日付で就任した。1992年に26歳で亡くなったシンガー・ソングライターの尾崎豊さんは実弟。10日に開いた記者会見で「弱者の人権を擁護する活動をする。権力乱用を厳重に警戒し、抗議していく」と語った。任期は1年。
尾崎氏は東京都練馬区出身。早稲田大法学部を卒業後、97年に弁護士登録した。少年事件や児童虐待問題などに取り組み、弁護士任官制度で横浜地裁などの民事部門の裁判官として勤務した経験もある。
記者会見では兄弟関係に触れ、「自分が使わなくなったギターを小学生だった弟が使い始めた。彼が音楽を始めたきっかけだったかも」と話した。」
尾崎豊、1992年4月25日26歳で永眠。もし存命なら、いまこの時どんな歌をこの世に届けてくれているでしょうか。1980年代、校内暴力、学級崩壊といった世相を背負って登場した尾崎の歌は鮮烈でした。大人たちに管理されることへの反発、やりきれなさ、どうしようもない、どこにもぶつけることのできない、若者だけがもつ心の葛藤の代弁者のような存在となりました。コンサートに一度だけいきました。郷里近郊の市民会館。ウィキペディアにあるコンサート歴をみると1985年か1987年の全国ツアー公演。舞台セットの上から飛び降りる姿はガラス細工のように危ういと思った記憶があります。ピアノを弾きながらの「卒業」を聴けたことは、振り返れば人生の宝物のひとつでしょうか。最初で最後当時の人気番組ベストテンに登場した姿もみました。亡くなってから、最後となった代々木のコンサートにいかなかったことを悔やみました。
上記のニュースをみて20数年ぶりに『街路樹』のCDを聴いています。レコードと本は断捨離してしまったので手元にあるのはこれだけ。YouTubeにアップされている「卒業」「15の夜」「I LOVE YOU」「17歳の地図」「ダンスホール」なども視聴しながら高齢者に片足ずぼっと入ったばあさんが涙しています。いつもジーパン。ビンテージとか高価なものではなくありふれたものだったか。当時は十分にわかっていなかった歌詞と確かな歌唱力のすごさに震えると共に、とがって聴こえた尾崎の歌声があたたかく響きます。瞳の表情の豊かさよ。こんな人、もう日本で生まれることはないでしょう。
この世は噓だらけ。なにが本物なのか、コロナとワクチンの嘘に騙されたか騙されなかったかというフィルターを通してみると今まで信じてきたことのほとんどが幻想にすぎませんでした。すっかり心が疲れ、精魂尽き果て、生きる気力が奪われしまいそうな中で聴くと、尾崎の魂の叫びは本物だったのだと沁みます。こんな日本社会は窒息しそう、あまりにも生きづら過ぎると、永遠に26歳の尾崎に語りかけたいような気持ちになります。
高齢者を守るため、他人の思いやりという、大人たちに都合のいい大義名分のもと、3年間顔を隠すことを強要され続けた結果マスクを外すことができなくなった中学生、高校生、大学生に尾崎の歌はどう聴こえるでしょうか。マスクの下に感情を閉じ込めて、生きながら死んでいるように、死にながら生きているようにみえてしまいます。これはちょっともう可哀想すぎてみていられません。コロナ騒動でアホな大人たちがつくった莫大な負の遺産を背負うのは彼ら、彼女ら。社会に怒っていいんだよ、反発していいんだよ、こんな社会にした大人たちにバカヤローって叫んでいいんだよ。
リアルタイムで尾崎の歌を聴いた世代もこんな社会にした大人たちの一員にはなりましたが同時にこんな社会の犠牲者の世代でもあり、尾崎の歌は永遠に若者たちのバイブル足り得ると思います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/d1/1a8abff1af0ff2df5dacd551506034be.jpg)
「1986年6月にニューヨークに渡り、1年の間ミッドタウンからダウンタウン、そしてアップタウンのあちこちを住み歩いた。196st.に住むスパニッシュの暮しは、なわとびをする子供達の様にもの静かな激しさがあった。何度かため息をつくと、酔いどれた娼婦がおいでおいでと手まねきをする。ポンコツの車の上で、ボリュームをめいっぱいに上げたラジカセを片手に、ブラックの少年達は互いの顔を見合わせ、大声で笑う。ニューヨークのビルはひしめきあい、そして東京の空よりはるかに高い。東京の風は、僕を戸惑わせていた。誰もがそうであるかの様に貪欲で、スマートになろうとすればするほど滑稽だ。君に会うまでに、つまりこのレコードを作り上げるまでに、かなりの時間がかかった。それはビジネスと体制とのギャップかもしれない。そして僕の理想との・・・。東京はとても広い街だ。歩く度に何かにぶつかる。その時々にわずかな情熱を感じることが出来たなら・・・胸をはってみたらいい。空はとても高く、街並はとても平坦だ。歩く時、立ち止まる時、走り出す時、夢見る時、いつでも、そしてどこの場所にいても、僕は捜し続けてきた。
-1988年7月尾崎豊」