労働運動の大先輩、宮田さんのお別れの会が青山葬儀所で行われた。私が顧問をしている金属労協(IMF-JC)のまさに先駆者として日本の春闘をリードしてきた戦後の代表的な労働運動家だ。金属労協議長として石油ショックの時に32%の賃上げを果たし、組合員は喜んだが、やがて30%近い物価上昇となり、インフレを断ち切るために経済整合性論を唱え、実質賃金重視へ春闘を導いた。その替わり政府に対しては時の福田赳夫蔵相と政労協議を通じ、政府に物価沈静を迫った。
労働運動を引退されてからは松下政経塾の塾長を務め、若手の政治家を育成、今や衆議院議員31名を排出している。お別れの会には塾生だった野田首相も弔辞を行った。塾長を辞められた後、国際労働財団の監事も務められ、私が専務理事であったこともあり、金属労協に続きいろいろとお話を聞く機会があった。
1939年中学を卒業後、八幡製鉄に養成工として入社し、労働運動に身を投じた人が熱意と努力でここまで上り詰めた割にはあっさりとしておられ、民主党政権の中枢を教え子が占めていても一切口出しはしなかった。
労働運動が闘うべきは「格差」「差別」「貧困」という宮田義二さんの言葉を現役の労働運動家に再認識して貰いたい。 享年88歳、合掌