(平河町二丁目)
7月15日は
洋画家 黒田清輝が亡くなった日
その住居跡が千代田区平河町2丁目の
都道府県会館前にある。
説明文には
「黒田清輝ここに住む」
重要文化財の「湖畔」や
「智・感・情」などの作品を
描いた明治・大正期の洋画家。
この年、これらの絵画をパリ博に出品し
銀賞を受賞した。
黒田 清輝は日本の洋画家 政治家
名の清輝「きよてる」、画名は「せいき」。
明治中期初めて日本に印象派系絵画を移入し
かつ美術教育兼行政家として活躍した。
1866(慶応2)年
鹿児島市に生まれる。 幼名新太郎。
伯父清綱の養嗣子に
1872(M5)年 上京
1884年
法律研究のためフランスに留学
アカデミー・コラロッシの
ラファエル・コラン教室に入り
画学をも修業するが やがて
井上哲次郎(1856-1944)にさとされ
法律学校を退いて画家の道へ。
1893年春
ソシエテ・ナシオナル・デ・ボザールに
「朝妝(ちょうしょう)」を出品し 夏帰国する。
1894年
久米桂一郎(1866-1934)と
天真道場を設けて後進の指導に
あたるほか 日清戦争に従軍
1896年
東京美術学校に新設された
西洋画科の主任となり
本格的なフランス式の美術教育を
開始するとともに
同志たち白馬会を創立し
洋画研究所をも設立。
日本に初めて明るい印象派系の
絵画を移入し 洋画界の
近代化を大いに推進した。
1900~01年(M33~34)
ふたたび渡仏し
パリ万国博覧会に出品した
「智・感・情」は銀賞を受けた。
内外の博覧会審査官、文展審査員を務めた。
1910年
洋画家として最初の帝室技芸員
1913(T2)年
創設の国民美術協会会頭
1917年
養父の死去に伴って子爵を継ぐ
1920年
貴族院議員に当選
概して晩年は美術行政の
分野で大いに活躍した。
1922年
森鴎外(1862-1922)の後を
受けて第2代帝国美術院院長に就任
フランス政府から
レジオン・ドヌール勲章ほかを受けた。
1924(T13)年7月15日没
代表作
「読書」 (1892)
「舞妓」(1893・重要文化財)
「湖畔」(1897・重要文化財)
などがある。
(Web資料から)
なお 作品「湖畔」 のモデルは芸者で
当時23歳の金子種子。
のちに清輝の妻となり照子と改名した。
描かれた場所は 箱根芦ノ湖。