晴海通り 勝鬨橋方面に向う 築地6丁目交差点の先に
「軍艦総連所跡」の説明板がある。
説明文の概略は
ペリーによる黒船艦隊の来航後、
西洋式海軍の必要性に迫られた江戸幕府は
1857(安政4)年 旗本や御家人、諸藩の藩士等から
希望者を集めて、航海術・海上砲術の講習や
オランダから輸入した軍艦の運転練習をさせる目的で
軍艦教授所(後の軍艦操練所)を
この地にあった築地講武所内に創設した。
この時の中心人物が勝海舟であった。
* 勝海舟については 当ブログ(2017/01/19)で 取り上げている。
万延元年(1860)に講武所が神田小川町(現千代田区)に
移転後、跡地一帯が軍艦操練所の専用地となる。
元治元年(1868)築地西本願寺西隣の火事で
類焼し焼失して 南隣の広島藩(藩主浅野安芸守長訓)
下屋敷のあった場所(下の絵図では松平安芸守蔵屋敷)へ仮移転する。
1865(慶応元)年 新たに海軍奉行を置く。
1866(慶応2)年 海軍所と改称し 同年11月に類焼し、
現在の浜離宮庭園の地に移る。
跡地は 1868(慶応4)年 日本最初の洋式ホテルである
「築地ホテル館」が建てられた。
その後 1871(明治4)年 ホテルは海軍省に移ったが
1872(明治5)年 火災で焼失し わずか4年で廃業している。
この経緯からも この場所は ”海軍発祥の地”ともいえる。
説明板の地図 赤枠が軍艦操練所
築地周辺(昭和34年)
☆印操練所説明板 □赤枠が「水神社」
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