あかない日記

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百本杭

2020-12-24 | 散策


小林清親 「千ほんくい両国橋」 (Web資料から)

 

先日(11月28日) 
浮世絵師 小林清親に触れたが

その作品の一つに
「千ほんくい両国橋」がある。

千ほんくいとは 
百本くいともいわれ

江戸から明治時代末期まで 
隅田川左岸 両国橋上流に
護岸のために打たれた杭をいう。

その光景は墨田川の風物詩になり
広重などの浮世絵にもなり
小林清親も絵にしている。

 
広重・江戸百景「両国花火の図」
(隅田川テラス)


 (隅田川テラス)


 説明文には

「 両国橋と百本杭
両国橋の風景を
特徴づけるもののひとつに、
百本杭があります。
昭和5年(1930)に荒川不水路が
完成するまで、隅田川には荒川、
中川、綾瀬川が合流していました。
そのため隅田川は水量が多く、
湾曲部ではその勢いが増して
川岸が浸食されました。
 両国橋付近はとりわけ
湾曲がきつく流れが急であったため、
上流からの流れが強く
当たる両国橋北側には、
数多くの杭が打たれました。
水中に打ち込んだ杭の抵抗で
流れを和らげ、
川岸を保護するためです。
夥しい数の杭はいつしか
百本杭と呼ばれるようになり、
その光景は隅田川の風物詩として
人々に親しまれるようになりました。
江戸時代の歌舞伎では、
多くの作品の重要な場面に
「両国百本杭の場」が登場します。
「十六夜清心」でも、
冒頭に「稲瀬川百本杭の場」が
おかれています。
稲瀬川は鎌倉を流れる川の名ですが、
歌舞伎の中では隅田川に
見立てられることがあります。
観客は「百本杭」という言葉から、
この場面が実は隅田川を
舞台としていることに気づくのです。
百本杭はそれほど人々に
知られた場所だったのです。
 また、明治17年(1884)に
陸軍参謀本部が作成した地図には、
両国橋北側の川沿いに
細かく点が打たれ、
それが百本杭を示しています。
 明治35年(1902)に
幸田露伴は『水の東京』を発表し、
「百本杭は渡船場の下にて、
本所側の岸の川中に
張り出たるところの懐をいふ。
岸を護る杭のいと多ければ
百本杭とはいふなり。
このあたり川の東の方水深くして、
百本杭の辺はまた特に深し。
こゝにて鯉を釣る人の多きは
人の知るところなり」と
富士見の渡の南側から
見られた様子を綴っています。
このほか、本所向島に親しんだ
多くの文人が、百本杭と往時の
記憶について書き留めています。
 しかい、明治時代末期から
始められた護岸工事で
殆どの杭は抜かれ、百本杭と
隅田川がおりなす風情は
今では見られなくなりました。
 平成23年(2011)3月
   墨田区教育委員会 」

また絵だけでなく
歌舞伎「色街模様煎色縫」の
 「稲瀬川百本杭の場」 
落語「百本杭」
にもある。

 

 

 



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