あかない日記

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信州紀行 須坂市32 奥田神社

2019-12-06 | 国内・長野

 

常磐町に奥田神社がある。

 

説明文には 
 「奥田神社 由緒
祭神は、直重大明神、
直虎大明神の二柱を祭る。


初代須坂藩主堀直重公は、
慶長3年14才、
初めて徳川秀忠に出仕、

同5年、上杉景勝討伐、
従軍の功によって、

下総国香取郡矢作
(千葉県佐原市)に
弐千石を賜る。


慶長15年信州高井郡の内に
加増あって、八千石となる。

慶長19年大阪冬の陣、
元和元年夏の陣に、
いずれも抜群の殊勲あって凱旋、

四千五十石加増されて、
信州須坂13ヶ村

および下総国矢作の地、
総計壱万弐千五十石余を領す。

よって、元和元年8月、
領内初巡視並びに
陣屋築造のため入国、

普願寺に、仮陣屋を設け、
家臣を留めて矢作に帰り、

元和3年6月、
下総国に於いて病歿す。


墓所は、
佐原市香取町新福寺にある。


13代藩主堀直虎公は、
文久元年10月、26才の時、
兄直武の後をうけて封を襲ぐ。

時に、河野、野口等の
権臣跋扈して領内疲弊の極に達す。

茲に於いて家督するや、
大英断を以て、

野口等40余名を追放して、
藩政を改革し、

又、人民の貧苦を救うため、
1年間の納税を免除し、

拝借金全部を惠与するなど、
仁政を施した。

又、直虎公は夙に洋学を志し、
旧来の兵制の恃むに足らぬを察して、

全藩洋式に改め、英式を採用、
甲冑弓槍を売却して、
銃器や洋服を購入した。


慶応3年、32才の若さをもって、
幕府の要職、

若年寄兼外国奉行の要職につき、
藩政に参与された。

時、恰も、幕末に際し、
尊王攘夷開国の世論が沸騰し、
議論定まらず、

騒然たる国情の中にあって、
公は毅然として、
尊皇の大義により、

将軍徳川慶喜に断乎、
恭順の意をすすめたるに、
その議は容れるところとならず、

遂に、公は憤然として、
江戸城に於て自刃し、
その赤誠を表明、

以て、維新開花の礎石と
なられたのである。

時に、慶応4年1月17日のことである。

直虎公の墓は赤坂の種徳寺にあり、
臥竜山に霊廟が建てられている。

文久より慶応年間に
渉った其の治教徳政を歓迎し、

明治13年11月奥田神社を建立した。 
宗教法人奥田神社」 

とある。

ここでちょっと疑問が
須坂藩主は「堀家」だが 
何故「奥田」神社なのか?

答えは 初代藩主堀直重の祖は、
尾張国奥田庄の土豪であったので
明治維新後、14代藩主堀直明は、
本姓の「奥田」に戻した。

これにより堀家を祀る「奥田神社」
となったという。