大人になってピアノを再開してから今まで、もう20年とか経っているけれど…
←すぐやめちゃったとしてもやった分はちゃんと
ピアノを習っている子供は、なかなか「20年」続けることってないじゃないですか。多くは中学生くらいでやめちゃう…私はちょっと早かったけど(小学三年生)。
私以外でも、周りにいる人の多くが、子供のころにピアノを習っていて、ある程度でやめてしまって、20年、30年経ってから再開し、そこからは長くピアノを続けたりしているわけですが、そういう人は「子供のころ(少しであっても)ピアノをやっていてよかった」と思っているのでは? 別に大人になってから初めて習ってもいいし、たっぷり楽しめると思うけれど、子供のころにある程度やってあるからこそできることとか、やりやすさとか、そういうのは感じますよね。
twitter、もとい、Xで見かけたピアニスト/先生の投稿(Rudi Faust/ルディ・ファウスト)で
「…虚しいな…
中学を境をどんなに一生懸命教えた子も凄く弾ける子も超高確率でやめていく。勉強に加えて部活と両立出来なくて。
いつかは皆教室を去るのは分かってるけど、まだ教えたい事が山ほどあるのに結局全員辞めるなら何の為に自分はピアノを教えてるんだろう。1人だけ熱くなって馬鹿みたいだ。」
というのを読んで、びっくり。
子供にピアノを教えていたら、ごく少数の子はずっと続けて専門家になったりするかもしれないけれど、大半はたぶん中学生くらいまででやめてしまうでしょう。先生がどんな優れた先生であっても大概そんなもん。でもそれが…なんにもならなかった、虚しい、って受け止め方になるというのは???
だいたい、子供に何か教えるのって、それがその形のまま続いていくことだけに価値を置くとしたら、ほとんどすべてが虚しいってことになってしまいませんか? たとえば中学で習った古文、高校で習った数学についてその後も学びを継続していますか? さらには、それを専門にしましたか? といったらまぁほぼそんなことはない。習い事も同様。
習い事であれ、学校で学ぶことであれほとんどのことは、それを専門にやろうってことになってないわけです。当たり前。でも、だから無駄だってことではなくて、表面上はキレイに忘れているようであっても、教養の一部や人格形成の一部になり、その人を支えるなにがしかにはなっているものでしょう。
むしろピアノは、直接的にも役立つ可能性がかなり高いほうではないでしょうか。大人になってからピアノそのものを再開する人も多いし、ピアノじゃなくても何か音楽をやることも多いし…
ただ、我々ピアノ愛好家は(おそらく)子供のころ習ったピアノの先生に多大なる感謝をしつつも、それを伝えたことはない人が多いのではないかと思います。大人になってピアノを再開するときには、地理的にとかその他の理由から、昔と同じ先生に習うことのほうが稀でしょうし、もう連絡がつかないということも多いでしょう。
そして、子供のころに習ったもろもろのことがどんなに今の自分に役立っていようが、それを教えてくれた先生にいちいち感謝を伝えるという習慣は、たぶんない。だいたい、いったい生涯どれくらいの「先生」のお世話になったことやら、いちいち伝えていたらきりがありません。たぶん、先生のほうだって、もし全員が大人になってから感謝を伝えにきたらたいへんですよw
でも、だからこそたまに、ほんとにたまに、何十年も経ってから感謝を伝えてくれる元生徒がいたらうれしいんじゃないかな?
私は去年、小さいころにピアノを習っていた先生(のひとり)の連絡先を教えてもらう機会があって、葉書を出しました。葉書には、今、ピアノを楽しんでいることと、昔ピアノを習っていてよかったと思っていることを書いて、YouTubeにアップした私の演奏のリンク(QRコード)も載せました。(たいへん喜んでいただけたようです)
まぁそんなことがあってもいいんですが…
ふつう「教える」ってことは、それがいったい後にどんなふうにその人の中で生きているのかなんて、知ることができないんですよ。そういう仕事だと思いますし、それでいいんじゃないでしょうか。生徒たちが後にどうなるかについては想像するしかない…その想像のクオリティも先生をするうえでの資質のひとつだと思うんです。
ピアニストになるだけがイイコトじゃないのよ
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ピアノを習っている子供は、なかなか「20年」続けることってないじゃないですか。多くは中学生くらいでやめちゃう…私はちょっと早かったけど(小学三年生)。
私以外でも、周りにいる人の多くが、子供のころにピアノを習っていて、ある程度でやめてしまって、20年、30年経ってから再開し、そこからは長くピアノを続けたりしているわけですが、そういう人は「子供のころ(少しであっても)ピアノをやっていてよかった」と思っているのでは? 別に大人になってから初めて習ってもいいし、たっぷり楽しめると思うけれど、子供のころにある程度やってあるからこそできることとか、やりやすさとか、そういうのは感じますよね。
twitter、もとい、Xで見かけたピアニスト/先生の投稿(Rudi Faust/ルディ・ファウスト)で
「…虚しいな…
中学を境をどんなに一生懸命教えた子も凄く弾ける子も超高確率でやめていく。勉強に加えて部活と両立出来なくて。
いつかは皆教室を去るのは分かってるけど、まだ教えたい事が山ほどあるのに結局全員辞めるなら何の為に自分はピアノを教えてるんだろう。1人だけ熱くなって馬鹿みたいだ。」
というのを読んで、びっくり。
子供にピアノを教えていたら、ごく少数の子はずっと続けて専門家になったりするかもしれないけれど、大半はたぶん中学生くらいまででやめてしまうでしょう。先生がどんな優れた先生であっても大概そんなもん。でもそれが…なんにもならなかった、虚しい、って受け止め方になるというのは???
だいたい、子供に何か教えるのって、それがその形のまま続いていくことだけに価値を置くとしたら、ほとんどすべてが虚しいってことになってしまいませんか? たとえば中学で習った古文、高校で習った数学についてその後も学びを継続していますか? さらには、それを専門にしましたか? といったらまぁほぼそんなことはない。習い事も同様。
習い事であれ、学校で学ぶことであれほとんどのことは、それを専門にやろうってことになってないわけです。当たり前。でも、だから無駄だってことではなくて、表面上はキレイに忘れているようであっても、教養の一部や人格形成の一部になり、その人を支えるなにがしかにはなっているものでしょう。
むしろピアノは、直接的にも役立つ可能性がかなり高いほうではないでしょうか。大人になってからピアノそのものを再開する人も多いし、ピアノじゃなくても何か音楽をやることも多いし…
ただ、我々ピアノ愛好家は(おそらく)子供のころ習ったピアノの先生に多大なる感謝をしつつも、それを伝えたことはない人が多いのではないかと思います。大人になってピアノを再開するときには、地理的にとかその他の理由から、昔と同じ先生に習うことのほうが稀でしょうし、もう連絡がつかないということも多いでしょう。
そして、子供のころに習ったもろもろのことがどんなに今の自分に役立っていようが、それを教えてくれた先生にいちいち感謝を伝えるという習慣は、たぶんない。だいたい、いったい生涯どれくらいの「先生」のお世話になったことやら、いちいち伝えていたらきりがありません。たぶん、先生のほうだって、もし全員が大人になってから感謝を伝えにきたらたいへんですよw
でも、だからこそたまに、ほんとにたまに、何十年も経ってから感謝を伝えてくれる元生徒がいたらうれしいんじゃないかな?
私は去年、小さいころにピアノを習っていた先生(のひとり)の連絡先を教えてもらう機会があって、葉書を出しました。葉書には、今、ピアノを楽しんでいることと、昔ピアノを習っていてよかったと思っていることを書いて、YouTubeにアップした私の演奏のリンク(QRコード)も載せました。(たいへん喜んでいただけたようです)
まぁそんなことがあってもいいんですが…
ふつう「教える」ってことは、それがいったい後にどんなふうにその人の中で生きているのかなんて、知ることができないんですよ。そういう仕事だと思いますし、それでいいんじゃないでしょうか。生徒たちが後にどうなるかについては想像するしかない…その想像のクオリティも先生をするうえでの資質のひとつだと思うんです。
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