世田谷の歴史散歩です。
世田谷八幡ー豪徳寺ー世田谷城跡と来まして(ここまで昨日の記事)、そこから南下。世田谷線の上町駅を越えたら、天祖神社です。
こちら上町駅前にあった周辺地図です。
上町天祖神社に到着。
上町天祖神社 創建:年代不詳
ご祭神:天照大神
相殿:倉稲魂命
由緒:もと横根の地(伊勢森)にあった稲荷社の祠を、嘉永己酉(1849)当地へ移して新たに祠を作ったと伝えられます。
明治42年世田谷八幡に合祀されましたが、昭和6年地元の要望により本堂を建築。
訪問した時、ちょうど幼稚園児が境内で遊んでました。何気なくみてたのですが、園児が日本語をしゃべってません。先生の言葉も英語です。園児は日本の園児と同じスモッグを着て同じ帽子をかぶっています。さすが国際都市東京ね。
天祖神社を抜けると、道の向こうに世田谷代官屋敷がありました。
説明板発見:世田谷代官屋敷 重要文化財
江戸時代のはじめ、大場氏は彦根藩井伊家領世田谷(2300石余)の代官職を務め、明治維新に至るまで世襲していました。この屋敷地はその代官役所として使用した居宅を含む屋敷跡です。
大場氏は中世の世田谷城主であった吉良家の重臣でしたが、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めにより、北条方についた主家吉良家が没落すると、世田谷新宿(上町)に留まり帰農していました。寛永10年(1633)、井伊家が世田谷領15箇村(後に20箇村)を拝領した際に、代官に起用されました。以後、明治4年(1871)の廃藩置県に至るまで代官職を継ぎ、領内を統治してきました。
屋敷は江戸中期の建築であり、代官所の中心である母屋は約70坪(約231、4平方メートル)、茅葺きの寄せ棟造りで、茅葺きの表門、土蔵、白州跡などの一部が今も現存し、往時の代官屋敷の面影を伝えています。」
あれ門が閉まってる?中に入れないの?入口は~??
あたりを見回すと、門の左手に駐車場を見つけました。そこから敷地内に入れます。
表門の裏側。これを見るに、常時門は閉めてあるようです。
台所。土間です。ここだけ母屋の中で通り抜けられます。
手前が名主の詰め所。その奥が代官居間。更に奥が切腹の間です。
母屋の外に井戸がありました。
トップ画像はこの後撮影。母屋二階に座敷があります。
お白州跡。
代官屋敷と同じ敷地に、世田谷区立郷土資料館がありました。入館無料だったので入って見たら、特別展『世田谷の土地ー絵図と図面を読み解くー会期:2015年11月3日~12月6日 の開催中でした。
絵図展ですから、世田谷区近世の村絵図・裁許絵図・地租改正地引地図・区画整理地図など地図が一杯ありました。上の画像の中、中央の薄いオレンジ色の土地が、彦根藩井伊家の領地です。
資料館前には石仏も並んでます。
世田谷区というとボロ市が有名です。資料館にかつてのボロ市の様子を再現した模型が置いてありました。
ピンぼけ画像ですみません。
説明板発見:世田谷のボロ市 東京都指定無形民俗文化財(風俗慣習)
世田谷のボロ市は、天正6年(1578)に小田原城主北条氏政が世田谷新宿に宛てて発した「楽市掟書」に起源を持つとされる。掟書によると、この楽市は一と六の日の、一ヶ月に6日間開かれる六齋市であった。しかし江戸時代になると江戸商業圏の拡大により、市は年に一回、12月15日の歳の市となった。市で売買された品は多彩で、歳の市といっても単に正月を迎える準備のためだけではなく、一年を通して必要とする様々な品物をそろえる場であり、生活や農業生産の上で欠かせない市であった。
この市は、明治6年(1873)の太陽暦の採用によって、翌7年から西暦の歳の市に相当する1月15日にも開かれるようになり、また明治中期には16日も開催の定例となった。市の名称は、正式には『市町(いちまち)』といったが、明治中期頃から『ボロ市』が一般的となった。これはわらじの補強や野良着を繕うためのぼろや、古着などが市商品の大半を占めるようになったからである。
ボロ市は400年以上にわたり、それぞれの時代に対応し、様々な変化をしながらも、ほぼ同じ場所で継続して開かれてきた。戦後は急激な都市化と生活の変化によって扱われる商品も変わり、ボロ市も農村の生活市ではなくなってしまった。しかし、今でもボロ市は、数少なくなった正月を迎える節季意識を伝える行事として、多くの人に親しまれている。」
へえ~。かつて中央林間に住んでいた頃に一度だけボロ市に出かけた事があります。その時はあまりの人出に驚き、取扱い商品がショボかったのだけ覚えています。
世田谷八幡ー豪徳寺ー世田谷城跡と来まして(ここまで昨日の記事)、そこから南下。世田谷線の上町駅を越えたら、天祖神社です。
こちら上町駅前にあった周辺地図です。
上町天祖神社に到着。
上町天祖神社 創建:年代不詳
ご祭神:天照大神
相殿:倉稲魂命
由緒:もと横根の地(伊勢森)にあった稲荷社の祠を、嘉永己酉(1849)当地へ移して新たに祠を作ったと伝えられます。
明治42年世田谷八幡に合祀されましたが、昭和6年地元の要望により本堂を建築。
訪問した時、ちょうど幼稚園児が境内で遊んでました。何気なくみてたのですが、園児が日本語をしゃべってません。先生の言葉も英語です。園児は日本の園児と同じスモッグを着て同じ帽子をかぶっています。さすが国際都市東京ね。
天祖神社を抜けると、道の向こうに世田谷代官屋敷がありました。
説明板発見:世田谷代官屋敷 重要文化財
江戸時代のはじめ、大場氏は彦根藩井伊家領世田谷(2300石余)の代官職を務め、明治維新に至るまで世襲していました。この屋敷地はその代官役所として使用した居宅を含む屋敷跡です。
大場氏は中世の世田谷城主であった吉良家の重臣でしたが、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めにより、北条方についた主家吉良家が没落すると、世田谷新宿(上町)に留まり帰農していました。寛永10年(1633)、井伊家が世田谷領15箇村(後に20箇村)を拝領した際に、代官に起用されました。以後、明治4年(1871)の廃藩置県に至るまで代官職を継ぎ、領内を統治してきました。
屋敷は江戸中期の建築であり、代官所の中心である母屋は約70坪(約231、4平方メートル)、茅葺きの寄せ棟造りで、茅葺きの表門、土蔵、白州跡などの一部が今も現存し、往時の代官屋敷の面影を伝えています。」
あれ門が閉まってる?中に入れないの?入口は~??
あたりを見回すと、門の左手に駐車場を見つけました。そこから敷地内に入れます。
表門の裏側。これを見るに、常時門は閉めてあるようです。
台所。土間です。ここだけ母屋の中で通り抜けられます。
手前が名主の詰め所。その奥が代官居間。更に奥が切腹の間です。
母屋の外に井戸がありました。
トップ画像はこの後撮影。母屋二階に座敷があります。
お白州跡。
代官屋敷と同じ敷地に、世田谷区立郷土資料館がありました。入館無料だったので入って見たら、特別展『世田谷の土地ー絵図と図面を読み解くー会期:2015年11月3日~12月6日 の開催中でした。
絵図展ですから、世田谷区近世の村絵図・裁許絵図・地租改正地引地図・区画整理地図など地図が一杯ありました。上の画像の中、中央の薄いオレンジ色の土地が、彦根藩井伊家の領地です。
資料館前には石仏も並んでます。
世田谷区というとボロ市が有名です。資料館にかつてのボロ市の様子を再現した模型が置いてありました。
ピンぼけ画像ですみません。
説明板発見:世田谷のボロ市 東京都指定無形民俗文化財(風俗慣習)
世田谷のボロ市は、天正6年(1578)に小田原城主北条氏政が世田谷新宿に宛てて発した「楽市掟書」に起源を持つとされる。掟書によると、この楽市は一と六の日の、一ヶ月に6日間開かれる六齋市であった。しかし江戸時代になると江戸商業圏の拡大により、市は年に一回、12月15日の歳の市となった。市で売買された品は多彩で、歳の市といっても単に正月を迎える準備のためだけではなく、一年を通して必要とする様々な品物をそろえる場であり、生活や農業生産の上で欠かせない市であった。
この市は、明治6年(1873)の太陽暦の採用によって、翌7年から西暦の歳の市に相当する1月15日にも開かれるようになり、また明治中期には16日も開催の定例となった。市の名称は、正式には『市町(いちまち)』といったが、明治中期頃から『ボロ市』が一般的となった。これはわらじの補強や野良着を繕うためのぼろや、古着などが市商品の大半を占めるようになったからである。
ボロ市は400年以上にわたり、それぞれの時代に対応し、様々な変化をしながらも、ほぼ同じ場所で継続して開かれてきた。戦後は急激な都市化と生活の変化によって扱われる商品も変わり、ボロ市も農村の生活市ではなくなってしまった。しかし、今でもボロ市は、数少なくなった正月を迎える節季意識を伝える行事として、多くの人に親しまれている。」
へえ~。かつて中央林間に住んでいた頃に一度だけボロ市に出かけた事があります。その時はあまりの人出に驚き、取扱い商品がショボかったのだけ覚えています。