先週木曜に久々に接骨院へ。10月で治療満了で卒業する予定だったのに、帯状疱疹が左の背中から腰骨から下腹に出たせいで、痛くなく寝るにはようやく治療が終わりつつある右足を犠牲にした。しかも10月17日から11月3日過ぎまで半月以上も。当然右足はまたも痛み始めていた。結局11月はそのまま治療を続けて様子見となる。結果、かかりつけ医に鍼灸同意書をもらいに行き、昨日の朝一、同意書持参で久々に右足に針を打つ。むむむむ!!!予想以上にビリビリが走った!こりゃ、自覚する以上に痛めたようでがっかりだ。けども凹んでても何にもならん!ので、治療後そのままゆるゆると散歩に向かう。まずは新磯のざる菊だ。
10時23分ざる菊花見会場到着。見頃だった前回、唯一咲きそろってなかったピンク色のざる菊も咲いていた。
けども、今回多く植栽された白色は見頃の盛りを過ぎつつある。ざる菊はざるを伏せたように咲くことからその名前がつけられているけども、成長しててっぺんが破れてざるに穴が空いてる株が増えてきたのと、白色が盛りが過ぎてピンクがかってきている。全ての色が咲きそろうには植えるタイミングが難しい模様です。ちなみに、新磯のざる菊は以前は基本無料で見学できましたが、近年は見学者に募金を募ってます。来年以降も綺麗なざる菊を楽しみたいので、心ばかりですが募金箱に投入〜。
ちなみに、入り口辺りに生産直売野菜も売られてます。欲しかったけども、散策は始まったばかり。ここで野菜を買い持ち歩けない。諦める。時刻は10時32分、移動する。
さて?どこへ行こうか?と迷って、そういえば付近の勝坂は何かと歴史的見所が散在してたハズ。
10時39分、勝源寺さん到着。
画像ではわかりませんが、背後の里山みたいなのは相模川の段丘です。段丘の上はアメリカ軍の座間キャンプと自衛隊の部隊基地になってます。
勝源寺:「新編相模国風土記稿」(天保12(1841成立)によると、龍鳳寺(厚木市)の末寺で山号を金澤山といい、千手観音を本尊としています。当寺には「六本庚申」と呼ばれる青面金剛像が安置され、明治から大正にかけては養蚕守護を願う参拝者で賑わったといいます。」
10時42分出発。すぐ近くに石楯尾神社さんがあるハズなんだけど?どこにあるんだろうか?見たことないなあ??
あった!わからないのも当たり前。
分かります?目的の石楯尾神社さんは、先ほど勝源寺さんの背後に見えてた段丘の上にあったんですよ。ってなことで、まずはレッツ石段登り〜。
見えた!疲れた〜〜!!もうね。帯状疱疹の水疱瘡ウイルスを他人に撒き散らさないようにと半月も家に引きこもってたツケでしょうか?き、筋肉が〜、だいぶん萎えてる〜〜!筋肉パワーで石段を登れなかった〜。辛い〜〜。
石楯尾神社:「創建は不詳。再建は寛永12(1635)年で大己貴命を祭神としています。明治時代初期までは「羽黒権現社」と称してました。」
石段の左右に大きな木が一杯。神社仏閣にありがちな杉も多いけども、照葉樹林も多い。実は相模原は江戸時代は炭作りのまき場が広がっていて、勝坂周辺はかつての様子が残ってます。いつものようにまずは石段上りつつきのこを探してみたけど、それはすでに時期が遅かったのか全くなかったわ。でもさ、かつては炭を作るために手入れされてただろう照葉樹林も、今では放置してあるようで、かかり木が結構ある。背も高いし、いや、太陽を奪い合う木が多いのか、ヒョロヒョロしてて不健康そうな林だなあ。
降りてきた。最後の鳥居の手前に大きめの楠が並んでる。
見上げてみると、途中で2つに枝分かれしている。有用な材にならなくて放置かな?軽く樹齢150年超えはあると思う太さなんだけども。時刻は10時57分。
さてと?先ほど見つけた案内板を再チェック。左→石楯尾神社。右→勝坂遺跡A区。
勝坂遺跡は縄文遺跡なのだ。結構珍しい。A区とあるので、B/C/D区もあるやもしれん。私が知ってる勝坂遺跡は、縄文式縦穴住居が再現してる場所だし?案内板通りに進んでみた。
あれ?なんか、広場のみだった。もしかして場所が違うのか??けどもあぜ道だし、説明板もないし??調べたらば、勝坂遺跡A区「平成18年に新に追加指定された区域で、現在国指定史跡として保存しています。大正15年の大山柏氏の調査地点であり、この付近が勝坂式土器の発見の地と言われています」とあった。
なんか、ふわっと思い出したぞ?この2月だっけ?海老名で巨木散歩したラストに海老名の国分寺跡を見学して隣接の資料館で解説員さんの話を聞いたんだけども、勝坂の縄文式土器ってそこそこ有名だとかなんとか。ここが発掘現場だったか。けども原っぱだけではブログ記事にしづらいので、集落跡を再現してる勝坂遺跡公園へ行くか。
途中で庚申塚かな?石像を見つけました。勝源寺さん周辺には多く散在してるとあったけども、あっさり1つ目発見です。
11時8分、、国指定史跡、勝坂遺跡公園(勝坂遺跡D区)到着。
勝坂遺跡公園「縄文時代中期(約5000年前)の大集落跡です。大正15年(1926)大山柏氏によって発見された土器は、装飾的な文様や顔面把手(顔を表現した取っ手)などにより注目を浴び、後に「勝坂式土器」として縄文中期のめやすとされました。
また、同時に発見された多くの打製石斧を、土を掘る道具と考えて原始農耕論が提唱されました」
画像は縄文の集落景観を再現した竪穴式住居です。画像奥右が約4700年前の縄文中期後葉の笹葺き復元竪穴式住居です。柱材に栗を使用。画像奥左が同じく約4700年前の土葺き復元竪穴式住居です。土葺きのほうは、雨漏りや湿気のため、雨の多い時期には住むには適さず、寒い時期だけの冬の家と考えられてます。公園内に復元してある竪穴式住居はこの2個のみ。あとは周辺に放棄された廃絶住居跡の丸い窪地がいくつかあります。窪地は縄文時代にはゴミ捨て場に使われていたとかで、発掘すると大量の土器や石器が出てきたとか。公園ないには縄文時代に活用されていた栗などの木が植えてあります。小学生の校外学習に活用されてるのかな?けども、久々に来たら再現された竪穴式住居が随分ボロくなってます。以前は内部も見学できたのですが、2棟とも入り口を閉鎖してます。近いうちに建て替えが必要ではなかろうか?
前回勝坂遺跡公園を散策した時の様子のリンク記事を貼っておきます。
地図発見。そういえば、すぐそばに有鹿神社さんの奥宮があるんだった。有鹿神社さんは海老名市の相模川沿いにあるとても古い神社さんです。地域の昔話にも登場し、以前訪問したことがある。その奥宮が勝坂遺跡公園の段丘の下にあると知り、以前から気になってたけども、行き方がわからず訪問出来てない。いい機会だし探してみようかな?
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