あられの日記

カテゴリーは場所優先。鶴岡八幡宮は寺院・仏閣ではなく「鎌倉」に。一部検索し易さ優先で、花カテゴリーに入れてる場合も。

将軍家の菩提寺

2012年03月19日 06時05分34秒 | 神社・仏閣
文京区善光坂寺を上って伝通院に到着です、時刻は既に14時36分!いけません。スピードアップしないと~。
でもでもでも~~
なんだか真新しいんですけど??アレレ~???
でもここ、歴史好きには必見の場所なので、三門がまだ造ってるところでもっ。

本殿も造ってる所でもっ。我慢するも~~~んっ!!(ちっ、建て替える前に来るんだったぜ)
説明板発見。
正式名称:無量山伝通院寿経寺
宗旨:浄土宗(開祖法然上人)…徳川将軍家のお墓がある増上寺と同じだ。
本尊:阿弥陀如来
伝通院のあゆみ
当山は今から約600年程前の応永22年(1415)浄土宗臺祖了誉聖よ上人が開山したお寺。当時は小石川極楽水の小さな草庵で無量山寿経寺という名で開創された。
それから200年後慶長7年(1602)8月29日、家康公の生母お大の方が逝去され、この寿経寺を菩提寺と定めた。お大の方は法名「伝通院殿」から「伝通院」と呼ばれるようになり、徳川家の庇護のもと、大伽藍が整えられた。
また当山は関東18檀林の一つとして学僧の修行勉学の場となり僧侶養成の重責を担っていた。
幕末の文久3年(1863)2月4日、新撰組の前身となる浪士組が山内の塔頭処静院(しょじょういん)で結成され、山岡鉄舟・清河八郎を中心に近藤勇・土方歳三・沖田総司・芹沢鴨ら250人が集まった。また伝通院は、彰義隊結成のきっかけの場ともなったという。
更に明治以後には淑徳女学校を設立。広く社会に向けて子女教育にも力を注いでいる。
しかし、このような歴史の中にも、享保6年(1721)・同10年(1725)・明治43年(1910)の三度の大火にあい、更には第二次世界大戦では境内建物、宝物の全て灰燼に記してしまった。戦後は復興にはげみ、昭和63年(1988)新本堂を建立。平成9年(1997)に織月会館を建立。平成11年(1999)には観音堂(休憩所)を建立し現在に至っている。」
ここもか…。江戸のものはなんも残ってないんですね。
でも火事や空襲でも残ったものがあります。
それが伝通院の墓所です。
於大の墓(徳川家康の生母)
説明板があります。「享禄元年ー慶長7年(1528-1602)、徳川家康の生母。三河(愛知県)刈屋の城主・水野忠政の娘。天文10年(1541)岡崎城主・松平広忠と結婚。翌年に家康を生む。
後に離婚して阿古屋城主・久松俊勝に再婚するも人質として織田方や今川方を転々とするわが子家康を慰め、音信を断たなかったという。
法名、伝通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼にちなみ、この寺の通り名を「伝通院」とした。」
墓域には徳川家の人びと他、著名人も埋葬されている。


明日は伝通院の墓所を紹介します。   神社・お寺巡り ブログランキングへ
昨日のHARU.COMIC.CITY参加された皆様、おつかれさまでした。お天気はいま一つでしたが、あまり寒くはありませんでした。
さすがにビッグサイト全館開催は凄くて、私が配置された西3ホールは、西館の2階だったので、導線がもうダメダメ。大量の人が移動出来るようになってな~いっ。やっぱ、会場は回遊型に導線を作らんといかんなぁ~。
さて、そんな配置の悪条件でしたが、おかげさまで中国湖南省武陵源旅行記・中国遼寧省旅順写真集はおかげさまで売り切れました。ありがとうございます。
尚、中国遼寧省旅順写真集は、大阪方面に参加してるぶめちゃんが在庫を少し持ってるかもしれんので、大阪方面のイベントに参加された方は、「竹里館出版局」「竹里館旅游社」でサークル名を検索してみて下さい。
って、ぶめちゃん、今週末開催の3月のCOMIC.CITY大阪には申し込んであるんだっけ??そこんとこどうなの??

追記:
ぶめちゃんがコメント書き込みしてくれたので、記事の方にも記載しますね。
3月25日の大阪C.CITYに竹里館出版局には参加しません。
4月1日のそうさく畑(神戸サンボーホール)に参加します。
     スペース配置:7丁目15番地
5月6日のSUPER.COMIC.CITY大阪も不参加。
(開催日程の都合上見送りました)
*5月はぶめちゃんは4日が東京ビッグサイトのSUPER.C.CITY・5日はCOMITIA東京の参加で上京するので、体力が持たないんだね。
COMITIAは今回100回記念祭なので、ふだん参加しない既にプロになったり、卒業したサークルさんも気合い入れて参加するんだって!!楽しみだよね~。…新刊の原稿やらないと!!
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沢蔵司の伝説?

2012年03月18日 05時43分42秒 | 神社・仏閣
本日、3月18日に開催の同人誌即売会HARU.C.CITY東京に参加します。
会場東京ビッグサイト
サークル名:竹里館出版局(ちくりかんしゅっぱんきょく)
配置:西3ホール ふー35a
開催時間:10:00-15:00

こんにゃくえんまから伝通院へ行くには、善光寺坂を上る道を選択。
ちなみに坂の名前は坂の途中にある善光寺から取ってある。善光寺は慶長7年(1602)の創建で、伝通院の塔頭で、縁受院と称した。明治17年(1884)に改称。従って坂の名前は明治に入ってから付いたらしい。
江戸ってなにげに坂が多いんだよね。ま、鎌倉程じゃないけど。坂を上がっていくと、賑やかなお囃子が聞こえてきた!もしや遂に節分の追儺祭に行き当たったのか?ワクワクしつつ音源を探して足取りも軽い。
む?なぜにここにぽっかりと空間があるのか??
実はこれ…大変意味ある空間でした。空間に隣接する坂上より音が聞こえてくる。
慈眼院・沢蔵司稲荷(じげんいん・たくぞうすいなり)
沢蔵司~?何やらきき覚えのある名前だわ。何故に~~??つーか、どこで??
あ。説明板発見。
「伝通院の学寮(栴檀林といって修行するところ)に、沢蔵司という修行僧がいた。僅か三年で浄土宗の奥義を極めた。元和6年(1620)5月7日の夜、学寮長の極山和尚の夢枕に立った。
「そもそも、余は千代田城の内の稲荷大明神である。かねて浄土宗の勉学をしたいと思っていたが、多年の希望をここに達した。今より元の神にかえるが、長く当山(伝通院)を守護して、恩に報いよう」
と告げて、暁の雲にかくれたという。(『江戸名所図絵』『江戸志』)
そこで、伝通院の住職廓山上人は、沢蔵司稲荷を境内に祭り、慈眼院を別当寺とした。江戸時代から参詣する人が多く繁栄した。
『東京名所図絵』には、「東裏の崖下に狐棲(狐のすむ)洞穴あり」とある。今も霊窟と称する窪地があり、奥に洞穴があって、稲荷が祭られている。
伝通院の門前のそば屋に、沢蔵司はよくそばを食べに行った。
沢蔵司が来たときは、売り上げの中に必ず木の葉が入っていた。主人は、沢蔵司じゃ稲荷大明神であったのかと驚き、毎朝「お初」のそばを供え、いなりそばと称したという。
また、すぐ前の善行寺坂にムクの老樹があるが、これには沢蔵司がやどっているといわれる。道路拡幅のとき、道をふたまたにしてよけて通るようにした。
沢蔵司 てんぷらそばが お気に入り(古川柳)」へえ~へえ~へえ~!!
あ。思い出した。
なんかねえ、この説明板に書いてあるそば屋が毎朝「お初」のそばを供えている。という下り、これって現在もやってるようです。つーか、いつかこのニュース映像を見た事あるもん。
そして、沢蔵司が宿るというムクの木ですが、善光寺坂の途中に二またに分かれている道が残ってます。もちろん間に大きな木がありました。文京区っていろいろ残ってますねえ。
トップ画像は慈眼寺の本堂ですが、よ~く見ると、正面に白い狐の彫り物がなされてます。
  
境内も稲荷神社の拵えがあちこちに。   人気ブログランキングへ
さて、次こそ伝通院~~!!
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えんま様発見!

2012年03月17日 05時54分46秒 | 神社・仏閣
都営地下鉄大江戸線飯田橋駅から一駅、後楽園駅に到着。目指すはA5出口です。
でもなー!!地下でどないに繋がっとるんじゃっ!つーか設計者出てこい~~っ!!
なぜにか後楽園駅のホームを直進したら都営地下鉄三田線の春日駅のホームに直結していた。ホームの端まで歩いてようやく地上へ無駄に複雑だ。
そんなこんなで目指すは伝通院なのですが、その前にこんにゃくえんま様に立ち寄る。

まずは参拝です。
って、ナニコレ!!!
左下方へズームイン!

山積みのこんにゃくです。
何の為にこんにゃく~?
あ。開いてる。
隙間から覗くと、大きなえんま像が正面に座ってます~。
えんま様!
珍しくないですか?私、北鎌倉にある応仁寺位しか思いつかんわ~。
近くでお顔を見たい。誰もいない。ここ、上がっていいんだろうか?
あっこさんに止められたので思いとどまりました。
閻魔王座像の説明板発見!
「木造 閻魔王座像(文京区指定有形文化財)
源覚寺に伝わる閻魔像で、閻魔堂に安置されている。右眼が黄色く濁っているが、閻魔王が信心深い老婆に己の右目を与え、老婆は感謝のしるしとして”こんにゃく”を供え続けたという言い伝えがある。このことから、眼病治癒の『こんにゃく閻魔』として庶民の信仰を集めた。
像は高さ100、4センチ。ヒノキ材の寄せ木造りで、彩色を施し、玉眼が嵌入(かんにゅう)してある。優れたできばえを示し、運慶派の流れをくむ鎌倉時代の作と思われる。銘文によると、寛文12年(1672)に仏師竹内浄正が修理している。
閻魔王は、冥界にあって死者の生前の在郷を裁断する十王のうち、最も良く知られている。わが国の閻魔信仰は、平安時代後期にはじまり、鎌倉時代に盛んになった」だそうで。
それにしても~。
閻魔堂の狛犬大きすぎない?
バランス悪いよね?しかもこれ、狛犬というより、狛獅子じゃないかな~?なにげに中国テイストな狛犬だわ~~。…もしや、どっか別の所からもらってきたのか?
…なんか、変なの発見!
塩地蔵尊
何じゃこりゃぁあああああ~~~~!!
なんか、塩まみれなんですけど!?
あ、立て札発見『塩地蔵尊 当山開創寛永元年(1624)以前よりこの地にあって人びとの信仰を集めたと伝えられる。
地蔵尊のお身体に塩を盛ってお参りすることから塩地蔵と称し、その由来には、古来より塩は清めとして用いられることにより、参詣者の身体健康を祈願するものと説かれる。』だそうで。
なんか、今日の散歩って節分巡りっていうより、江戸の民間信仰巡りになってきたなあ~。
ってここで疑問なんですけど~?ここに山盛りに塩と山盛りのこんにゃくの行方が気になります。
これ、どうするんだろ???
捨てるの??????
さて、塩地蔵尊の隣にある建物の中に安置してあったのはコレ。

これって、毘沙門天だよね?
あ。あっちにもなんかある。

これ、よくある観音様かと思いきや…。背後にある石碑が驚きです。
実は第二次世界大戦でサイパンなど南洋群島で犠牲になった人たちを追悼する菩薩像なのです。船の写真はその時に沈んだもの。う~む。なぜにこんな所に…。
こんな所といえばこれも驚き。
汎太平洋の鐘
元禄3年 粉河丹後守の鋳造により当山に奉納
昭和12年 サイパン島南洋寺に転出 南太平洋にひびきわたる。
昭和19年 サイパン島軍民玉砕して 以後消息不明となる。
昭和40年 米国テキサス州オデッサ市において発見される。
昭和49年 カリフォルニア州オークランド市居住D・Vヘレヤー氏によって、サンフランシスコさくら祭に展示され、その後当山に寄贈される。
これって軽く奇跡ですよね?よく戻ってきたなあ…。
今ではすっかりこじんまりとした寺ですが、新旧、いろんな信仰が交差してる場所なんですね。
ちなみに、源覚寺の本尊は阿弥陀三尊です。江戸時代4度ほど火事にあってるけど、本尊とこんにゃくえんま像は火事を逃れてます。これだけはと時代時代に生きた人が守ったんだろうねえ。

売店に人影がありません。
ちなみに、こんにゃくえんまの滞在は、14時13分-14時20分!今日は時間が押してるのでこれでおしまいだっ。
さて、次は本日のメインイベント!伝通寺~~~っ!!!  

こんにゃくえんまから伝通院を目指してると、町並みが昭和の雰囲気になってきた。
ええ~~???都内ってこんなの~~??   人気ブログランキングへ
明日、3月18日に同人誌即売会HARU.C.CITY東京に参加します。
会場:東京ビッグサイト東1-6ホール、西1-4ホールの全館開催
サークル名:竹里館出版局(ちくりかんしゅっぱんきょく)
配置:西3ホール ふー35a
開催時間:10:00-15:00
です。
残念ながら明日合わせの新刊はありません。ごめんね~。
でも在庫は全種類搬入します。
テーブルに載ってない場合もありますが、声かけて下さるとお出しします。
中国湖南省 武陵源の旅&中国遼寧省旅順写真集は共に残部1冊となってます。明日、コミック・シティに参加する皆様、早めにお越し下さいね。
明日、お会い出来るのを楽しみに~。よろしく~~。
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毘沙門天の節分は?

2012年03月16日 05時56分08秒 | 犬&狛犬シリーズ
12時56分、神楽坂の毘沙門天到着です。ここをチョイスした理由は2つ。
連れのあっこさんに珍しい狛犬ならぬ狛虎を見せたかったから。虎は毘沙門天にはつきものです。
そして神楽坂の毘沙門天(善国寺)が「Let's エンジョイ東京」の東京のおすすめ節分会・豆まきイベントにピックアッップされてたからです。
でも今日のお散歩のメインは1)節分限定猫地蔵開帳 2)徳川家所縁の伝通院 3)日本橋界隈散歩
です。2月3日にお散歩するからには、東京の豆まきを見てみたいから、Let'sエンジョイ東京にピックアップされた神社・仏閣に立ち寄れば、どこかで見物出来るだろうと高をくくっていたのですが…。今日は何かと運が悪い。だ、大丈夫かなあ?
これが狛犬ならぬ狛虎です。
でもなあっ!まさか参拝出来ないとはなっ!!つーか、節分の豆まきの舞台を本殿に設えてるから、お参り出来ないのだ。あ…ありか?こんな~。や。ここは境内が狭いからね、仕方ないんだけどね。
気分がダダ下がりになって、退散する。
ちなみに、善国寺の由緒の説明
宗派:日蓮宗
創建:文禄4年(1595)
由緒:池上本門寺の末寺で、鎮護山善国寺称される。開基は徳川家康
度々火災に見舞われる、寛政5年(1793)に現在地に移転。本尊の毘沙門天は江戸時代より神楽坂の毘沙門様として信仰を集め、芝正伝寺・浅草正法寺とともに江戸三毘沙門と呼ばれた。現在は山手七福神の一つ。
ちなみに東京の縁日発祥の地。
さて、お腹がすいた!場所は神楽坂。少しお高いですが、おしゃれな飲食店は目白押しです。
 
ランチをいただきました。私には塩分摂取1日6グラムまでの制限があるので、みそ汁と漬け物はパスします。それでも東京の味付けは濃過ぎるけどね。
さて神楽坂通りを下り、不二家でペコちゃん人形焼きをお土産に購入。神楽坂には和菓子屋も多くて誘惑が一杯。おいしそうなパン屋もみかけて後ろ髪を引かれつつ先へ進む。
次は…。
飯田橋駅です。ええ。あの巨大乗り継駅。都営地下鉄大江戸線の乗り口はどこだ?
あ。なんか発見!


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一昨日ぼやいていた田舎の母が生卵を宅配で送った件ですが、昨夜荷物が到着しましたので、結果をお知らせします。
なんとっ!!
生卵は割れずに到着しました。ええ、1個も割れてませんでした。
運が良かったのか?
それともクロネコヤマトが凄いのか!?(ありがとうっ!クロネコっ!!見直したよっ)
なぜに母が生卵なんぞを娘に送ろうと思ったのか?理由は到着した卵を見てだいたい分かりました。
特別な卵だったんです。
1個が7センチもある卵って始めて見ましたよ。これはホンマに鶏の卵なのか?それとも別の鳥の卵なのか??
疑って割ってみた。
2個黄身が入っていた!!
念の為もう1個割ってみた。
またも卵1個に2個の黄身が入っていた!!
感動である。
これはブログ記事1個書くだけの話題だわ~。
うちの田舎ってタマに無謀なことを普通にやる人いるんだよね。なぜにこういう卵を作ろうと思ったのだろう…。
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未来の神社だわ

2012年03月15日 05時22分36秒 | 神社・仏閣
都営大江戸線東新宿駅から3つ。牛込神楽坂駅で降りる。
目指すは赤城神社さん。
………だったんですが~、迷いました!
あ~れぇ~~??
この辺だと思うんだけどなあ~??おかしいなあぁ??
仕方ないから地元民と辺りをつけて聞いてみますれば、「いや~、だいぶ遠いよ~。この先の大きな道で右へ行って、ずっと行ってまた聞いてみな?」とご隠居が苦笑い。
マズいっ。そんなに遠くないハズ。地図だとそうなってるもんっ!!
半信半疑で歩いてたら、こんなん見つけました。
東映アニメーション
ヤバいっ。こんなん神楽坂にあるハズないもんっ!
すぐさま地元民らしきマダムに尋ねると…。
「赤城神社~?近くにあったかしら??」
と。またもや不吉な感触。赤城神社は牛込の鎮守なのです。地元民が知らないハズないんです。
「ちょっと待ってていただける?娘き聞いてみるわ」
とマダムは自宅に戻りしばし…。
「わかったわよ。アナタ達、相当間違えてるわ。いい、この道を突き当たって、右へ。一つ目の信号を左へ。そこをずう~~っと直進したら、神楽坂の交差点に出るから。そこで左へいくの。う~ん?わかるかしら?」
分かりました!取りあえず、大分派手に道を間違えたんだね…。
ってな訳で、マダムに教えてもらった道を進んでいると、牛込神楽坂駅へ戻ってきた。
ハっ!!もしややっちゃった???
地図で確認する。A1出口を右。一つ目の信号を左だと思ってましたが、正解はA3出口を右。一つ目の信号を左だったんです!!ええ。ほぼ180度、真反対の場所でした。ってな訳でケアレスミスから大幅なタイムロスをしてしまいました。
神楽坂通りから発見した赤城神社の鳥居
そんなこんなで赤城神社さんに到着したのは既に午後12時34分でした。予定より既に1時間以上遅れててます。

赤城神社の由緒は、鎌倉時代の正安2年(1300)、上野の国赤城神社から勧請。
寛正元年(1460)に太田道灌により牛込台に遷座。
明治元年(1868)明治維新に際し、名を赤城神社と改める。
平成17年(2005)10月、戦災で焼失していた境内内の北野神社を蛍雪天神として再興。
蛍雪天神
平成20年(2008)3月、境内に隣接し、資金面で支えていた私立赤城幼稚園が閉園。
平成22年(2010)9月、赤城神社再生プロジェクト完成。
平成23年(2011)11月、2011年グッドデザイン賞受賞

っと言う訳で、赤城神社をお散歩の間に挟みました。
だって、グッドデザイン賞を受賞した神社って興味あるでしょう?

グッッデザイン賞は狛犬だって個性的。
なんでこういういきさつになったかと言うと…。
再生プロジェクト:平成21年(2009)から22年にかけて「赤城神社再生プロジェクト」と銘する工事が行われた。当初は老朽化した社殿の立て替えをする計画だったが、少子化により境内にあった幼稚園が閉園。資金面の難題を、幼稚園跡地に約70年の定期借地権付き分譲マンションを建設、建物内にホールやギャラリーの施設を併設して社殿の立て替え資金を稼ぎだす。定期借地権の期限が来たらマンションを解体して神社の社に戻る予定。
分かりにくいけど、トップ画像の右手に移っているビルが70年の定期借地権分譲マンションです。ちなみに、赤城神社の社務所は、分譲マンション1階の一画にある。
赤城神社売店
デザイン監修は、地元神楽坂に居住し、同神社の氏子でもある建築家の隈研吾さん。マンションの内外に神社と調和する意匠が施されている。なお、境内の樹木についても一部が切り倒されたが、保存。活用が図られた。
隈研吾さんの設計で、シャープの液晶テレビ・アクオスのCMに使われた建物を北京で見たことある。別名竹の家と呼ばれる建物で、吉永小百合さんが出演していたCMです。覚えてますか?
隈研吾さんテイストの社殿をぜひ近くから見たかったのですが、運悪く中で結婚式が執り行われていて入れませんでした。

残念無念。つーか、これおしゃれだよね?ここでドラマ撮影出来るわ~。つーか、新郎新婦の衣装が十二単衣に束帯姿なんですけどっ!!これってアリなのか?昨今の流行りなのか??
ちなみに、隣接する70年定期借地権付き分譲マンションですが、1階の一画はまだ空家でした。つーか、これ貸しスタジオなのか?小さな展覧会用みたいだけど、集客的にどうなのか?まあ、賃貸料次第かもな。
おまけ。
上の画像で赤城神社の売店を紹介しましたが、なんか気になる部分があるよね?

うん。これ。
赤城神社のお守りが、鬼太郎のちゃんちゃんこ&目玉オヤジのモチーフ??
なんでやねんっ!!
気になる所だが、ここは謎は放置で次へ向かいます。何しろ予定を1時間以上遅れてますんで。
サクサクと拝見し、12時41分には後にしました。滞在時間正味7分ポッキリ!!あ…あり得ん~。

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湯島天神の梅

2012年03月14日 16時46分40秒 | 梅散歩
今年の梅は例年になく目覚めが遅かった。感覚的には1ケ月遅れです。
ですが、杉花粉様の目覚めと共に、固かった梅のつぼみほころび始めた様子。早速あっこさんをお誘いして花見に出かけて来ました。
訪問日は3月13日。昨日の午前11時頃です。
せっかくなので大きな画像でアップしますね。





白梅は5分から8分。木によると既に見頃となってました。でも画像でもわかるように紅梅はあと少しかかるかも?
女坂は日当りの関係で、昨日の午前中はまだ3-4分といったところです。
湯島天神の梅はお手入れバッチリで。良い枝振りの木ばかりです。言うなれば、日本画や浮世絵やふすま絵に登場する梅の枝振りなんですよ。ふすま絵の梅って、あんなん嘘や!と疑ってましたが、年を経ると梅の木もあの形になるんだろうなあ~と想像をかきたたせる梅の枝振りです。でも~。惜しむらくは、湯島天神は都会の神社ですから、敷地が狭いんですよ。もう少しゆったりと観梅したかったです~。
私もWEBで公開してる画像を参考にして訪問しましたので、これから観梅に出かける方の参考になれば…。と今日記事を掲載しますね。散歩の様子はまた後日。

ちなみに、時折「携帯電話でよく綺麗な画像が撮れるねえ?」と感心されることがあるんですが…。私もそう思うんだよね。これ、私の腕がいいんじゃなくて運がいいんだよ。だって、携帯のシャッター切る時画面って真っ黒なんだもん…。あれ、なんとかなりませんかね?携帯電話を時計代わりにしてるんですけど、太陽の下だと画面がブラックアウトして使えん~~っ。
はっ!!それた。よい画像の写し方だった!
え~とですね。今日アップした画像には、殆ど人影が映り込んでませんよね?なら観梅客は少なかったのか?
そんな訳ありません。平日とはいえ結構な観梅客がいました。ならばなぜに画像に映り込んでないのか?
それは~。どうせ画面見ても真っ黒であれば、携帯電話を頭の上に差し上げてシャッター切っても同じじゃん~~。ってなことで、頭上で適当にシャッター切ってるのでございます。
これ、結構使えますよ。もちろんシャッター切る前に、頭の中で「ここでシャッター切れば、おそらくこういう感じの構図の画像になるハズ」と想像を働かせて写してますけど。もしかしたら、これがコツなんかもしれん…。でもおススメです。モノは試しです。一度頭の上へデジカメ&携帯電話を挙げてシャッター切ってみては?
つーか、もしかせんでも背が高い人って人ごみでも絶景を独り占め出来るんか~。なんてうらやましい…。
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さっき田舎の母から電話があって「荷物送ったんやけどなぁ~。お父さんに怒られたんやけど…」
私「何か?」
母「荷物の一番上に卵を入れたんやぁ」
私「はっ!?」
母「割れるかもしれん」
って、何でそんな冒険を…。ほとんど博打?つーか、クロネコへの挑戦??
私「そんなん今心配してもどないもならん。到着したらわかるわ」
母「そうやなぁ」
私「ありがどうね。でも次、卵送る時は、ゆで卵でお願いします」
母「ゆで卵!それは想いつかんかったわ!!」
結果が出るのは明日!クロネコさん頼むっ!!
RPGでいきなり超ムズい敵に出会ってしまった気分です。でも今回出来るのは待つだけなんですが…。母はなぜに生卵を宅配で送ろうと思ったんだろう…。彼女ってたまにチャレンジャーなんだよね。
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鬼の名前の神社

2012年03月14日 05時11分08秒 | 神社・仏閣
大江戸線東新宿駅から徒歩数分で稲荷鬼王神社に到着。携帯電話で確認したら、既に11時14分だった。
やばい。時間が押してる~。やっぱ、朝一で電車が遅れたのがつまづき?更に都庁の展望台が2つあるのを事前に調べてなかったのがマズかったか…。ともあれ、スピードアップせねば。
鬼王神社の水鉢
何はともあれ、鬼王神社に参拝したら、これを見ておかねば。
「文政年間(1818-1829)の頃制作されたもので、うずくまった姿の鬼の頭上に水鉢を乗せた珍しい様式です。水鉢の左脇には、区内の旗本屋敷にまつわる伝説えお記した石碑があり、これによると、『この水鉢は文政の頃より加賀美某の邸内にあったが、毎夜井戸で水を浴びるような音がするので、ある夜、刀で斬りつけた。その後家人に病災が頻繁に起こったので、天保4年(1833)当社に寄進された。
台石の鬼の周辺にはその時の刀の痕跡が残っている」とある。
この水鉢は、高さ1メートル余。安山石でできている」
訪問日は2月3日。寒かったんです。水鉢の下、凍ってます。
鬼王神社にが恵比寿様も祀られています。
開運恵比寿神社(三島神社)
新宿七福神の一つ。あ。説明板発見。
「恵比寿さまをお参りしてから手水から柄杓で、『かえる石』に水をかけ、次に『かえる石』をさすりながら心の中で次の言葉を3度唱えます。
一日の無事を願う人、或は交通安全や旅行安全を願う人は、『無事にかえる』
開運を願う人は『良き運にかえる』
金運を願う人は『金かえる』
縁結びを願う人は『想い人の心が自分にふりかえる』『待ち人かえる』
健康を願う人は『若がえる』
あらゆる願いを『かなえる』
その後もう一度、恵比寿様にお参りします。」だそうで。
毎年10月19日、20日は新宿えびす祭。
昔より当社ではこの日に「べったら」をもとめると金運がつき、食べ物をもとめると福がお腹にたまり、鉢植えの花は福が根付くと言われています。その為、両日正午より境内にべったら店が出店します。
へえ~へえ~へえ~。
べったらってアレ?大根の漬け物のことだっけ?

本殿、つーか、手前の、これってかがり火の準備だよね。なぜ~??

理由がわかった。
二月三日午後六時より節分追儺式斎行
午後六時~~??
二月の午後六時ならば、日没後だ。確かにかがり火が必要だわ~。
 本殿前の狛犬
ここの狛犬は二匹共、子狛犬を抱えてるのね珍しい~。
なにげに浅草神社の狛犬にフォルムが似てる。もしかして、造った人が同じなのかも~?や。狛犬って奥深いです。
最後に稲荷鬼神社の由来を書いておきます。だって神社の名前に「鬼」の字を冠するのって珍しいでしょう?
 「主祭神:宇迦之御魂の神・鬼王権現(月夜見の命・大物主の命・天手力男の命)
由緒:天保2年(1831)大久保村の氏神であった稲荷神と、熊野から勧請されていた鬼王権現を合祀し、稲荷鬼王神社となった。熊野の鬼王権現は現存していないため、「鬼王」の名を持つ日本唯一の神社となっている。
鬼を春の神とみなし、この神社の節分の豆まきは「福は内、鬼は内」と唱える。(WIKIより)
15分程の滞在で次へ向け出発です。
ちなみに鬼王稲荷神社の道向こう側は、大久保の韓国街の端っこです。韓流の次いでに立ち寄るのもいいかも~。

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節分限定で開場する猫地蔵堂

2012年03月13日 05時01分15秒 | 猫にゃん
東京都庁から都営地下鉄で移動して、落合長崎駅に到着。
実はここへ来ようと思ったきっかけは、夏目友人帳ファンブックVOL.1に載ってたから。
夏目友人帳ファンブックvol.1に掲載してた神社・寺院はここを残して既に行ったのね。
黒ニャンコ先生(2009年4月11日)の記事 浅草・今戸神社の招き猫
豪徳寺の招福まねき猫(2008年11月30日)の記事 彦根藩のお殿様を招いた白猫
猫地蔵(2009年3月30日)の記事 青梅市常保寺の猫地蔵
そういえば、先日の回向院の猫の恩返しのアレも猫の石像でしたね。や~、ニャンコ巡り楽しいなあ
さて、そんなこんなで猫地蔵堂に到着です。

でもここは正式には自性院といいます。別名が猫寺だったり猫地蔵だったりするんだね。
寺の歴史は古く、弘法大師が下野国の日光山に参詣の道すがら観音様の供養をした辻観音だったというから、1000年以上昔のこと。時h下って、足利初期、本尊仏の供養に、板碑が作られました。これが今日まで現存してます。
が、萌えの元となる話は太田道灌招き猫です。武将ってよく猫に招かれるのか?招かれるとついていくのか??
文明9年の頃、この辺りで豊嶋城主豊島左衛門尉と太田道灌とが合戦した有名な江古田ケ原の戦いの折り、日暮れで、道に迷った道灌の前に一匹の黒猫が現れ、道灌を自性院に案内した。そこで道灌は一夜を明かしたため危難を免れ大勝利を得た。これひとえにこの猫のおかげと感激して、この猫を大切に養い、死後丁重に葬った上一体の地蔵尊を造って盛大な供養をして、この地蔵尊を当院に奉納した。これが当院の猫地蔵尊の最初の縁起です。
そしてもう一体。自性院には猫地蔵が安置されています。
猫面地蔵尊の由来 その後数百年を経て、徳川の中期、明和4年4月19日江戸小石川御三間屋の豪商で加賀屋舗の真野正順の娘御で金坂八郎治の妻となり、貞女の誉れ高かった女がいた。牛込神楽坂辺にて鮨商売を渡世としていた弥平という人が、この貞女が亡くなった後貞女の誉れを後世の亀鑑に伝えたい、又一つには貞女の冥福を祈る為、世にも珍しい一体の猫面地蔵尊を丈50センチ程の石に刻んで造り、猫に因縁深い地蔵尊を祀っている当院を訪ね、住持に開眼供養を依頼して懇ろに法要を営み納めたと伝えられている。
この地蔵尊が当院秘仏の猫面地蔵尊で族に猫地蔵と言われるものです。この二体の地蔵尊は当時江戸市中に大評判となって、一つには貞女にあやかりたい。また一つには地蔵尊のご利益にあやかりたいと願う人びとが押すな押すなと参詣に訪れました。
時は流れ、幕末の頃より寂れ、住職も住まなくなって昔日の観はなくなってしまいした。
って。これはいただいたコピーからの抜粋です。
普段見る事の出来ない2体の猫地蔵ですが、節分の日限定で公開されるのです。
た~の~し~み~~
の前にまずは参拝。

節分の豆まきが午後あるので、境内は準備がされてます。
さて、猫地蔵~。

住職が自ら説明して下さいました。
ええ。地蔵堂は開いてます。豆まきの豆が升一杯に入れられて並べてあります。
2体の猫地蔵は奥に2体並んで鎮座してます。
でも、でも、でも~~~~~っ!!
地蔵尊の中には立ち入り禁止。入り口から遠望するのみ!!
そ…そんな~。
猫地蔵は小さいんです。1体50センチ程なんです。とても建物の入り口からだと地蔵の顔が猫だかなんだかわかりゃあしない。
が、がっくり~~。肩をかかとまで落として後にする。
土地の物知りおじさんが少しお話してくれました。
「かつては猫地蔵の貞女にあやかろうと、神楽坂の芸者さんに人気だったんだよ。参拝する芸者さんは、猫地蔵の顔をなでてお願いしたんだ。だから地蔵のお顔がすり減ってきてね」
更に
「少し前にブログの記事に画像が載っちゃって、くる人増えてねえ。それで最近地蔵堂に入れなくなっちゃったんだ~」
かつては相当おおらかな管理だったようです。有名になるのも善し悪しだなあ~。
 
都営地下鉄大江戸線落合長崎駅へ戻る。都庁前駅で向かいのホームの電車へ乗り換え。大江戸線は地下鉄ですが、山手線のように大きな輪の形をしています。
次の最寄り駅は東新宿駅。
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東京都庁展望台

2012年03月12日 05時09分59秒 | ぶらぶら散歩
んな訳で、1月27日の赤穂浪士と大相撲所縁の地巡りで出来た足のマメをなんとかなんとか手当して、お出かけしました。2月3日に。
2月3日は節分です。神社・仏閣は節分祭やら豆まきやら福富くじなど行事が目白押し!どっから行こうかな~?
ってな事で、またまたあっこさんとお出かけしました。待ち合わせは東京都庁の展望台に9時30分!
ところがところが、小田急が遅れてます~。下北沢駅で起きた転落事故が原因。余裕の時刻だったのに、豪徳寺あたりから全然進まない~。ンなことがあった為、都庁展望台のエレべーターに到着したらもう待ち合わせ時刻の9時30分!出だしから不吉だ…。
案の定、不吉なことが起きた!展望台にあっこさんの姿がない。もしやあっちも電車トラブルか??
と携帯を取り出したらば、メールが来てました。「展望台が2つあるんだけど?どっち??」
…何!?
あ。もう一件メールが来てる。
「先に北展望台に上がるよ?」
何~~~。ともあれ、メールでは埒があかない。あっこさんに電話する。
「今、展望台~」「私も~」やっぱり~。
「私がいるの、どっちかわからんので、エレベーターの所にいる係の人に聞いてみる」
移動しつつ会話は続く。
「すみませ~ん。ここって北展望台?南展望台?」
「南展望台です」やっぱり~。
「私が移動する。あっこさん、待ってて~」
と。すぐに下りのエレベーターに乗ったのですが…。
なんでやねんっ!!
都庁の展望台エレベーターは、乗り口と降り口が別の階なんですよ
か、階段!階段はどこだっ!!
階段はありました。しか~し!
展望台エスカレーター上り列は都庁の建物の外に伸びてました。
で、出口!建物の出口はどこだ~~っ!!
ほんの少しの時間なのに、列が長くなってます。
しかもっ。エスカレーター登り口では手荷物検査を実施中です。ええ。ショルダーがけのカバンを外してカバンの中味を見せねばならんのだ!
急いでるのに~~~。そのエスカレーター待って~~~っ
ハアハアハアハア
朝から何やっとんじゃ自分~。
な訳で、あっこさんと合流出来たのは9時45分でした。
スカっと晴れた日で、展望台の眺めはすばらしかったです。トップ画像に富士山が見えますか?
もう一枚。
東京スカイツリーもよく見えました!
でも今日はね、予定がぎゅうぎゅう詰めなんだよ~。時間を無駄に出来ないんだよ~。
っては訳でさっさと撤収です。
ちなみに、都庁の展望台の登り下りのエスカレーターは、私たち以外全て中国の人でした。台湾だか香港だか中国本土だかは分かりませんが。
ちなみに、都庁展望台は無料で見学出来ます。
さて、次の訪問地は自性院。猫地蔵堂が1年で節分の日限定で開場されるのだ!
の前に、東京都の観光案内所発見!

無理矢理な熊手発見!
『10時より避難訓練を開始します。都庁内にいる方はご参加下さい』
ーーー何!?
わしらは思わず互いの顔を見合わせた。
「どうする?予定より時間が押してるんだけど~」「う~ん…」
などと言ってると、ガラガラガラガラ~~~!!ただ今地震が発生中です。落ち着いて行動して下さい
………。音がリアル~~。
「避難訓練に参加出来ないよ~。て、撤収~~!!」
そそくさと観光案内所を後に。都営地下鉄大江戸線へと逃げ出した。
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帰宅後、避難訓練の規模の大きさに驚きました!都内数万人規模の避難訓練だったのです。その後、地震後3日を想定して米軍&自衛隊の艦船も動員しての大騒動だったらしい…。
避難訓練ってCOOL JAPANだよね。つーか、こんなんやってる国、他にないわっ!つーか、地震がこうしょっちゅう起きる国も少ないから当り前か…。でもこれをやってたから、去年の東日本大震災で日本人はパニックにならなかったと思うのね。避難訓練大事だね。もし次回時間に余裕がある時なら参加してみよう…。
つーか、2月3日の節分散歩の記事はあっさりと行きたい(切望)、もうね。赤穂浪士&大相撲散歩の時のような密度で書いたら熱出るわっ!!無理ですから~~。
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相撲の地ですから

2012年03月11日 05時07分42秒 | 歴史散歩
トップ画像は旧国技館です。
立て札発見…旧国技館は、天保4年(1833)から回向院で相撲興行が行われていたことから、明治42年(1909)に、東京駅・日本銀行などを設計した辰野金吾が設計を監修、回向院の境内に建設されました。
建設費は二十八万円(現在の価値では75億円程)です。
ドーム製屋根の洋風建築で、収容人数は13000人。開館当時は両国元町常設館という名前でしたが、翌年から国技館という呼び方が定着し、大鉄傘(だいてつさん)と愛称されました。
しかし、東京大空襲まで、三度の火災に見舞われるなど御難続きで、戦後は進駐軍(GHQ)に接収されました。返還後は日大講堂として利用されていましたが、老朽化の為昭和58年(1983)に解体されました。
左手奥の両国シティコアビル中庭の円形は、当時の土俵の位置を示しています。
さて、時刻は…。15時59分ダメだぁ~~。もう間に合わない~~…
相撲博物館は国技館の中にあるのね。開館時間は10:00-16:30までなのね。
回向院からだと…。約10分はかかるかも?そんなん、時間内に着いても見る時間はないわっ。
残念ですが、相撲博物館はまたの機会に致しましょう~。だって走れないもの…。敗因はアレだ。芝公園から汐留駅まで歩いた!&両国で吉良上野介屋敷跡&回向院を探して迷った!ダブルコンポが効いてるわ
ならもう撤収さ。
サクサクと都営大江戸線両国駅を目指します。
ん?なんか発見!
 横綱土俵入り?

 
何げに楽しいなあ~
あ。手形。これ、富岡八幡宮にも似たのあった!朝青龍のがあったかどうかは忘れた!
ああっ!!!両国観光案内所発見!こ、こんな所に…。
ここにあるって知ってたら、最初に聞きに来たよっ凹むぜ~ま。な。江戸下町木札探しも出来たしな。両国で迷ったのは全く無駄ではなかったが…。富岡八幡宮回向院両国国技館と相撲の歴史を舞台を巡って楽しかったしな。
って負け惜しみをこぼしつつ、JR両国駅まで戻って来た。
 
都営地下鉄大江戸線の乗り場はまだ先。江戸東京博物館の裏にある。
「せっかくだから、江戸東京博物館の売店覗く?」「そうね」ってな事で江戸東京400年の歴史と文化を紹介する博物館の売店へ。売店に入るのに入場料はいらない。うっかり江戸の本を冷やかしてしまった~。
「あっこさん、今何時?」
「16時20分」
イカ~~ン!これ以上遅くなったら、通勤客の帰宅ラッシュ時刻とかち合ってしまう~~~。
先を急いでると、なんかでかい石像発見!!!

誰これ!
「徳川家康公鷹狩りの図?」
画像ではでかさが伝わりませんが、アナタが思い浮かべた約3倍の大きさと思って下さい。
つ・疲れた~。
「じゃね~。次は2月3日に節分祭巡りでお会いしましょう~。お疲れ~」とあっこさんとお別れして、帰宅の途に着きました。
が、話はここで終われない。
い…痛い…。

分かりますう~?私、右足の親指にでっかいマメが出来てしまいました。この日どんだけ歩いたのか?うっかり歩数計のカウンターを記録するの忘れてしまいましたが、少なくとも2万歩は超えてたよな?
つーか、寒いからと言って、靴下2枚重ねばきをしてはイカンな。摩擦だかなんだかでマメが出来る…。
どうすっかな~??
ってな事で、帰宅後まずやったのはWEBで「足のまめの治療法」をググることでした…。
もうさぁ~、若くないんだから。詰め込み観光は止めようよ自分。少しは余裕を持って散歩しょうよ。
な~んて反省したのはこの時だけ。2月3日もまたまた詰め込み過ぎな散歩になってしまうのでした…。

長々と1月27日の赤穂浪士散歩を連載しちゃいましたが、終わってみれば今回の散歩は赤穂浪士と大相撲散歩で綺麗にまとまりました。
あっこさん。後日、皇居・東御苑の「松の廊下跡」も訪問すればコンプリートだよ。
…つーか、こんなに時間のかかる記事は今回限りにしたい…。何日かかったか…。私、大学で歴史を専攻してたけどね。日本近代史じゃなかったのよ。ほぼ中国の歴史しか勉強してないの~~。基礎知識が不足してるから、調べるの時間がかかるの~~(魂の叫び)
ふっ。反省…なんて空しい言葉。
ちなみに野望達成の図
切腹最中&吉良まんじゅうそろい踏みです。
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ここ数日、3.11東日本大震災関連の番組が連日放送されている。しょうがないんだけどね。当たり前なんだけどね。画像によってあの日が再現されるのはいかんのね。
どういかんのか?
昨日、あまりに息苦しくて血圧測ったら、数値が…。191:92:112でした
上が191!だったのも大概なんですが、脈拍が112だったのがどうにもこうにも…
例えるなら、常に100メートル走してる状態です。100メートル走ならば、走るのを止めれば心臓のバクバクは元に戻りますが、私の場合、主な原因が日々飲んでる薬の副作用なので薬の作用する時間が終わるまで基本息苦しいのは続きます。
それにしても数値が悪過ぎる~~。
今回のは他に原因があるとしか…。
心当たりで一番に浮かんだのは、東日本大震災の映像を金曜に見すぎた為じゃないかな?あれがストレスになったのか?そう言えば、去年の3月11日は金曜日だったよな…。
ともかく、安静にしてやり過ごすしかないわ~~。もうカンベンして~~。
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犬猫供養

2012年03月10日 05時36分11秒 | 墓所巡り
回向院も本堂を探してて見つかったのは、わんちゃん猫ちゃんの大量の卒塔婆だった!!
…回向院の生き物なら何でも弔います!という姿勢の為か?それともペットなら場所を取らない!という都会の事情からか??ま、とにかく卒塔婆見て私は固まった!
 
ワンちゃん猫ちゃんだけでない。
こちらは小鳥供養塔。
丸い所に金色の鳥が羽ばたいてます。
小鳥供養塔の左手にも大量の卒塔婆が立てかけてありまして、そこにオウムとかウサギとか発見しました。他にもいたような~??あれ??思い出せん。やっぱ画像は残してないとダメですね。
回向院の門
こちらが正式な入り口ですね。京葉道路沿いです。こっちから来たら場所を探すことなかったかも~。先日の増上寺の記事を思い出して下さい。
回向院の門は、かつて増上寺の大門でした。関東大震災で倒壊の恐れが生じ移転したのです。ま。どっちにしても空襲で焼けたんだか…。
そんでもう一つ、回向院にあったのはコレ。
力塚(相撲関係石碑群)
群ということは、これ以外にもあったのか??あれ?見落としたか!?
説明板発見…墨田区と相撲の関わりは、明和5年(1768)9月の回向院における初めての興行に遡ります。以後、いくつかの他の開催場所とともに相撲が行われていました。
天保4年(1833)10月からは、回向院境内の掛け小屋で相撲の定場所として、年に二度の興行が開かれ、賑わう人びとの姿は版画にも残されています。
明治時代に入っても、相撲興行は回向院境内で続いていましたが、欧風主義の影響で一時的に相撲の人気が衰えました。しかし、明治17年(1884)に行われた天覧相撲を契機に人気も復活し、多くの名力士が生まれました。そして明治42年(1909)に回向院の境内北に国技館が竣工し、天候に関係なく相撲が開催できるようになり、相撲の大衆化と隆盛に大きな役割を果たしました。
力塚は、昭和11年に歴代相撲年寄の慰霊のために建立された石碑です。この時にこの場所に玉垣を巡らせ、大正5年(1916)に建てられた角力記(すもうき)と法界万霊塔もこの中に移動しました。
現在は、相撲興行自体は新国技館に移りましたが、力塚を中心としたこの一画は、相撲の歴史が76年に渡り刻まれ、現在もなお相撲の町として動く両国の姿を象徴しています。
ですって。う~む。かつて国技館はここにあったのかぁ~。そう言えば、さっき訪問した富岡八幡宮でも書いてあったよね。

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猫の恩返し

2012年03月09日 05時20分13秒 | 墓所巡り
昨日の回向院の鼠小僧次郎吉の墓の画像の左手にちょっぴり写ってるのが、猫塚です。
いわれ発見!

猫の恩返し(猫塚)
猫をたいへんかわいがっていた魚屋が、病気で商売ができなくなり、生活が困窮してしまいます。
すると猫が、どこからともなく二両のお金をくわえてきて魚屋を助けます。
ある日、猫は姿を消し戻ってきません。ある商家で、○両(光って見えない…。2か3だと思うけど)くわえて逃げようとしたところを見つかり、奉公人に殴り殺されたのです。それを知った魚屋は、商家の主人に事情を話したところ主人も猫の恩に感銘を受け、魚屋とともに猫の遺体を回向院に葬りました。
江戸時代のいくつかの本に紹介されている話ですが、本によって人名や地名の設定が違っています。江戸っ子の間に広まった昔話ですが、実在した猫の墓として貴重な文化財の一つに挙げられています。
ですって。
招き猫の話は、今戸神社・豪徳寺・自性院などでありましたが、猫のお墓を見たのは初めてじゃ。
だからか、回向院にはこんなんもありました。
犬猫供養塔
分かりにくい?では中央部を拡大しよう。
わんことにゃんこ
回向院の狭い一角にはほかにも古い墓石・石碑があった。
俗名 中村勘三郎 施主 中村小勘
え~と?歌舞伎役者だよね。この場合、何代目のお墓なのか?

画像左端の上が丸いのは、関東大震災供養塔。他のは何だったっけ?確か海難事故の供養塔は何本もあったから、それじゃあないかと…。
さて、何はともあれお参りしないと。
実は入り口入ってすぐ古い時代の墓石群を見つけてしまったからお参りをまだしてなかったのだ。
本堂は~~??
ん~~??
…本堂がない!つーかマジか??
や。そもそも回向院を探してた時、てっきり幼稚園だろ?と思ったらそこが寺だったと言う…。
や。ンの前に回向院の由来を書いておかねば。
回向院は今からおよそ350年前の明暦3年(1657)に開かれた浄土宗の寺院です。
この年、江戸には振り袖火事の名で知られる明暦の大火があり、市街の6割以上が焦土と化し、10万人以上の尊い人命が奪われました。この災害により亡くなった人の多くは、身元や身寄りのわからない人びとでした。当時の将軍家綱は、このような無縁の人びとの亡がらを手厚く葬るようにと、隅田川の東岸に「万人塚」という墳墓を設け、無縁仏の冥福を祈りをささげる大法要を執り行いました。この時読経の為に建てたお堂が回向院のはじまり。
やがて安政大地震・関東大震災。東京大空襲等様々な天災・人災による被災者、海難事故による溺死者、遊女、水子、刑死者、諸動物などありとあらゆる生命が埋葬供養されています。
あ。なんかいつかのNHKのお昼の番組で、昔は遊女の投込み寺だったって言うの見たや。
ちなみに、江戸城の天守閣も明暦の大火で焼失しちゃったのだ!そして以後、江戸城に天守閣は再建されなかった。
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先日田舎の義母から塩こうじが届いた…。
ナニコレ~!!
早速検察かけつつ使ってみた。
でもこれ、塩一杯入ってるんだね。
身体にはいいらしい…。ちょびちょび使ってますけど…。なかなかなくならない~。
んで、この「塩こうじ」ってWEBで検索したら作り方は一杯載ってるんですが、保存の仕方も載ってるんですが…。
これってどんくらいの期間使っていいの?なんか、スプーンで上澄みすくって使ってるんだけど、下に沈んだお米が残る~。つーか、水足してもいいものなのか??何げに訳わからんのだが…。どっかに達人のWEBページはないのか?謎~~。
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鼠小僧の墓

2012年03月08日 04時50分53秒 | 墓所巡り
回向院はどこだっ!?
ええ。又ですよ。またっ。迷子ですぅ~~
何故?何故なの??回向院って有名なお寺なのよ。ならすぐにわかって当然でしょ?なのに何故見つからないの~~。
小路をうろうろ彷徨っていたら、道路にこんなんがあったので近いハズなのよっ。ここから100メートル以内にあるハズなのよっ!!

回向院の入り口発見!到着時刻は15時47分。
つーか、有名なお寺の入り口がコレッてマジかっ!?あり得ないだろっ!!
つーか、画像をよく見て。吉良邸跡約左へ二00M
ちっ、こっちを先にすればよかったぜ!
開門時間:朝9時より午後5時まで。(閉門時の扉の乗り越え厳禁)
回向院…突っ込みどころ多すぎる

さて、回向院には有名なお墓があります。

や。私もね最近ディープな墓所巡りをやってまして、有名人のお墓もそこそこ見てるのでお墓スキルだいぶん上昇してると思ってたんだけどね…
鼠小僧次郎吉の墓
何コレっ!おかしいだろっ
なぜにお墓の前にもう一つ、新しい墓石が置いてあるのか?しかもこれ、形が変だっ!!
む?何か書いてあるんですけど。こちらの「お前立ち」をお削り下さい
え?これって墓石削るの前提ってこと??
……何か置いてあるんですけど

墓石の基盤の石にのっかってるちっこいのは墓石を削るための石ですよね?
恐る恐るやけに白い墓石に触ってみた!
んぎゃぁぁぁぁぁああああ~~~
わあぁ~、私の指が真っ白…や。私の頭ン中が真っ白じゃ
や。鼠小僧次郎吉は有名人ですよ。水のお供えが置いてあるし、供花も新しい。
でも彼は盗人だっ。最後は貼付け獄門になった人!
そんな人の墓石を削るってどないな人がどないな理由があって?????
分けわから~~~んっ!!
あ。説明板発見…「鼠小僧供養墓 墓石の高さ100センチ 幅710センチ 奥行き55センチ
台石の高さ35センチ 幅116センチ 奥行き78センチ
石組みの基壇の高さ65センチ 幅150センチ 奥行き130センチ
碑の正面には「天保2年8月18日」「俗名 中村次良郎之墓」
「教覚速善居士」「道一書」
裏面には 大正十五年十二月十五日 建立
左側には 永代法養料金 伍拾圓也 細川仁三 と刻まれている。
鼠小僧は寛政9年(1797)生まれの実在の盗賊であり「武江年表」によると天保3年(1832)8月19日に浅草で処刑されている。
「甲子夜話」によれば、武家屋敷にのみ押し入ったため、庶民からは義賊扱いされていると記されている。
後に幕末の戯作者河竹黙阿弥が権力者である大名家に自在に侵入し被権力者である庶民に盗んだ金を配るという虚構の鼠小僧を主人公とした作品を世に送り出したことから人気に火がつき、演劇界においては現在まで続く当り狂言の一つとなった。
明治12年1月の朝野新聞によると歌舞伎の市川一門の一人である市川団升が、狂言が当たった礼として碑と永代供養料10円の寄付を行うほどの熱の入れようであったと伝えられており、施主として刻まれ墓の横にも石灯籠を寄進している。
細川仁三とは市川団升のことであるとみる説もある。
文学界においても、芥川龍之介が「戯作三昧」「鼠小僧次郎吉」「復習」と三度題材に取り上げるなどとしており虚構の鼠小僧の人気は高い。
江戸時代犯罪者には墓を作ることが禁止されていた。しかし歌舞伎や狂言での成功によって、祈願対象物としての墓の仏養成が生じこの供養碑が作られたと思われる。
*他方、供養墓の前にある小さな供養碑は正面に供養墓同様「教覚速善居士」と刻まれているが、別名「欠き石」とも呼ばれるものである。
鼠小僧の墓石を欠き、財布や袂に入れておけば、金回りが良くなる。あるいは持病が治るとも言われ、成就した人びとの奉納した欠き石は数年ごとに立て替えられ続け、現在までに数百基にも及んでいるという。
発生時期は不明であるが、明治18年(1885)に初演された河竹黙阿弥の「四千両小判梅集」には台詞の中でこの信仰のことが触れられている。
「この供養碑は変貌著しい墨田区と歌舞伎とのかかわりを示す資料でもあり、そこにはまた庶民のささやかな幸福追求の対象物としての価値も含まれる」(墨田区史より)
も、ツッコミどころ一杯です。
でも削って消えた墓石。新しく作り直す墓石の費用がどこから出ているのか?と疑問だったんですが、願い事が成就した人の奉納なんですね。
にしても~。数年毎に立て替えられ、現在までに数百基に及ぶってそれは吹き過ぎでしょう!!
だって初めて供養墓が出来たのって大正15年12月なんだよね?って西暦に直すといつだ?1926年!って事はまだ100年経ってない~~。数年毎に立て替えて数百基だと計算合わない~~。や。珍しいもの好きの江戸っ子!流行りの頃は、1年持たなかったこともあるやもしれん…。ご利益が金回りが良くなるであれば、あやかりたいと願う人も多いかもじゃ。なんだかな~。
ちなみに、大正15年といえば、大正期の最終年。ついでに調べた。大正天皇は12月25日に崩御。んで昭和と改元。それから年末までのわずか6日間しか昭和元年はなかった!!へえ~へえ~へえ~~!!
ん??
確か昭和天皇って亡くなったの1月じゃなかったっけ??
調べた。
昭和天皇は1989年1月7日に崩御されてました。自動的に昭和64年は7日間だけだった。へえ~へえ~へえ~~!!
ちなみに、文中青字にした河竹黙阿弥・芥川龍之介ですが、回向院がら徒歩すぐの所に住んでました。木札も立ってることと思います。

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赤穂浪士討ち入りの現場

2012年03月07日 06時07分02秒 | 歴史散歩
吉良まんじゅうの和菓子屋さんからすぐに吉良上野介の邸宅跡を発見!
現在は本所松坂町公園です。
よ、ようやく見つけた~。吉良邸は、木札だけじゃありません!有名な赤穂浪士討ち入り事件を彷彿出来るように整備してありました。コレ、『忠臣蔵』ファンが頑張ったんですかねえ。
トップ画像右手にある石碑をアップにしますと赤穂義士遺蹟 吉良邸跡と書かれてます。
立て札発見。忠臣蔵 吉良上屋敷跡
吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)の屋敷は広大で、東西73間、南北35間で、面積は2550坪(約8400平方メートル)だったとされてます。
幕府は呉服橋門内にあった吉良家の屋敷を召し上げ(元禄14年8月19日(1701年9月21日)、代わりにこの本所二ツ目に屋敷を与えています。当時の本所は隅田川の東という立地で江戸の場末・発展途上の雑多な土地柄でした。

吉良上野介が隠居したのは元禄14年(1701)3月14日(現・4月21日)の刃傷事件の数ヶ月後の12月12日(1702年1月9日)です。
現在、吉良邸跡として残されている本所松坂町公園は、当時の86分の1の大きさに過ぎません。
吉良邸見取図発見。
さすがに広いなあ~。でもWIKIによると、召し上げられた呉服橋の屋敷は更に大きかったようです。んでもって、吉良上野介は本所の屋敷には常駐してない。だから、赤穂浪士達は確実に吉良上野介が本所の屋敷にいる日を確定させるのに時間がかかったんですね。討ち入りは1度きり。2度はないから確実な日を待ちました。
討ち入ったのが12月14日(1703年1月30日)。
吉良方の戦死者17名。
『忠臣蔵』で必ず出てくる吉良方の剣客、清水一学の名前も見えます。
3月15日未明、吉良上野介は遂に討ち取られます。
みしるし洗いの井戸(首洗い井戸)
そして赤穂浪士は泉岳寺へ。(当初、近所の回向院へ向かったが、受け入れられなかったため、浅野家の菩提寺へ変更した)

さて、『忠臣蔵』の作中では悪役の吉良上野介ですが、領地の三河では治水事業や新田開拓につとめ名君として地元では慕われて……ナイかもしれんが、かつての吉良の領地の人は吉良上野介が名君であって欲しいと願うのは納得出来る。
こんなんありました。
愛知県吉良町の人は切実のようで(合掌)
公園内には吉良上野介の像が設置してある。
画像の中の家紋が見えますか?
これは吉良上野介の家紋。五三の桐です。(正確には丸に二つ引・五三の桐)
公園内にあるお稲荷様
なぜにここにお稲荷様なのか??分からん…。

さて、次は回向院です。どこにあるのかな~?
ってまた迷った。イカンっ!!迷ってる場合ではないの。ここで迷ってたら、相撲博物館へ行けなくなるぅ~~
ん?またまた木札発見!吉良邸裏門跡
吉良邸の裏門は、赤穂浪士討ち入りの際、大石主税以下24名が門をたたき壊して侵入した所です。う~む。なぜにこの木札だけボロいのか?作り替えが必要な模様。
時刻を確認。15時39分!!!ままままま・まじでぇ~~~。ダメ~~っ!!時間よ止まれぇええええ~~っ!!!は、走れない…。つーか回向院はどこだっ!?   日本史 ブログランキングへ
3月5日に髪を切りました。当日は氷雨でして、寒かったんですけど、3月・7月・11月の第一月曜日の朝9時に髪を切ると決めてるので決行したのだ。確か、去年も3月の第一月曜は雪だった…。んが!翌3月6日、関東は気温がぐんぐん上昇して、汗ばむ陽気となりました。こうなると杉花粉様の出番到来です。や~も~、今年は寒くて梅もまだ見頃になってないのに、杉花粉様は待ちきれないのか威勢よく花粉をお飛ばしになりまして、鼻水が止まりません。ってな事で、今朝からアレルギーのお薬を飲んでます。もちろんアレルギー用の目薬もアレルギー用の点鼻薬も使い始めました。ま。今年は去年に比べすぎ花粉の量が少ないとのことですので、しばらくの辛抱だ。つーか、既にやたら眠いんですけど~。アレルギー薬の副作用だ~。忘れてたぜ。同病の皆様、今年も頑張りましょう~。
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両国で江戸巡り

2012年03月06日 06時01分58秒 | 歴史散歩
や。江戸巡りする気は全くなかったんですがね。迷いました~
都営地下鉄大江戸線の門前仲町駅から目指した先は、両国駅。到着したら既に15時!!
イカ~~~ンっ!!
とにかく巻きで行く!と。
A4出口から南へ。と。見えて来たのは力士御用達の店です。
トップ画像に胸囲・胴囲100センチ以上、首囲46センチ以上、足のサイズ27センチ以上のみ取り扱いの店とあるのが分かります?
そう、両国といえば国技館。お相撲さんの街なのです。相撲部屋だってそこここにあすハズです。
でも私達には目的地がある。
吉良上野介の屋敷跡&回向院を見つけねば本日のお散歩は完結しません。ついでに国技館内にある相撲博物館へも寄りたいけど、公開時間内に間に合うかどうか既に微妙です。
ってな訳で、さっさと探しましょう~。ンの前に、まず行きたい所がある。それは勝海舟生誕の地。う~む。なんちゃって地図は訳わからん…。YAHOO!の地図に勝海舟生誕の地は書いてありません。この辺りに公園があるハズ~?
少し迷いましたが見つかりました。
勝海舟生誕の地です。

勝海舟は幼名を麟太郎といい、文政6年(1823)1月13日この地、男谷精一郎邸で生まれた。剣は島田虎之助に師事し、蘭学海洋術を学び、万延元年(1860)幕府軍艦咸臨丸艦長として、太平洋を横断した。
慶応4年(1868)3月13日、高輪薩摩邸において、大都督付参謀西郷隆盛と会談し、江戸城の開場を決定して、官軍の江戸進撃を中止させ、江戸百万の庶民を戦渦から救ったことはあまりにも有名な話です。
明治32年(1899)1月11日、赤坂氷川町(港区内)の自邸で死去。享年77歳。墓は洗足池湖畔に建立されている。
勝海舟の写真が説明板に載ってた。去年TBSで「JIN-仁ー」というドラマが放映されました。見ました?あの中に登場する勝海舟は小日向文世さんが演じてました。ドラマを見てる時に気づかなかったんですが、これ…小日向さんにそっくりだよね。つーか逆か?小日向さんが勝海舟に似てるから配役されたのか…。ドラマ見てどんだけの視聴者が気づいたのか…。明治…。写真が残ってる人もいる…。

さて、吉良上野介の屋敷跡はどこだ?
ん??
なんか立ってる?
尺振八の共立学舎跡。
振八は中濱萬次郎らから英語を学び、通訳として遣欧、遣米使節団に随行。帰国後、この地に英学教育の私塾を開いた。
…吉良邸じゃなかった!でも墨田区って何気に歴史に力を入れてるみたい。木札が次々と現れる。
本因坊の屋敷跡
うお~~~っ本因坊と言えば本因坊秀策ですよね。週刊ジャンプで連載された『ヒカルの碁』読んでましたよ~~。萌えまずは木札を読む。
「ここに本因坊屋敷がありました。本因坊家は、囲碁の名門で、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三人に仕えた日海(1世本因坊算砂)を開祖とする家系で名棋士を輩出してきました。「本因坊」の名は、算砂が住職を務めた寂光寺の塔頭の一つに由来しています。
もともとその拝領地は芝金杉にありましたが、幕府に接収されたため、その代地として寛文7年(1667)、この場所が屋敷となりました。江戸期を通じて、常に囲碁4家元(ほかに安井家・井上家・林家)の筆頭の地位にあり、道策・大和・秀和・秀策などの棋士を生んでいます。特に江戸末期の秀策は、史上最強の棋士として「棋聖」と呼ばれました。
現在は実力制で争われる多くのタイトル戦の先駆けとして名が残っています」
今ではこの立て札しか名残はありませんが、ヒカルの碁ファンならずとも萌えポイントでした。
塩原太助炭屋跡
ここに塩原太助(1743-1816)の炭屋がありました。
太助は、文化年間(1804-1817)の商人で、当時の本所相生町二丁目に炭屋を開きました。炭商人として大成功し、「塩原橋」の名前が近所の堅川に残っている。
前原伊助宅跡
「伊助は赤穂浪士四十七士の一人で、浅野家家臣前原自久の長男として生まれ、延宝4年(1676)に家督を継ぎます。金奉行として勤仕したため、商才に長けてました。
浅野内匠頭の刃傷事件以後は江戸急進派として単独で別行動を取りました。始めは日本橋に住んでいましたが、やがて吉良邸裏門近くの本所相生町2丁目に移り住み、「米屋五兵衛」と称して店を開業し、吉良家の動向を探りました。その後、大石内蔵助と行動をともにしました。
討ち入りの直前には、亡君の刃傷事件から討ち入りまでの経過を漢文体で克明に書き綴った「赤城盟伝」を著しています。」
う~む。赤穂浪士の家まで見つかったのに、なぜに吉良邸がないのか??
こういう時は聞くしかない。うまい具合にお掃除してるおじさん発見。
「すみませ~ん。この辺りに吉良上野介の屋敷があったと思うんですが、どこですか?」
おじさんは度々似た様な質問を受けてる様子。苦笑いで行き方を教えてくれました。

ん?
なんか、気になるお店発見!
吉良まんじゅう&おに平だんごとな?
そりゃあ絶対切腹最中と二つ並べてみたい
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