あられの日記

カテゴリーは場所優先。鶴岡八幡宮は寺院・仏閣ではなく「鎌倉」に。一部検索し易さ優先で、花カテゴリーに入れてる場合も。

富岡八幡宮

2012年03月05日 05時46分36秒 | 神社・仏閣
深川不動尊の並びに富岡八幡宮はあります。
富岡八幡宮のご由緒は…御祭神 応神天皇など8柱(神功皇后・仁徳天皇・天照大神・日本武尊など)
沿革…富岡八幡宮は寛永4年(1627)、当時永代島と呼ばれていた現在地に創建。周囲の砂州を埋め立て、60508坪の社有地を得た。「深川の八幡様」と親しまれ、江戸最大の八幡様です。
江戸自体には、源氏の氏神である八幡大神を尊崇した徳川将軍家の手厚い保護を受けました。庶民の信仰も篤かった。
昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲で焼失。
現在の社殿。
画像左右にある舞台組は、2月3日にある節分祭の準備です。こっから年女・年男達が豆まきをします。中にはプレゼント品もあるとか。一度見てみたいと思って2月3日の節分祭巡りに富岡八幡宮をピックアップしてたんですけどね。
横綱力士碑
富岡八幡宮は江戸勧進相撲の発祥の地です。貞享元年(1684)幕府より春と秋の2場所の勧進相撲が許されます。それが富岡八幡宮の境内でした。
以降約100年にわたって本場所が境内にておこなわれ、その間に定期興行制や番付制が確立されました。
その後本場所は、本所回向院に移って行きますが、その基礎はここで築かれ、現在の大相撲へと繋がっていきます。
画像の横綱力士碑は、明治33年、第12代横綱陣幕久五郎を発起人に歴代横綱を顕彰する碑を建立。初代横綱明石賀之助から白鵬までの四股名が刻まれています。大きさは高さ3、5メートル。幅3メートル。重量20トン。両側に伊藤博文・山縣有朋・大隈重信といった賛同者の名前が刻まれている。
  
境内には多々興味深いものが散在してます。が。こちらは以前書いた記事にて確認下さい。
大関力士碑
表参道大鳥居をくぐってすぐ右手に歴代大関を顕彰するために建立された大関力士碑があります。この碑は明治の頃、9代市川団十郎と5代目尾上菊五郎により寄進されました。初代大関雪見山から霧島関まで104人の歴代大関の四股名が彫られています。
また周辺には、巨人力士碑・巨人力士手形足形碑・強豪関脇碑などが立ち並んでいる。両国の国技館を訪れた際は、門前仲町まで都営地下鉄大江戸線で数駅なので寄り道してみては?
 伊能忠敬の像&国内第一号の三等三角点「富岡八幡宮」
伊能忠敬は全国津々浦々まで踏破し、日本全国興与図を完成した人です。この方ってば、50歳を過ぎてから天文学・測量術を学び旅に出たんですよ。ご存知でした?かつて上野の国立博物館平成館にて彼が作った日本地図を見たことがあります。バカでかかったです。みんな床の地図に乗っかって、自分の住んでる場所を探してたのを思い出しました。
伊能忠敬は富岡八幡宮の近所に住んでました。
寛政12年(1800)測量旅行に出発する時、富岡八幡宮で参拝してから蝦夷へ出かけていったそうです。ちなみに、測量旅行は計10回。像は平成13年10月に建立。
伊能忠敬の生家も現存してたよな~?どこだっけ??千葉県佐原市だっけ?
境内には巨大な御神輿も保管展示されてます。
何々~…。「日本一の大神輿。高さ14尺5寸。重量4、5トン。屋根の大きさ最大幅十尺。担ぎ棒10本。ダイヤモンド:鳳凰の眼4カラット2個。鳳凰の火焔7カラット。狛犬の眼3カラット2個1対・隅木の眼1カラット2個、4体・小鳥の眼1カラット2個、4体
ルビー:鳳凰の鶏冠2010個!

すげ~。本物の宝石かよ~、スワロフスキーじゃないんだぁ~。

先を急いでいたので立ち寄りませんでしたが、大鳥居周辺には江戸情緒あるお店があります。上の画像左に「もんじゃまん」の旗が翻ってました。
上の画像の撮影時刻は14時40分。本格的にマズいです。1月の日没は早いんです。さっさと両国へ行かないと!
門前仲町駅へ戻る。
ん??
なにっ!?
東京メトロの降り口って、都営地下鉄の乗り場に地下で繋がってないの??
東京メトロと都営地下鉄が仲悪いと、利用者は不便だよっ。仕方なく、都営地下鉄の乗り場を探す。え~と?イチョウマークはどこだ??
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深川不動尊

2012年03月04日 05時20分24秒 | 神社・仏閣
なぜに日本橋を目指したハズが深川不動尊なのか??
新生堂さんを後に、途中で腹ごしらえ。日向名物、鳥の唐揚げ南蛮はおいしかったです。鳥の唐揚げ南蛮にタルタルソースは定番なのでしょうか?『ロケみつ』で稲垣早季ちゃんが鳥南蛮を連呼してたアレですね。
さて、昼食と言う名前の休憩を取り、向かった先は都営大江戸線汐留駅でした。
乗車後路線図を見て気づいた…。大江戸線は日本橋駅がない…。
やっちゃいました~。大江戸線汐留駅から日本橋駅へ行く場合、大門駅へ戻り都営浅草線に乗り換えるのが近道なんです。
でもっでも~~~っ!!徒歩でようやく到着した汐留駅を出発駅の大門駅に地下鉄で戻るのは嫌過ぎるっ!!
んで~。大江戸線で向かったのは門前仲町駅でした。そこで東西線に乗り換え…。あれ?都営1日まるごときっぷが通らない??なぜに~~??
駅員さんに聞いてみた。「これは都営地下鉄のきっぷです。東西線は東京メトロです」
そ、そうなのかぁ~東西線は都営地下鉄じゃないのかぁ~~
やっちゃったよ~。やっちゃいました~。小田急使いなので、接続してるのは東京メトロ千代田線。大概東京メトロしか使ってないからこんなことに…。
こうなれば、東京メトロの切符を買うか、それとも都営まるごと1日きっぷでいくならば大門駅へ引き返すしか道はない。
同行者のあっこさんに相談してみる。
「実はさあ~、深川不動尊&富岡八幡宮って2月3日の節分巡りの時に立ち寄ろうと思ってたんだけどね。最寄り駅って門前仲町なんだよ~。今日の所は日本橋を諦めて、こっちにしませんか?」と。お願いしてみた。あっこさん、苦笑い?や。快くOK!していただきまして、深川不動尊へ向かいました。

深川不動尊到着~。時刻は既に13時49分でした。

やばい~~。時間が予定より押してる~。
深川不動尊は以前訪問したことがあります。
>深川不動尊(2010年7月11日)の記事 サッカー日本代表のお護りあります。
この時工事中だった本堂の工事が終わってました。

以前見た時、この建物も工事中で、外の黒&金色は工事幕と思ってましたが、よ~く見るとこれって金属?しかも模様じゃなくて、1個1個梵字ではないの~~!!気づかなかった~。
中はこんな感じ。あ。履物は脱ぎます。

なんか、凄かった!ここ、なんか劇場みたいだった。参拝客席が円形劇場みたいになってて、舞台に祭壇が設えてあります。もうすぐ祈祷が始まるので、僧侶が準備を進めてました。祭壇の奥に売店。更に奥に十二支本尊とか、近代的なホログラムの四国八十八ヶ所巡拝所とか、巨大な如来の天井画とかとかとか~~。おまけに超近代的なトイレもあった。もう数十年先の未来のお寺を見た気がする。
ちなみに、深川不贈尊とは…江戸の初め、歌舞伎役者の市川団十郎が不動明王が登場する芝居をヒットさせ、成田山の不動明王を見たい・お参りしたいと江戸っ子達が熱望した。それを受け元禄16年(1703)、成田不動の出張秘仏公開が富岡八幡宮の別当・永代寺で行われた。これが深川不動尊の始まり。
ちなみに~。これが実現したのは庶民の願いもあっただろうが、五代将軍徳川綱吉の母、桂昌院が「成田山の不動明王を江戸で参拝したい」と言い出し実現したとか…。
成田山出発の総勢は300人を超える行列を組み、江戸まで1週間余りをかけて秘仏を運んだ。健脚の江戸の人が、江戸城から小田原までなら1日かからず歩いてたことを考えると、おそらく道中ですら見せ物のごとく大騒ぎしたんでしょうねえ~。江戸時代は庶民を楽しませるアレコレが目白押しでした。
江戸時代、成田不動の江戸での秘仏公開は計12回行われ、うち11回が深川永代寺が会場だった。
明治維新後、神仏分離令で永代寺は廃寺となったが、不動尊信仰は継続。明治11年(1878)に現在の場所に深川不動堂として存続が認められた。
本堂は関東大震災・東京大空襲と二度にわたり焼失したが、本尊は焼失を免れた。
ちなみに、門前仲町は永代寺の門前町の意味。
一杯一杯になって外に出たら、こんなんが境内脇にあった。
 
これ、以前来た時にもあったなあ~。昭和の生活道具遺産のような、どこかの資料館に納まってても不思議ないですが、現役の屋台のようです。屋根の上にちんまり納まってる4脚の椅子がまたいい味出してるでしょ?
さて、時刻は既に14時15分!先を急ぐよっ。何しろ1月の日没は早いからねっ。
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切腹最中

2012年03月03日 05時55分03秒 | おいしい&スイーツ
芝東照宮を出発したのは12時6分。和菓子屋さんの新生堂さんに到着したのが12時43分。徒歩で移動しちゃいました…。なにげにタイムロスでした。
でも新生堂さんにど~しても立ち寄りたかったのだ。だって新生堂さんのヒット商品は切腹最中なんですもん。
インパクト大の商品名の由来は、新生堂さんのある場所は、「忠臣蔵」の起こりとなった浅野内匠頭が、江戸城の松の廊下で吉良上野介に切り掛かった当日の3月14日にお預けとなり即日切腹を命じられた田村右京大夫の屋敷跡にあるからです!!
な。萌えるでしょう?

切腹最中1個190円だったような?これうまいです。あんこスキーなら試してみる価値ありますよ。あんこの中に、小さな餅を入れてあります。
ちなみに、画像の左に置いてあるのは、泉岳寺で購入したキーホルダーです。赤穂浪士が討ち入りの際、打ち鳴らした山鹿流陣太鼓を模したもの。(大石内蔵助の家紋入り)ベストマッチかも?と置いてみました
ところで画像に営業セットとありますよね?これは新生堂さんが新橋に近い場所柄、サラリーマン御用達なんですよ。
実はですね。切腹最中には何か不始末をしでかしたサラリーマンが「切腹する覚悟で参りました」とそっと差し出す手みやげに最適なんですよ。

私達がそっと営業セットを購入してる間に、真剣に個数を検討するサラリーマンがいました。よっぽど「君、何しでかしたの?」と聞いてみようかと思いましたが、大人げないから我慢しました。
営業セットは切腹最中のほかに景気上昇最中も2個入ってます。

いただいたコピーによりますと、「縁起の良い小判型の皮に黒字にちなんで黒糖を使ったコクのあるこしあんを入れました。
景気上昇を祈願し箱の上には右肩上がりになるように、千社札シールを貼っております。誠に勝手ながら、日本経済を応援します」ですって。
こんなんもありました。一命最中。
映画「一命」とのコラボですね。期間限定発売だそうです。
義士ようかん。1個200円。
宇田川国芳の武者絵で今蘇る四十七士!だそうで。好きな赤穂浪士のようかんを購入出来ます。人気のようかんはやはり大石内蔵助か?聞いてないけど。明らかに売れ行きに差がある様子。

それぞれ単独で「大願成就」「景気上昇」の夢のある言葉のついてるアイデア商品も販売してます。
後、トップ画像をよく見ると。出世の石段なる商品が写っています。
これはね、講談「寛永の三馬術」の中の一人讃岐丸亀藩の藩士曲垣平九郎が、徳川家光に「愛宕神社の梅の枝を馬で取ってくる者はいないか?」との問いかけに愛宕山の急階段を一気に馬で登って見せ、名を成した知る人ぞ知る名所。その愛宕山が新生堂の近所にあることにちなんだお菓子です。
………。こんだけストーリー持ってたら、新生堂さんって最強ですよね。なんてうらやましい~。つーか、それぞれに謂れを見つけて商品化した店長の目が確かだったのね。
ちなみに、切腹最中はR25お詫びの品 第一位。 全国ANAスイーツ 第一位。 メトロガイド東京うまいもの大賞読者投票 第一位の三冠王です。

新生堂さんの目印は、ビルの前面壁にある大石内蔵助の家紋二ツ巴紋と殿の浅野家の家紋丸に違い鷹の羽紋が目印です。
さて、一番近い都営地下鉄駅は?ンの前にお昼ご飯が先~。新橋に近いから、食べる所は一杯あるハズです。

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増上寺の境内には?

2012年03月02日 05時08分30秒 | 神社・仏閣
トップ画像は大納骨堂です。
徳川将軍家墓所の並びに増上寺の墓所がありまして、更にその脇にありました。
貞恭庵
『十四代将軍徳川家茂公御正室、皇女和宮さまゆかりのお茶室。
昭和55年(1980)に移築・改修し、一般にも利用されるようになった。』
思うんだけどね。茶室って多いよね。あちこちにあるんだよね。しかも歴史上のビッグネームが所有してた奴!更には歴史上のビッグネームを渡り歩いた奴!!
それらの茶室が現在では一般へ無料・もしくは低価格で貸し出しされてる場合が多い多い。
いいなあ~。お茶やってる人!歴史のビッグネームが座った現場でお茶飲めるんだよ~う~ら~や~ま~すぃ~~
つらつらと思い出してみる。
上野の国立博物館の庭は、あれはそもそもは寛永寺の庭だった。あそこにも茶室が点在してた。 東京国立博物館庭園開放(2009年12月21日)の記事
小田原の松永記念館。あそこにも茶室。 松永記念館と老欅荘(2011年11月18日)の記事
横浜の三渓園にも茶室。 ポスターになった春草盧(2011年1月6日)の記事三渓園の記事は複数投稿してたので1個だけピックアップ
大田区、池上本門寺にも茶室。秘密の名園で散歩(2009年10月6日)の記事
ちょっと思い浮かべただけで出て来る出て来る~。
増上寺の経蔵。徳川幕府の助成で建立。収蔵された宋版・元板・高麗版の各大蔵経は、家康公の寄進したもので、国の重要文化財。普段は見られませんが、11月の東京都文化財公開ウィークで公開されています。
黒門元は増上寺方丈の表門で、旧方丈門です。三代将軍家光公の寄進・建立とされ、慶安年間(1648-1652)の建立とされてます。
昭和55年(1980)に増上寺通用門として日比谷通り沿いに移築しました。
が、画像を撮りそびってしまった~。だって、通用門といいつつ、黒門ってでかいんだよ。…まあ、三解脱門よりは小さいけどね。とても黒門をちょっと歩道から撮影なんか無理っ!写したければ、道の反対側からじゃないと~。んで、後で写そうと思ったのに、後で写すの忘れてしまったのだ…。またいつか増上寺を訪問しないと…。
黒門をくぐって西隣の芝公園へ向かう。
徳川秀忠の霊廟の惣門を最近復元したもの。
本物は寛永9年建造(1716)ですが、増上寺が昭和20年に空襲され殆どの建物を焼失。その時惣門はかろうじで残りました。現在は、日比谷通り沿いの東京プリンスホテル前に残ってます。ちなみに、東京プリンスホテルもかつては増上寺の境内でした。
惣門の屋根を見上げると、三葉葵の御紋がたくさんついてました。
惣門をくぐると、すぐに階段がある。そこも上がると、何やら石の遺構がある。
何?コレ??
説明板発見!「この石は、かつてあった徳川秀忠公の霊廟の前に巡らしてあった水路の跡です」
へえ~へえ~へえ~~っ!!!
実は東京タワーに行ったことある人はご存知でしょうが、増上寺の三解脱門をくぐると、奥に進むに従って小高くなってるんですよ。ですからね。秀忠の霊廟も小高い丘の上にあるんです。
…水って低い所に流れるよね?ということは、秀忠の霊廟前にあった水路は、当時の技術を駆使して作ってあったんじゃないかな?今、石しか残ってないのは無念じゃ。

水路跡を抜けた先にかつての秀忠の霊廟の勅額門跡があります。その先に広い空間があります。ここにかつて壮麗にして華麗な秀忠の霊廟があったのです。現在は東京タワーが良く見えるスポットです。ほら東京タワーが主役。
ちなみに、霊廟はお墓ではありません。だから、徳川家康の霊廟が日本各地に残ってたりします。秀忠のお墓は霊廟で法要した後、左手にあった奥院・宝塔の中にありました。
昨日紹介したこれですね。
空襲ですっからかん!と燃えてしまい、現在は東京プリンスホテルパークタワーが建ってます。
散策路に従い更に左手を進む。と。芝丸山古墳が見えて来ました。
丸山古墳は前方後円墳。全長110メートル・後円部径約64メートル、くびれの部分は幅22メートル。都内最大級の規模でした。
ということは~、増上寺近辺って古くから霊場ってゆーか、流行りのパワースポットじゃないかしら!?
さて、目的地は芝東照宮です。丘を降りねばなりません。
丘を降りると、「何じゃこれぇ~~~っ!!雪がっ!!雪がぁ~~~!!」
もうね。既に雪じゃなくて氷ですよ。南国育ちの私には凍った雪の上を滑らずに歩くスキルはありません。ツルツルするのをへっぴり腰で進んでいると、あっこさんは気にすることもなくサクサク進んでいます。
あっこさんは彦根の人なんです。新幹線で西へ行くと、関ヶ原周辺だけ雪!という事が多々あるでしょ?彦根は関ヶ原の近くなんですよ。だから雪道はへっちゃらなんですね。う・うらやましい~。
あっこさんに雪道を歩く極意を伝授してもらいつつ進んでいくと、芝東照宮に到着しました。

芝東照宮はかつて安国院(初代家康)霊廟でした。明治6年、時の政府の神仏分離令により増上寺から独立しました。んでもって、芝東照宮も空襲で被災。現在の東照宮がショボいのはその為。
あれ?
東照宮って、家康が駿河で亡くなり、日光へ遺骸を移す時に通った殯の道に点々と残ってるんじゃなかったっけ??駿河から日光への道程で、江戸にある増上寺に寄り道しなかったよね??なのに何故にここに東照宮があるのか?
説明板発見!「元和2年(1616)家康は死去に際して、還暦の記念に自らの像を刻んだ「壽像」を祭祀する社殿を増上寺に建造するよう遺言しました。これが芝東照宮の起源です。
その後、3代将軍家光により寛永10年(1633)に新社殿が造営されました。駿府城から移築された惣門・福岡藩主黒田忠之が寄進した鳥居・本殿の周囲に拝殿・唐門・透塀が造営された。
しかし、昭和20年5月25日の東京大空襲により「寿像」と神木のイチョウを残し焼失しました」
う~む。諸行無常です。
さて、芝東照宮の並びに都営地下鉄三田線芝公園駅があります。ここを降りて~。
ん?
ここを降りても日本橋駅へ行けないんじゃ~??んでもって、次の目的地の和菓子屋へも行けない~。
と。一旦降りかけた階段を止めて上がったんですが、これが…この日の判断ミスでした。
何故私は芝公園駅から隣の御成門駅へ移動しなかったのか…。延々歩いて移動しちゃいましたよ~~。何やっとるんじゃ!!アホか~~~ッ!!
このミスは後々まで響いてしまいます。   
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お江と秀忠の墓

2012年03月01日 06時00分10秒 | 墓所巡り
増上寺の徳川将軍家霊廟は、ふだんは非公開です。なのに入れたのはひとえに去年のNHK大河ドラマが『江』だったから。
なので、秀忠&お江の方のお墓は別立ての記事にしました。
トップ画像は現在の秀忠夫妻のお墓です。
さて、正直に言いなさい!や。怒らないから。
私も同意しますよ。将軍夫妻のお墓ってショボい!
もちろん最初からこんなにショボくはありません。
これにはね納得の理由があるのです。
今回の墓所特別公開は、大河ドラマの『江』のおかげなので、墓所にはこんな展示がしてありました。

こちらは在りし日のお江の方の霊廟です。

こちらは秀忠の霊廟。在りし日の霊廟を撮影していたのは嬉しい事ですが、カラー写真でなかったのがとても残念です。
 
壮麗にして華麗。当時の芸術の粋を尽くして作られたものでした。江戸・明治・大正・昭和と長らく大切に守り伝えられてましたが、これらの霊廟は太平洋戦争末期の昭和20年3月10日に増上寺にあった五人の将軍の廟があった北廟焼失、そして秀忠夫妻の廟があった南廟は5月25日に焼失しました。
配置はこんな感じでした。

わずかに焼け残ったものは、文昭院殿(6代家宣公)霊廟のうち「中門」正徳2年(1712)鋳造。旧国宝。現在は増上寺の徳川将軍家霊廟の墓所入り口に設営。
台徳院殿(二代秀忠公)霊廟のうち「惣門」寛永9年(1712)建造。国重文。現在は日比谷通り沿い、東京プリンスホテルバークタワー前に移動。
同じく台徳院殿霊廟より勅額門、御成門(天人門)、丁字門、灯籠は現在狭山湖畔ユネスコ村、狭山山不動寺に移築。
有章院殿(七代家継公)霊廟のうち「二天門」享保元年(1716)建造。国重文。日比谷通り沿い、東京プリンスホテル前に移動。
清揚院殿(三代家光公第三子、甲府宰相綱重公)霊廟のうち「水盤舎」宝永2年建造(1705) 昭和53年(1978)増上寺境内参道脇に移築。これだけしか残りませんでした。ああ、諸行無常。
かつての壮麗は霊廟群を偲ばせる地図が残ってます。
大日本東京芝三縁山増上寺境内全図
地図上の番号は1)秀忠の霊廟の惣門。2)秀忠奥院宝塔。
3)家宣霊廟の拝殿内部。4)同左右廊内部5)同奥院中門6)同鐘楼7)同奥院唐門
8)家継霊廟中門・左右廊内部9)同勅額門10)同水盤舎及び井戸屋形です。んでもってそれらの在りし日の姿がこちら。



絵葉書と地図は徳川将軍家霊廟特別公開に入場して500円を入場料として支払うと、いただけました。歴史ファン垂涎の品だと思います。
訪問日は2012年1月27日でした。今現在も特別公開が続いてるかわかりません。増上寺に問い合わせ下さい。
尚、ここにない将軍の墓はどこにあるかと言いますと…
初代徳川家康公…始めは駿府の久能山に葬られ、一周忌を経て江戸城の真北にある日光東照宮へ改葬。
三代徳川家光公…初めは遺言により東叡山寛永寺に。後に日光東照宮に移動。
四代徳川家綱公…寛永寺。
五代徳川綱吉公…寛永寺。
八代徳川吉宗公…寛永寺。
十代徳川家治公…寛永寺。
十一代徳川家斉公…寛永寺。
十三代徳川家定公…寛永寺。
十五代徳川慶喜公…現在は谷中墓地。(かつては谷中墓地は寛永寺の墓地でした)
確か、6代家宣以降将軍の墓は寛永寺と増上寺と交互に造営することが慣例になりました。又、8代吉宗は財政再建に務めた将軍でして、将軍の霊廟建造も彼以降禁止してます。
寛永寺の徳川将軍家お墓は非公開です。が~、NHKの大河ドラマ『篤姫』放送で「篤姫のお墓に参拝したいとの声に答え、特定日に事前申し込みの上、当選者に限り公開されてます。希望者は台東区の観光協会のホームページをチェックしましょう。んで募集がかかったら申し込みするのじゃ!(池上本門寺でお墓を説明してくれたご隠居さんに教えてもらったばかりなんで、私もまだ未見です)

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