あられの日記

カテゴリーは場所優先。鶴岡八幡宮は寺院・仏閣ではなく「鎌倉」に。一部検索し易さ優先で、花カテゴリーに入れてる場合も。

根津神社のつつじ2018.4.21現在

2018年05月07日 05時40分44秒 | つつじ散歩
東御苑のつつじを見物後、千代田線大手町駅から根津駅へ。ホームに多くの客が降りた。出口をほとんどの客が東へ向かう。根津神社につつじを見に行く人が多そうだ。
11時50分根津神社到着。

橋の向こうに列がある。つつじ園に入る列かしら?やっぱり並ばなきゃなんだ〜。ここであんまり時間を使えないんだが。
念のため列の先頭へ確認にいけば、行列ではなくつつじ園に入らずに園外からつつじをバックに撮影してる人だった。ラッキーだ。並ばなくていいんだ〜。いそいそと料金を支払う。

山門を取り入れて撮影。

すでに遅咲きのつつじが見頃を迎えている。つつじ園は斜面なので立体的に撮影出来るのです。ここからつつじを背景に撮影するのがベストポジションですが、人が多すぎて諦める。

画像左奥に赤い鳥居が並んでます。そういえば、入場料支払い口の側から赤い鳥居が並んでるのですが、鳥居をくぐろうとする人の列もありました。あれもつつじ園入場列じゃないから紛らわしいんだよね。

お天気が良すぎて手前の日陰部分のつつじを綺麗に写そうとすると、日向のつつじが白トビする。難しいねえ。

オレンジ色ですがつつじ。

バラのようなつつじ。

いろんなつつじが咲き誇ってます。

奥に赤い鳥居と社殿も入れて撮影。

つつじ園をでました。最後に入場列と間違った橋向こうに人が並んでる場所へ行ってみた。みんなここから撮影していたのね。
社殿で参拝しようとしましたが、参拝列が山門まで伸びてたので諦めた。時間がないのじゃ。ごめんなさい。

根津神社の境内はつつじまつりを開催中。レトロなお茶屋さんもありました。イベント本部っぽい白テントでは谷根千散策イラストマップを配布してました。かつてこのイラストマップをいただきまして、この日も持参してたのですが、イラストが増えてます。チェックポイントも増えてたので新しいのをいただいて移動です。
時刻はただいま12時34分。実は上野の寛永寺の根本中堂に13時40分集合なんだよ。絶対に遅れられないので、早めに移動します。どうも私は地図が好きな割に高低差があるととたんに地図が読めない人になりさがるという残念な習性が付与されてるっぽい。何度坂道で迷子になったことやら。集合時間前に無事たどり着くために、余裕を持って移動せねばならんのです。
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皇居東御苑のつつじ2018.4.21現在

2018年05月06日 05時52分41秒 | つつじ散歩
日比谷公園の首掛けイチョウを見て、完成した東京駅から皇居までに道を歩き、大手門に10時半頃到着。入口に行列2つ。
何してるの?観察すると、手荷物検査だった。東御苑に入るのに手荷物検査は初めてだ。そして初めてがもう一つ。大手門へ至る橋の手前でビラ配りをしてる。日本語版と英語版。
何してるの?「江戸城に天守を再建しよう」で署名活動。
ナンセンスにもほどがある。江戸城に天守がなぜないのか?確か焼失した天守を保科正之(後に会津藩主)が金がかかる!そもそも平和な江戸に物見櫓の天守は必要ない!と。
私は今の空っぽの天守台こそ素敵だと思う。そこに天守がないことが平和の証なのに、なぜに天守を作ろうとするのか?それこそ歴史の破壊だと思う。ビラには「2020年日本の新たなシンボルとして江戸城天守の再建を」と書いてあるけど同意出来ないなあ〜。もし意見を聞かれたら「やめとけ!」と答えるわ。
入場票を受け取り東御苑へ。目的は鮮やかなつつじです。
今年は春の進行が早いからね〜。まだ咲いてるかな〜??

諏訪の茶屋をながめつつ小さめのクルメツツジが満開でした。濃いピンク色のは残念ながらすでに見頃すぎ。花が痛んでるのでアップで撮影を見送ります。

でも視界は綺麗だし、空きベンチも確保できたので、少し早いですがつつじをながめつつお昼ご飯にしました。

昭和天皇が武蔵野の雑木林を再現したゾーンは、野草が綺麗でした。トップ画像はキンランです。ギンランもあった。上の画像は、去年の秋の皇居乾通り通り抜けに参加して、東御苑に移動したら紅葉が素晴らしかった場所です。今は新緑。ってか、すでに初夏の美しさが堪能できました。

これは、ミヅキかな?ヤマツツジの朱色も新緑に映えてました。

菖蒲田にはアヤメが咲き始めてました。アヤメの咲くそばの水路では、上の黄色のエンコウソウが涼しげです。
日比谷公園の雲形池のそばの藤棚はすでに見頃すぎでしたが、二の丸池の藤棚はどうだろう?

白い藤が見頃。藤の花房は小さめですが、見頃すぎに差し掛かってるかんじ。ギリギリ見頃かも?それより、その向こうに白い花畑がありますね。

確認したらシャガでした。満開です。
東御苑を訪問する度に思うのですが、ここ外国人観光客が増えすぎです。アクセスはいいけども。東御苑を堪能するのは日本人でもハードルが高い場所なんだけどな。何しろ往時の江戸城に想いを馳せれる物件がほとんど残存してないからね。壮麗な江戸城を思い浮かべて訪問するとがっかりすると思うんだ。
さてと?移動です。早くも11時過ぎちゃったよ〜。予定より押し気味です。次の根津神社、花見客でいっぱいなんだろうなあ〜。あんまり時間が取れないだけども。つつじ園の入場列があるのか?そこが気になります!大丈夫かな?
大手町駅から千代田線で根津駅へ。
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巨木探訪・日比谷公園の首掛けイチョウ

2018年05月05日 05時27分41秒 | 巨木・古木・ご神木・盆栽
去年の秋、都内大銀杏巡りを楽しみました。都営まるごと1日券を使い、大江戸線界隈のイチョウめぐり。あの時は、都営地下鉄の路線図も都営バスの路線図も頭に入っておらず、六本木駅から赤坂氷川神社→山王日枝神社→国会前庭の旧井伊家を往復しちゃったのです。帰宅後、日比谷公園の大銀杏を見忘れたのに気づきまして、相当がっかりしました。で、2018年4月21日に立ち寄りました。
9時30分、千代田線日比谷公園A14出口到着。日比谷公園は初夏の様相です。これは〜、大銀杏の葉っぱが育ちすぎてるかも??
巨木探訪は、葉っぱより枝や幹を味わいたいんだよね〜。葉っぱが茂りすぎると、枝や幹が隠れちゃうんだよ〜。どうかな〜??

首掛けイチョウに到着です。木の下にあるのはレストラン松本楼。歴史あるレストランです。
孫文のピアノ(2013年9月26日)の記事 こちらの記事に孫文がしばしば松本楼を訪れていたとか、奥さんが弾いたピアノなど資料がありますので、松本楼の名物カレーを食べたついでにご覧ください。

説明板発見:首掛けイチョウ
この大イチョウは、日比谷公園開設までは、日比谷見附(現在の日比谷交差点)にあったものです。
明治32年ごろ、道路拡張の為、この大イチョウが伐採されようとしているのを見て驚いた日比谷公園の生みの親、本多静六博士が東京市の参事会の星亨(ほしとおる)議長に面会を求め、博士の進言により移植されました。
移植不可能とされていたものを、博士が「首にかけても移植させる」と言って実行された木のあので、この呼び名があります」
樹齢はどれくらいなんだろうなあ〜?立ち姿が素敵な木です。
WEBの海で探したらば幹周り6、5メートル。樹高21、5メートル。推定樹齢350年と出てました。さもあらん。
さてと?この先の雲形池に藤棚があったよな〜?

見に行ったら、すでに藤は終わってた。まさかの黄菖蒲がすでに見頃になっていた。

池の周りのイチョウもすでに初夏の色合い。お約束の鶴の噴水を入れてみたら涼しげに見える。え〜と?まだ4月21日なんですが。この分ではこのあと見に行く皇居東御苑と根津神社のつつじも見頃がすぎてるかもしれないなあ〜。
9時43分、日比谷公園を後に。今日は小田急東京メトロ切符利用なので、気軽に東京メトロを乗り降りできます。一駅ですが、二重橋前までメトロ移動しました。

東御苑が目的なのに、わざわざ二重橋前で降りたのは、工事が終わった東京駅から皇居に向かう道と東京駅の画像を写したかったから。ですが、一言言ってよかですかっ!
二重橋駅から東京駅の地上に出るのが大変すぎっ!案内図もないっ!ガラーンとした大きな空間があるだけ。これが東京駅の地下だとは、かえってびっくりでしたっ。上下移動だけが不便です。実は階段はあったのですが、右足が痛くて階段を使いたくないの。太ももが〜、かれこれ一月痛い。もう椅子に座ってられないくらい痛い。なので、エスカレーターかエレベーターを探しちゃったよ。せめてエレベーターはこっち!と案内板をもっと出して欲しいです。
さて?せっかくなので幕末まで会津藩が守っていた和田倉堀を抜けて大手門へ向かいたい。

和田倉堀にかかる木製の橋。その向こうに素晴らしい石垣がありました。かっちりと組んだ石垣が美しい〜。

和田倉堀は噴水公園になってます。視界の奥に富士見櫓が見える。時刻は10時20分。思いの外東京駅の地下で時間消費をしちゃいました〜。急ごう!

COMITIA終了〜。 すっごくお客さん多かったです。確か12時を回ってすぐにカタログ完売のアナウンスが流れました。すごい〜。
おかげさまで【さぬきの昼は具ないうどん】が完売しました。ありがとうございます。
そしてびっくりなことに【インド旅行記・不思議の国インド】が残り1冊。【インド写真集】が残り2冊という快挙です。マジですっ。もう嬉しすぎるっ。まあインド旅行記は印刷冊数が少なめだったので、早くなくなるだろうと思ってましたが。それにしても早いわ〜。でも嬉しい〜。在庫を積んでるのは滅入るので完売目の前なのは嬉しい。夏コミに当選したら完売できそうです。
あ。ベトナム旅行記はまだあります。
がんばって売らないと!でもベトナム漫画はセールスポイントがイマイチでな。売り込みしづらいんだ。これは今月代々木公園でベトナムフェアがあるのでちょこっと情報収集してこようかな?
ともかく、ご来場いただいた皆様ありがとうございましたっ。夏コミに受かったら今度こそ漫画描きます。足が痛くて椅子に座れないのが懸念されるとこなんですが。ページ短くなっても頑張る〜。
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目黒の五百羅漢寺

2018年05月04日 06時07分05秒 | 神社・仏閣
2018.3.25訪問。目黒川の桜→大鳥神社→海福寺→五百羅漢寺(今ここです)
駅で配布してる目黒川のさくらMAPには観光スポットも掲載してあった。そこに五百羅漢寺も載ってました。
海福寺のすぐそばに五百羅漢寺はありました。トップ画像が道に面するお寺の入口です。地味!でもとにかくおススメだからと石段を上がると、寺務所があり入山料300円支払う仕組み。
京都や鎌倉のお寺では入山料を支払うのはポピュラーですが、実は事前に知らなかったので、一瞬入るかどうか迷った!チラリとダンナを見たら好きにすれば?という感じだったので、入る。
しかし、見たかった羅漢さんが撮影禁止だとは知らなかった!これ、入山料を払う前に知ってたら入らなかったよ。なにをぐだぐた愚痴ってるのか?といえば、多分私と同じく逡巡する人がいると思いまして。
でね。私がなにを言いたいかといえば、入れ!ってことです。羅漢さんの木彫の素晴らしさに見なきゃソンだよっ!と。今まで知らなかったのが悔しいほどです。
私がキャピキャピの女子大生だった頃、京都の大学に通ってました。京都・奈良には多くの仏像があります。あの頃が結構自由に仏像が拝めた。ここ五百羅漢寺にある羅漢さんは大きくて、すぐそばで見ることができます。撮影できないのは返す返すも残念ですが、入山料を払うといただけるパンフレットの羅漢さんを掲載しますね。

パンフレットの写真では大きさが分からない。おそらく羅漢さんは等身大で彫られています。元禄時代の作で、僧侶が一人で彫った。ちなみに、明治の木彫の名人、高村光雲はここの羅漢さんを手本に何度も通いつめてたとか。(高村光雲さんって知ってる?代表作に上野の西郷さん像とか、教科書に重文になった「老猿』が載ってます。あ、老猿は上野の国立博物館にあるので、展覧会を見に行ったついでにご覧ください)

パンフレットの順路に従って進みます。その前に、石段下にある説明板を紹介。
五百羅漢寺
天恩山五百羅漢寺は、元禄8年(1695)鉄眼禅師を開山として江戸本所(現、江東区大島)に創建された黄檗宗の寺でした。当時、境内には「さざい堂」という建物があり、内部が螺旋階段になっていて一堂に諸仏像を拝観できると人気を博しました。明治41年(1908)、ここ下目黒の地へ移り、現在は浄土系単立の寺です。
本堂および回廊に安置されている五百羅漢像などはそのほとんどが、松雲元慶禅師が各方面から寄進を受け、十余年かけて自ら彫刻したものです。木造釈迦三尊および五百羅漢等像の305体の像(都指定文化財)は、それぞれ姿の違った人間像として巧みに表現されており、しかもこのような大型の像が多量かつ一堂に安置されていることは珍しく、近世彫刻史上注目すべき貴重なものです。
書院屋上のある梵鐘は安永3年(1774)田中丹波守藤原重行作で、他にあまり類例のない特徴を持ち、国の重要美術品の認定を受けています。 平成21年3月 目黒区教育委員会」
まずは羅漢堂から。ここでガツンとくる。コの字にずらりと3段に羅漢さんが並んでます。素晴らしいっ。じっくり眺めてると時間が全く足りません。羅漢堂にはじっくり見たい人向けに椅子も設置してあります。
羅漢堂の出口に異様な動物像があります。獏王像と名付けてありますが、別名白澤像といった方が分かりが良い方もいるのかな?顔に眼が3つ。体の左右にそれぞれ3つづつ眼がついてます。
江戸時代にはポピュラーだった白澤さま。病魔よけに白澤の絵を枕元においたり、旅先にお守りとして持ってったとか。私は畠中恵さんの小説しゃばけシリーズで、主人公の病弱な若旦那を助ける薬種問屋の手代の仁吉兄さんの正体が白澤で馴染みがあります。アニメ「鬼灯の冷徹」にも出てきますね。
羅漢堂を出ると小さな石段。

石段を上がった所で正面に本堂を撮影。順路は右折なので右へ。と、納められた絵馬が見えました。

カッコイイ絵馬だなあ〜。狛犬かな?でもさ、存在を思い切り主張してたのが萌え絵馬。

ナヴァグラハって何??WIKIで検索すると、ナヴァグラハはサンクスリットでは九曜のこととでた。でも明らかに私が知りたい答えとは違う!(正解は後述)
順路へ戻ります。碑のこみちは細い道の左右に、石碑・句碑・歌碑・供養塔が並んでます。
私が興味を持ったのがこれ。

原爆殉難碑
昭和20年8月6日、世界で初めて原爆が広島に投下された。巡業中だった新劇の名優丸山定夫の主宰する移動劇団さくら隊が被曝し、団員9名が悲惨が最期を遂げました、。
この碑は、旧友たちの死を哀悼し、原爆という非人道的な武器を発明した人類の愚かさに、永遠に抗議するため、昭和27年徳川夢声によって建てられました。
碑の文字は徳川夢声、台座には、亡くなった9名の名前が刻まれ、裏面には、柳原白蓮の自筆の追悼歌が刻まれています。。
『原爆のみたまに誓ふ人の世に 浄土をたてむ みそなはしてよ』
毎年8月6日には、この碑の前で追悼法要が営まれています」
柳原白蓮ってNHKの朝ドラ「花子とアン」で仲間由紀恵さんが演じてた人だ。確か、お墓が相模原市緑区のお寺にあったハズ。

さて、いよいよ本堂へ。の前に、いわくありげな石がドーン!何これ??
説明板発見:御腰掛け石
8代将軍・徳川吉宗は、4代住持・栄朝浄陽のとき、寺地として3000坪を寄進したり、桃や桜の木、藤棚を植えて境内の「美観を整えるなど、羅漢寺の隆盛に尽力しました。しばしば当寺を訪れ、境内にお茶屋を作り、遊猟の御膳所に定めました。
御腰掛け石は、大雄宝殿(本堂)の右前に、享保20年(1735)に造られたもので、吉宗が法間・聴聞するときには、御台石という標が立てられました」
ほうほうほう。

だから本堂に三つ葉葵の紋があるのか。
さて、いよいよ本堂へ。お賽銭をあげて、靴を脱いで、ガラスの向こうへ。
本堂には釈迦如来像とその弟子である羅漢たちが一堂に会する。お釈迦様が弟子に説法をする所というていで像が並んでます。像が原寸大なだけに迫力満点。あ。本堂右手前に、開山の鉄眼和尚の像があります。写実的な像で、眼が生きてます。ぜひともじっくりご覧してください。
あ〜!!ここもね。羅漢さんがお釈迦様の左右に4段に並んでてすごいのだ。あ〜撮影したいっ!!ぜひとも自分の眼でご覧ください。
順路は編みだろうへ。阿弥陀如来像が。
最後に聖宝殿。五百羅漢寺の歴史資料が並んでます。ほうほうほうと調子よくみてたらば!!なんか、美人な尼さんの写真がありました。
誰これ??
うお〜〜〜!!マジかぁ!!
『明治に入り五百羅漢寺は衰退し、明治20年本所緑町(墨田区緑4丁目)へ移転。
更に寺は住職がいなくなり荒廃。昭和13年、安藤妙照尼が入寺して、第二次大戦前後の困難な時代に寺を維持した。安藤妙照尼は新橋の芸者出身で、芸者時代の名を「お鯉」といい、総理大臣桂太郎の愛妾として知られたが、のちに仏門に入った」
桂太郎って、長州出身で、維新の時に頑張って、戊辰戦争、日清、日露で政治家になった人だったハズ。あ!確か桂太郎のお墓参りも私したわ。世田谷の松陰神社さんにあったんだよね。
うわ〜。その桂太郎のお妾さんだった人が尼さんになって、羅漢さんの木彫を守ったんや〜。びっくりじゃ!!
ん?なんか、唐突に変なのがある。あ。撮影OKなの?

どうもこれがさっきの萌え絵馬のモデルの人っぽい。

あ。これ、本堂の釈迦如来と羅漢さんの像の様子。
で、ナヴァグラハとは何ぞや?ヒントは画像に写ってるシリウス。これ、月刊シリウス。漫画です。で、人気声優の小野大輔氏と近藤孝行氏が二人が原作なんだって。
へ〜、そうなんだ〜。で、どんなお話か?ナヴァグラハはサンスクリットで九曜とありましたが、世界の平和を脅かす<ヴィシュダ>の陰謀を阻止するため、仏の力を身に宿し戦う武僧が九曜。9人の中で最強なのが〜あの絵馬のモデルです。今時は人気声優さんが漫画の原作家やってるんだ〜。さっきのお鯉さんの驚きを忘れるインパクトでした。で?ダンナはどこだ?
彼は出口のベンチで待っててくれた。どれくらい待ってたんだろうか?ごめんね〜。
で、五百羅漢寺は外国人も日本人もあまり来ない。じっくり羅漢さんやお釈迦様が観れます。拝観料300円は払いがいがあったよ。では最後に「迷わずに入れ!」

明日、5月5日に東京ビックサイトで開催されるCOMITIAに参加します。
開催場所:東京ビッグサイト東4・5・6ホール
開催時間:11時〜16時

サークル名:竹里館出版局
サークル配置:東5ホール R34-b

*明日の新刊はありません。ごめんなさい。

旅漫画【インド旅行記】と【インド写真集】が残りわずかとなりました。ご希望の方は明日のご購入を検討ください。
他に明日の販売品は【ベトナム旅行記】【中国広西チワンゾク自治区・徳天瀑布と裏桂林】の旅漫画になります。

【巨木探訪と観梅】をお得きっぷを使って楽しく巡る漫画を描こうとしてたんですが、最近どうも調子悪くてですね。具体的には右足がアカンのです。椅子に座れないんです。特に前かがみになると痛みが増すので漫画が描けなくて新刊が間に合いませんでした。
あ〜、せっかくネタ満載だったのに〜。痛みが増しになれば、夏コミ合わせにしたいけども。自分の体ながら先のことはわからんわ〜。
あと、明日のCOMITIAですが、足が痛くて開催時間の終了を待たず撤収するかもしれません。1年ぶりのCOMITIAなので、時間いっぱい楽しみたいのはやまやまなのですが、痛いのは辛いんです。ごめんよ〜。
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歴史物件も複数ある海福寺

2018年05月03日 06時36分06秒 | 神社・仏閣
2018.3.25参拝。目黒川の桜を楽しんだ後、目黒新橋から山手通りへの坂を登る。交差点で大鳥神社さん参拝。その後目黒不動尊へ向かう途中、海福寺さんの説明板を見つけちゃいました。
海福寺
明から来朝した隠元隆琦が万治元年(1658)に江戸深川に開創した黄檗宗の寺でしたが、明治43年(1910)に現在地へ移転しました。
本尊は釈迦牟尼仏で、ほかに四天王像や隠元禅師の像、木造阿弥陀仏如来立像(区指定文化財)が安置されています。木造阿弥陀仏如来像は彫刻技法の特徴などから12世紀頃に京都あるいはその周辺で製作されたものと考えられ、都内で現存している希少な例です。
山門に赤い四脚門(区指定文化財)は明治後期に新宿区上落合の泰雲寺(現在は廃寺)から移建したものです。山門左手前の「文化4年永代橋崩落横死者供養塔及び石碑」(都指定文化財)は、文化4年(1807)の深川富岡八幡宮大祭の時に起こった、永代橋崩落事件の使者供養のために建てらてたものです。
また、境内の梵鐘(都指定文化財)は天和3年(1683)武州江戸中村喜兵衛藤原正次の件で、中国の鐘の形式に似ながら日本の古鐘の形式に範をとるという特異な考案によるもので、江戸時代の梵鐘中でも類例の少ない一品です」
見どころが多そう〜。いそいそと石段を上がる。ちなみに、石段奥に見える門が四脚門ですね。門の左手の桜も既に咲いてます。

四脚門の手前、石段の途中に石塔があった。

説明板:文化4年永代橋崩落横死者供養塔及び石碑 東京都指定有形文化財(歴史資料)
指定:平成3年3月8日
文化4年(1807)の深川富岡八幡宮の大祭は、大げんかが原因で中止されていた祭りが12年ぶりに催されたため大変な賑わいだった。しかし将軍世子らの御座船が永代橋の下を通過する間、一時的に橋上の通行が禁止された。通行止めが解除されて一斉に群衆が橋を渡った時に橋の中央付近が崩落し、多くの人が隅田川に転落。多数の溺死者を出す、江戸開府以来の大惨事が発生しました。
事件後、当時永代橋に近い深川寺町通り(現。江東区深川2丁目付近)にあった黄檗宗永寿山海福寺に「無縁仏が埋葬された。そして百日忌に供養塔が、安政3年(1856)に50回忌に石碑が、海福寺境内に建立された。海福寺は明治43年(1910)に目黒区下目黒の現在地に移転したが、その際にこの供養塔及び石塔も移設され、現在に至っている。
この事件はのちに、戯作者山東京伝の『夢の浮橋』や、京伝の弟山東京山の『蜘蛛の糸巻』、滝沢馬琴の『兎園小説余禄』に所収されるなど、江戸市民に大きな衝撃を与えた。溺死者440名とも言われた空前の大惨事を、江戸市民がどのように受け止め後世に伝えたかを明らかにする重要な資料である」
境内に東京都文化財ウィークの絵葉書が置いてあって、それに乗ってるのは並ぶ石塔の左側です。でも私が興味ふかく見たのは右の石塔。

だってさ、石塔の傘の裏側に、木造のような石彫が見えたんだもの。連座部分も綺麗だし。

四脚門
目黒区指定有形文化財 昭和59年3月31日指定
海福寺四脚門は明治後期に新宿区上落合泰雲寺にあったものを移建したものであるが、その後の長い年月の間に海福寺境内や周辺環境によく調和しており、落ち着きのある景観を生み出す重要な建物として定着している。
四脚門は中央にある親柱二本とその前後に二本づつある4本の控柱からきた名称で、日本建築の代表的な門の形式である当四脚門はその細部絵様の様式において、江戸中期の特質を備える貴重なものである。」
狭い境内に見どころいっぱい。

武田信玄の屋形に置かれてあったと伝えられる九層の塔 「江戸名所図絵より」

東京都指定有形文化財の梵鐘
天和2年に当時深川にあった海福寺が全焼し梵鐘も灰燼に帰しました。
時の住職独本が新鋳し、黄檗宗の開祖隠元大師の新鋳を祝した銘が刻まれています。
裾の雲形の柔か味を工夫したほかに類例のない逸品です。
思いの外、歴史ポイントでしたっ。明治期に移転する前ならさらに歴史ポイントのあるお寺だったんだろうなあ〜。でも元々が深川にあったんだったら、関東大震災(大正12年)と東京大空襲(昭和19年11月〜20年5月まで106回)にあってたか。
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大鳥神社の巨木がない〜

2018年05月02日 05時39分11秒 | 巨木・古木・ご神木・盆栽
2018.3.25訪問。東急中目黒駅から目黒川の桜を川下に向かって追いかけた。目黒新橋で目黒通りの坂を南方面へ上がる。山手通りと目黒通りの交差点の向こうに神社が見えた。ここから撮影したのがトップ画像です。
見頃の桜を追いかけるのを止め、立ち寄ったのは最近ハマってる巨木探訪のため。大鳥神社さんの大アカガシ見学をしたいっ。
山手通りの交差点で信号待ち。道向こうの大鳥神社の境内はこじんまり。それ自体は地価の高い都内の神社仏閣ではよくあること。でもさ、巨木は遠くからでも所在がすぐわかるんですよ。どこにあるのか?となるのは、巨木が沢山あって、どれが目的の木かわからない場合。む〜ン??大鳥神社さんには当てはまらないんだけどな〜?
1月に図書館で借りた『巨樹・巨木』の本に掲載されてた写真を境内で見比べる。

これか?右後ろの特徴的にくねってる幹が同じ。
『巨樹・巨木』の本によりますと大鳥神社の大アカガシ
樹高:16メートル 幹周り1、7メートル
樹種:アカガシ 樹齢:不明

都指定天然記念物。 大鳥神社の境内にある。根元付近は周囲より30センチほど高く、まわりは石で囲まれている。大鳥神社は目黒区最古の神社で、806年(大同1)に和泉国の大鳥の神を勧請したといわれている。目黒駅から徒歩10分」とあります。

見上げて幹を撮影。ごつごつとした木肌が特徴的。

根元。周りは石で囲まれてるから、根元が撮影しやすい。
感動してたらば、ダンナに呼ばれた。何かしら〜??
ダンナ「読んでみて」

大鳥神社の大アカガシ 東京都指定天然記念物
指定:昭和38年3月19日
指定解除:平成24年3月21日
大鳥神社境内に生育していたオオアカガシは、基本種のアカガシに比べ非常に大きく。薄い葉を繁らせ、また、雄花穂の花軸はアカガシの変種とみなされました。新変種命名の基準となった本樹は。学術上貴重な樹木として、昭和38年に東京都の天然記念物に指定されました。本樹の枝葉は、現在でもオオアカガシのタイプ教本として、国立科学博物館筑波実験植物園に保管されています。
指定時に樹高約16メートル、幹周り1、6メートルあった本樹は、生育環境の変化等により昭和50年代始めころから樹勢の衰退がはじまり、数回にわたる樹勢回復事業も実施されましたが、平成14年枯死が確認されました。また、後継育成のため挿し木による増殖も試みましたが、成功せず、平成24年に指定解除となりました。
ここに説明板を設置し、都内でも学術上貴重な名木が存在したことを後世に伝えるものです。
平成24年3月 東京都教育委員会」
ということは!?撮影した樹は目的の樹ではない!?天然記念物だった大アカガシの子孫でもない??
ならば、本に掲載されてる画像は何なの?
あ!あれか?「指名手配犯の写真を取り違えました。ごめんなさい」って事か?そりゃないよ〜。見頃の桜よりこっちを優先したのに〜。ざんねん〜っ!
境内の石のベンチで凹む。悲しく思いつつ大アカガシのコピーを眺めていたら、大アカガシの画像のしたに「2004、3、17」とあった。これってさ、撮影したのが2004年という事だよね?
今が2018年で平成30年だから、2004年は平成16年です。
大アカガシが枯死したのが平成14年。天然記念物指定解除が平成24年。
つまり、撮影時には既に目的の大アカガシは枯死してた。ということは、やっぱり本に掲載されてる写真が間違ってる。マジか〜。改めて凹む〜。
ということで、巨樹・古木探訪→神社探訪へ目的変更です。

説明板発見:大鳥神社
この神社は、ヤマトタケルの東征にゆかりがあるといわれるこの地に、大同元年(806)創建された区内最古の神社です。江戸地図として古いものとされる「長禄江戸図」に書かれている古江戸9社の一つで、目黒村の総鎮守でもありました。祭神はヤマトタケルを主神とし国常立尊(国開きの神様)と弟橘媛命(ヤマトタケルのお妃さま)を合祀しています。
毎年11月に開かれる酉の市は、東京では古いものの一つといわれており、現在も都内では有数の賑わいをみせています。この市のいわれは日本書紀に「10月己酉にヤマトタケルを遣わして、熊襲を撃つ」とあり、尊の出発日が酉の日であったことから、おこったと伝えられています。
毎年9月の例大祭には、目黒通りに大小30余基の町みこしが勢ぞろいします。それとともに社殿では「太々神楽・剣の舞」が奉納されます。11月の酉の市には、「太々神楽・熊手の舞」が神前で舞われます。
境内には、東京都の天然記念物に指定された「オオアカガシ」の老木や三猿だけの延宝塔、元禄時代(1688−1703)や宝永年間(1704−1710)の屋根付庚申塔など5基の石造物もあります。また、俗に切支丹燈籠といわれる「織部式燈籠」や、天保6年(1835)の酉の市に神楽を奉納した記念碑などもあります」
先ほど紹介した大鳥神社のオオアカガシの石柱と説明板の手前にあります。
説明板発見:切支丹灯籠 下目黒の大鳥神社所蔵で、昭和38年、守屋図書館に開設された郷土資料室に出品公開されて以来、中庭で展示していたものです。
もとは千代ヶ崎(現在の東京都教職員研修センター付近)の大村邸内にあり、かつてこの地にあった肥前島原藩主松平主殿守の下屋敷にまつられ、密かに信仰されていたものと伝えられています。
竿石の下部に刻まれた像には足の表現がなく、イエス像を仏像形式に偽装した珍しい型の切支丹灯籠で、キリシタンへの弾圧と迫害が厳しくなった寛永・正保・慶安の頃から江戸中期にかけて作られたものと考えられます」
頭の中で島原の乱(寛永14−15年)を連想した。切支丹灯籠は思いの外歴史物件でした。
さてと?うっかり後回しにしてた参拝をする。
なんか、本殿の装飾が変わってる?

これは何かしら?鳥?鳳凰?
ハッ!ここは大鳥神社さんでした。鳥の装飾があちこちにあっても不思議じゃないよね。

最後の絵馬を確認。「右のヤツガシラはヤマトタケルの八族平定を表し、左のぶどうの葉は、従者の眼を治したといわれる」絵馬はやっぱり興味深い。だから絵馬チェックをしてしまう。
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巨木探訪・小田原城の巨松

2018年05月01日 05時47分50秒 | 巨木・古木・ご神木・盆栽
2018.2.17訪問。昨日紹介したイヌマキを本丸方向へ振り返ったのがトップ画像。
天守閣へ続く道、常磐木門が見えます。画像中央にスックと立つ大きな木が訪問目的の巨木、巨松です。
ちなみに、もう何度も記事で紹介してるこの画像。

もう一度書くと、左端が樹高15メートルのビャクシン。右端が樹齢約520年のイヌマキ。で、画像中央奥、常磐木門の向こうにも今日紹介する巨松が写ってます。

常磐木門から巨松を見上げる。城の漆喰の城と青空と巨松の3つがコラボしてる画像。でもこの画像では大きさがわかりませんね。常磐木門をくぐって左を見ると?

でかいです。一番いい感じに撮影できたのがこちら。

素敵でしょ?でも実はこのあたりには大きな松が斜面にいっぱいあります。なのでプレートを探しました。すぐそばに甲冑着つけ体験(甲冑・打掛・忍者・陣羽織衣装のレンタル)レンタル代大人500円施設があって、巨松の姿をいい感じで撮影できるポイントを探すのが大変でした。しかも!レンタル受付の人に「あの松の詳細を書いた説明板はありますか?」と尋ねたら、「知らない」だの「ない」だの言われちゃうし。う〜む?巨木探訪に小田原城を訪問する人はあまりいないのか?ちと残念。でようやく見つけたのは「かながわ名木百選」のプレートです。
かながわの名木100選 小田原城跡本丸の巨マツ(おおまつ) 昭和59年12月選定
和名:クロマツ(マツ科)
樹高:30メートル 胸高周囲:5、3メートル 樹齢:約400年(推定)
天保年間の相中雑誌に「御本丸に七本松という老松〜」とある松の生き残りと思われる城跡内最大の巨木である。
小田原市の天然記念物に指定されている。
クロマツは、本州から九州の海岸に生える常緑の針葉高木で、アカマツとともに防風林。砂防林や街道の並木などに植えられることが多い。
樹高45メートル、胸高周囲10メートル、樹齢約800年に達するこのもあると言われている」
もっと誇っていいと思うんだ。背が高いから折れないように大げさにも見えるごっつい支柱が立ててありますが。
ちなみに、城内には古木で巨木な大きな松が他にもあちこちにあります。
たとえばこれ。

馬屋曲輪の松。馬出門をくぐるとすぐある。説明文とかまるでないけどね。
あとこれ。

馬出門から天守閣を撮影したのですが、左右に額縁のように聳えてる松。
ちなみに同じ松を別角度から。

訪問は今年2月17日。普段は非公開の銅門の2階が公開されてました。その2階から外を見て撮影しました。左に写ってる松が同じの。
そしてこれは、御茶壺曲輪の南の石垣の松。
御感の藤を見物に行って、振り向いたら御茶壺橋の向こうにまるで水面から生えてるのうな松が見えた。こりゃすごい!といい感じで撮影出来る場所はないか?と探してたらば、水面から松が生えてるのではなく、石垣の松の枝が水面に漬かってたのだ。それでもいい感じで写せないか?と探したら、ベストポジションが完全逆光で諦めました。

最後にこれ。6月には花菖蒲と紫陽花が美しい本丸東堀から天守を撮影したもの。ここからも大きな松が見えました。紹介した巨松とは別の松です。
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