あられの日記

カテゴリーは場所優先。鶴岡八幡宮は寺院・仏閣ではなく「鎌倉」に。一部検索し易さ優先で、花カテゴリーに入れてる場合も。

日暮里諏訪通りの見逃せない!

2019年03月08日 05時29分58秒 | ぶらぶら散歩
諏訪神社さんの鳥居前でそばに説明板を見つけた。
江戸六地蔵と雪見寺(浄光寺)
山門をくぐって左手に、高さ1丈(約3メートル)に銅造地蔵菩薩がある。元禄4年(1691)、空無上人の勧化により江戸東部六ヶ所に六地蔵として開眼された。もと門のかたわらの地蔵堂に安置されていたもので門前は「地蔵前」ともよばれる。
浄光寺は、真言宗豊山派の寺院。法輪山法幢院と称し、江戸時代までは諏方神社の別当寺であった。元文2年(1737)、8代将軍吉宗が鷹狩りの際にお成りになり、同5年以降御膳所となった。境内に「将軍が腰掛けの石」がある。
眺望にすぐれた諏方台上にあり、特に雪景色がすばらしいというので、「雪見寺」ともよばれた。荒川区教育委員会」
江戸六地蔵って品川の品川寺(ほんせんじ)や清澄白河の霊厳寺で見たでっかい大仏だよね?ここにあるの?でも、あれれ?確か六地蔵で街道の起点に置いたんじゃなかったっけ?浄光寺さんの六地蔵が守る街道って何街道??頭をひねりつつもまずは六地蔵を見たいっ!
これがトップ画像なんだけどね。言ってもいいもんだろうか?
ここの六地蔵、ショボイんですけど〜??3メートルもない!小さいっ!
あ。イカンイカン急ぐんだったぜ。歩くスピードを上げる。
おっとォ〜〜!!
富士山の写真がある。
説明板発見:富士見坂:坂下の北側の墓地は日蓮宗妙隆寺(修性院に合併)の跡。妙隆寺が花見寺と呼ばれたことから、この坂も通称「花見坂」または「妙隆寺坂」と称された。
都内各地に残る「富士見」を冠する地名のなかで、現在でも富士山を望むことができる坂である。
都心にいくつかある富士見坂のうち、最近まで地上から富士山が見える坂でした。関東の富士見100選にも選ばれています。 荒川区教育委員会」

あきません〜。富士山見えません〜。ってか、どうも視界の奥にビルが建ってビル影になって、もうこの坂からは富士山が見えないようです。残念ね〜。
足元の路面と、坂の途中の街頭のデザインに富士の名残を見つけましたが。
撮影だけして、いにしえへの郷愁に浸ってる時間は私にはないのです。

ああ〜ん。もうっ!また見つけちゃったよ〜。
養福寺さんの門前から立派な仁王さんが見えた。しかも五色に彩られている。
何つーの?例えるなら、もし私が外国の小さな街を散策したら、「フォトジェニック!!ファンタスティック!!」と言って有頂天で撮影しまくるテイストなのね。仁王門のそばにはこれまた撮影ごころをくすぐる六地蔵さんが、赤い帽子とよだれかけでドレスアップ。しかも季節のお花つき。

谷根千が外国人の町歩きに人気あるのわかるわ〜。少し歩いただけど次から次へと見逃せないあれこれに出会えるんだもの。
次の目的地は諏方の道に敷地が隣接してるハズの延命院さん。朝9時から浜離宮で巨木探訪始めたものだから、次第に疲れてきてる自覚がある。もう参道を通って訪問にはこだわらない。一番近い入り口はどこだ?と順に通りを探しつつ進んだのですが。とうとう諏方の道が御殿坂に合流してしまった。
なんか人が一気に増えた。これが外国人と猫好きに人気の観光地の集客力かぁ〜!!
驚愕驚愕!でも、周りを見ずにスマフォや手元の書類に目を落としてる人がやけに多いな。たぶんアレだね。谷根千の通りの複雑さに、軽く迷子なんじゃなかろうか?いやいやいや。人間ウォッチングしてる場合じゃなかったわ。

諏方の道と御殿坂の出会う角に門構えが大きめのお寺、経王寺さんがあった。説明板もあった。
大黒天 経王寺:経王寺は日蓮宗の寺院で山号を大黒山と称す。明暦元年(1655)、当地の豪農冠勝平(新堀村の名主冠権四郎家の祖)が要詮院日慶のために寺地を寄進し、堂宇を建立したことに始まるという。本堂の隣の大黒堂には日蓮上人の作と伝えられる大黒天が鎮守として祀られており、地域の人々の崇敬を広くあつめている。
慶応4年(1868)の上野戦争のとき敗走した彰義隊士をかくまったため、新政府軍の攻撃をうけることとなり、山門には今も銃弾の痕が残っている。 荒川区教育委員会」
ほうほうほう。幕末期の銃弾痕か。それは見とかないと。
ありました。画像では銃弾のサイズが分かりませんね。手も写しておけばよかったよ。銃弾と聞いて想像してください。それを2〜3倍したサイズだと思う。結構大きい。綺麗に抜けてるね。この場合、発射した銃の性能が未熟なのか?それとも銃痕が抜けただけで割れずに持ちこたえた木材が優秀だったのか?気になるなあ〜。

たっぷりと木材を使ってるからおそらく木の方が優秀だったのね。さて、目的の延命院さんの入り口は?反対側だと思う。
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諏訪神社さんの素敵な狛犬

2019年03月07日 06時17分35秒 | 犬&狛犬シリーズ
2019.2.24東京メトロパスで巨木散歩。西日暮里駅から谷根千エリアの巨木巡りです。前々日の金曜に、24日が天皇陛下在位30年慶祝記念事業で、都内30箇所の公園や美術館などの入園が無料になると知り、既に組み上がっていた計画に無理無理に浜離宮を押し込んだので、時間が押してます。西日暮里駅到着時で既に午後2時半!先を急ぐべく諏訪通りの神社仏閣はスルーするつもりでした。
出来ませんでした〜。というのも、通りから狛犬の目が白いのが見えたから!私、カテゴリーに「犬&狛犬シリーズ」を作成する程度には狛犬チェックを楽しんでます。参道を探して諏訪神社さんにお邪魔する。
ところで、気づいたのですが、谷根千エリアってやたら寺院が多い。それは気づいてた。でも神社は結構レアかもしれん。思い出そうとしても根津神社さんくらいしか思いつかないし。

お神輿が納めらている「神輿庫」の脇に一対の狛犬が。



狛犬が主役で撮影したので分かりにくいけど、角のある狛犬の脇の木は大きい。
丸い目が珍しいんだな。あと朱色の鼻の穴と口の中。ひょうきんに見えちゃうな。
さて、撮影させていただいたのでお礼のお参りをせねばならん。足に疲れも溜まりつつあるけども。本殿に登りの石段が見えてるけども。境内がとっても広いけども〜〜。
な、なななな何じゃこれ〜〜〜!!

バージョン違いの楽しい狛犬が本殿を守ってらっしゃいます。

笑いたいっ!笑っちゃイカンけども笑いたいっ!!でもさっ。この狛犬さん、笑ってるよね。「よっ!」とか声かけてきそ〜〜。

背後が更にかわいい。なかなかの造形です。
ちなみに、境内には大きなイチョウの木がありました。堪能するには時間がなさすぎ。先を目指そう。
うお〜〜っ!!急いでるのにぃ〜〜。
説明板発見:源為朝公の山車
この人形は山車にしつらえ御輿と共に巡行したもので、平安時代末期武勇に猛けた「源為朝」鎮西八郎為朝公を擬してある。制作年は安政(1854−1860)とあるが作者は現在不明」
説明板はあるけど為朝の山車は見えない。たぶんお祭りの時だけ使うんじゃないかな〜。見たかった〜。
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なぜに西日暮里に道灌の名前が?

2019年03月06日 05時51分12秒 | 歴史散歩
2019.2.24訪問。小田急東京メトロパスを使って巨木散歩。東京メトロ千代田線西日暮里駅で下車。目指すのは延命院さんの大シイの木です。JR線沿いの坂を道なりに登る。角で曲がったら立派な石垣があった。これ、切り込みハギだよな。江戸城とか、あ、さっき浜離宮庭園の大手門でも見たタイプ。ここってどこなの?
取り出したのは根津権現かいわい浪漫ちっくマップです。去年根津神社のつつじまつりで配布してたの。このマップって谷根千界隈の歴史散歩に便利だよな〜。
あれ!?
素敵な石垣だからとワクワクして入り口を探したら、普通の公園だった。その名も西日暮里公園。ダンナが「トイレ」というので待ってたら、なんか見つけた〜。

道灌山。安藤広重作の浮世絵付き。
道灌って特徴的な名前って太田道灌しかいないじゃん!連想ゲームなら「正解」だよね?
先月伊勢原で太田道灌のお墓に参拝してきたばっかりな私。興味深々です。
七人塚と太田道灌の墓(2019年2月11日)の記事 大田道灌は伊勢原の上粕屋神社裏にあった上杉館で主君の裏切りにあい暗殺された。
説明板発見:道灌山は、上野から飛鳥山へと続く台地上に位置します。安政3年(1856)の「根岸谷中日暮里豊島辺図」では、現在の西日暮里4丁目付近にその名があります。この公園を腹部台地上にひろがる寺町あたりは、ひぐらし(日暮し)の里と呼ばれていました。
道灌山の地名の由来として、中世、新堀(日暮里)の土豪、関潼関が屋敷を構えたとか、江戸城を築いた太田道灌が出城を造ったなどの伝承があります。(中略)
道灌山・ひぐらしの里は、江戸時代の中頃になると、人々の憩いの場として親しまれるようになりました。道灌山の大半は秋田藩主佐竹氏の抱屋敷になりますが、東の崖ぎわは人々の行楽地で、筑波・日光の山々などを展望
できたといいます。」
なんか古い絵も展示してあった。

絵の右上に「船つなぎの松」というのが見えますか?松についての解説文もありました。
道灌船繋松
道灌船繋松のことは、『江戸名所図絵』天保7年(1836)、斎藤幸雄、幸孝、幸成(月岑)の三代三人が文章を書き、長谷川雪旦が絵を描く)にくわしく書かれています。
「青雲寺の境内、涯に臨みうっそうとしてそびえたり。往古は二株ありしが、一株は往んじ安永元年の秋大風に吹き折れて、今は一木のみ残れり。(中略)
或る人いわく、昔このふもとは豊島川に続きし入江にで、道灌の城砦ありし頃は、米穀その外すべて運送の船より、この松を目当てにせしものにて、つなぐというもあながき繋ぎとどむるの義にはあらず、これは舟人のことばにして、つなぐといふは目的にするなどいえるに同じ心とぞ。よってその後道灌山の船繋ぎの松と称して、はるかにこの所の松を目当てにせしを誤りて、道灌船繋ぎの松と唱ふるとぞ」
今は公園となったこの地を見回す。説明板の横に背の高い黒松が1本そびえている。過日の松をなぞらえて植栽したものか?
さて、ダンナも戻ったので出発。時刻はもう14時9分になった。マズい〜〜。急がないと!訪問予定を回りきれない。
スピードを上げて日暮里駅方面へ。過ぎ去る神社。
待て!今なんか変なのがいた〜〜〜っ!
過ぎ去れない〜〜。入り口は??参道はどこだぁ〜〜!!

な。これは過ぎ去れんでしょう?これは神社仏閣でなく、久々に狛犬カテゴリー物件です。
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巨木探訪・金蓮院のラカンマキ

2019年03月05日 05時13分02秒 | 巨木・古木・ご神木・盆栽
2019.2.24。京成金町駅に到着。徒歩10分ほどで葛飾区金蓮院 さんに13:38着いた。ちなみに金蓮院とかいて<こんれんいん>と読む。訪問目的は葛飾区指定天然記念物 金蓮院のラカンマキです。年代物の立派な山門をくぐると大きな木が見えた!たぶんあれだと思うけど、巨木の本には樹齢400〜450年の古木と推定と書いてあるけど、樹高10メートルほどで400年超えって本当かな〜??ともあれ観察する。

見上げた。古木の風情は持ってるなあ。

根元。

目通りあたりを撮影。見たことない樹皮の質感。これは雨が少なくて乾燥し過ぎているからか?それどもラカンマキというのがこういう樹皮なのか?謎!
じ〜っと見上げて観察。
あ。説明板発見:金蓮院のラカンマキ 葛飾区指定天然記念物 昭和58年2月21日指定
羅漢槇はマキ科に属する常緑樹です。古くから金蓮院の『ラカンマキ』として有名で、文政12年(1829)の紀行文『十方庵遊歴雑記』などの文献にも記された名木です。
「又傍に槇の大樹あり。太さ三尺四寸廻りもあらんか、樹の高さ凡そ二丈余り、葉のかたち尋常に在らず。(中略)枝ぶり又天然なり云々」
ラカンマキの大木は都内でも極めて少ないものです。樹高は10メートル余り、幹周りは約3メートルほどで、樹齢は400〜450年といわれています。
金蓮院は永正年間(1504−1520)の創立で旧門末30余ケ寺、朱印地10石を持った本寺格の寺院です」
ふえ〜。今はそんなに大きなお寺には見えない(失礼)けども。
実はこの記事を書くにあたり「幕府発行の江戸時代の寺社の朱印状に書いてある安堵された石高を見比べたら、当時の寺社の格というか大きさが分かるかも?当時は信者も多かったのに、今では凋落してるとか面白そうだなあ〜」と閃きました。でも調べるのは嫌。私日本史って高校でも選択してなかったし知識が足りないんだよね。時短したいので単純に寺社を見比べる『知行目録』ってないのかな?とWEB検索したら〜〜!!
なかった!嫌ね、大名や旗本に発行された朱印状は見比べたのがあったんだけどね。寺社のものはなかった〜。神社仏閣めぐりをしたら、大概説明板に『うちの朱印は⚫️石でした』と主張してるし、宝物殿に朱印状の本物(朱印状は将軍が変わる度に発行されると出てました。だから宝物殿に朱印状が何枚も並んでる訳がわかった)を展示してるのに。金蓮院さんの石高が二ケタだったので、ついつい気になったのですが。わからんものは仕方ないなあ。

本殿に参拝。「境内を撮影させていただきありがとうございます」と感謝を伝える。あ。本殿の軒丸瓦に三つ葉葵の御紋が並んでます。
あ。説明板発見:金蓮院のしおり
名称:真言宗豊山派法護山金剛宝寺金蓮密院
御本尊:大日如来
伝承:今(平成3)から1186年前の昔(805年)、弘法大師が唐の都長安で青龍寺の恵果和尚から密教の一切を伝授されて帰国。日本で真言教を開かれました。
総本山:大和の長谷寺
開山の年月日不詳。開祖賢秀和尚天正13年(1585)入寂。伝甲州武田家の家臣

境内には葛飾区の保護木のプレートがかかるクスノキもありました。
時刻は13時48分。先を急がねばっ。

おまけ:巨木の本によりますと、金蓮院のラカンマキは植物学上はイヌマキです。葉は細長く、長さ10センチで幅0、8〜1センチ。葉の裏は淡い緑色です。
イヌマキは房総半島の太平洋沿岸を東限とし、神奈川県以南の海岸に多く分布しますが、東京にはありません。
植物学上のイヌマキの中国名は羅漢松。
江戸時代にイヌマキ(犬槇)の中国名が羅漢松であることを知って、犬槇に羅漢槇の名を充てたことは十分に想像出来ます。
植物学上の「ラカンマキ」はイヌマキの変種で、樹高は5メートルと低く、葉は上を向き、葉の長さ0、4〜8、8センチで細く短く、葉の裏は白色がかっています。
日本では和名において学名は一つという規定がないので、名前と実物が合わない混乱が起きてます。」
とありました。巨木散歩してると植物にも詳しくなりますね。にしても最近真言宗豊山派のお寺とご縁があるなあ。
ちなみに、イヌマキならもっと大きいのを見たのを思い出す。確か小田原城の巨木探訪で〜?
巨木探訪・小田原城跡のイヌマキ  こちらのイヌマキは樹高20メートル、樹齢約520年以上でした。
さて、次は京成でなくJR金町駅を目指す。次の移動先は東京メトロ千代田線西日暮里駅なのだ。急がねばっ。
13時58分、もう少しで金町駅という所で通りに食べ物屋が並びだす。

あれ?日高屋の店先にメニューが2つぶら下がってる。けど、日本語じゃなかった。一つは簡体字の中国人用メニュー。も一つはなんとベトナム人用メニューだった。
少し前なら韓国人用メニューだったろうけども、今日本に観光や働きに来るベトナム人多いんだよね〜。できたらベトナムの小粒の丸い香り米を輸入してくれないかな?あれ、美味しいんだよね。タイ米より好き〜。
さて、JR金町駅に到着。あれこれスタンプ各種ゲットして、ホームへ。
ん?行き先が「成城学園前」になってる。あれ?綾瀬駅で東京メトロに乗り換えるんじゃなくて、同じ線路を使って東京メトロに乗り入れ、そのまま小田急線に入る仕組みなのか〜。便利だっ!

西日暮里駅到着。改札でパスモと小田急東京メトロパスを見せる。「パスモで金町から綾瀬まで。で、綾瀬から西日暮里は小田急東京メトロパスを使いたいんですけど〜」と申告したら、差額の154円支払いのみでOKでした。
さて、ここからは5月の根津神社つつじまつりで配布してた「根津権現かいわい 浪漫ちっくマップ」が頼りです。
線路沿いを緩やかな坂道を登る。

見えてきたのは立派な石垣でした。ここどこだろ??
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東武特急スペーシアとスカイツリー

2019年03月04日 04時33分43秒 | 鉄道のりもの
2019.2.24巨木散歩。東京メトロ半蔵門線押上駅から徒歩数分、飛木稲荷神社の焼けイチョウを鑑賞。駅に戻る途中、電車の遮断機の音が聞こえた。目の前にそびえる東京スカイツリー。コラボ画像をゲットできるかも?期待して音の鳴る方へ向かう。
信号手前に新幹線ぽい車体が停まっていた。(トップ画像です)
1枚撮影して遮断機の方へ移動。

音はするのに車体は見えない。たぶんこれ、とうきょうスカイツリー駅に停まった奴だ。
車体は見えた。手荷物二つ折りガラパゴス携帯の画面は暗くて見えない。ちゃんと写るんだろうか?

帰宅後、画像再生したらスカイツリーの頭が写ってなかった。しかしやってきたのが東武鉄道が誇る特急電車スペーシアだったのは嬉しい。ちなみに、あれは日光に行くやつ。
さて、押上駅に戻ってきた。今日は東京メトロパスを利用しての巨木巡りだけど、目指すのは京成線。京成高砂駅で金町線に乗換えで、金町駅を目指すのだ。
実は押上駅で京成線に乗るのは始めて。案内板に従って行くと、地下でなく登りのエスカレーターだ。まさかの出発駅は高架なの?知らなんだ〜。
やってきたのは都営地下鉄の車体だった。都営地下鉄浅草線が、そのまま京成押上線に接続してる車体だった。で、青砥が終点。各停を待って一駅先の京成高砂駅へ。

金町線は改札を一旦出なければならない。そこで売店が目に入った。
ってか正確には「板巻うどん」です。
ああ、讃岐人の習性か。「うどん」という字を目にすると、足が止まる。
いつだったかダンナが「布みたいな幅広のうどんがある」と言ってのを思い出した。
もしかしてこれ?寸拍おかずレジへ直行。2人前で180円。リーズナブル。
浮かれてると、ホームに出発間近の電車が停まっていた。
急がねばっ!心は全力疾走。でも実際は走ってない。てかまだ走れんのだ。ああ。右足〜。
金町線の駅はたった3つしかない。すなわち発駅の京成高砂。次は寅さんの柴又。で、終点金町駅。
金町駅から目的の巨木までは徒歩10分です。

半分住宅街の商店街を抜けると、急に葛飾区、金蓮院さんが現れびっくり〜。時刻は早くも13時38分。浜離宮と新橋停車場が散策予定に無理やり突っ込んだので当たり前だけど、予定時間をだいぶん過ぎている。予定の巨木全部はもう無理かもな。

ついでに。京成高砂駅で購入した板巻うどんですが、幅広うどんではなかった!
袋を開け、巻いてあるうどんの生地を広げるとびっくり。

いいかんじの皿に乗せたら、生地が大きすぎてまな板に移動。画像下に30センチスケールを置いてみた。
生地を3つ折りにする。
生地を切る。
熱湯で8分茹でる。思ったより膨らまない。少なめ。あれだ。讃岐うどんに比べると生地が薄いんだな。もう湯がいちゃったので、餅を焼いて追加して力うどんにする。まだ少なめなので、上盛りを野菜たっぷりにして翌日の朝ごはんでいただきました。味は、生地が薄めの割にコシがあるタイプです。朝食べるには一生懸命うどんを噛まないと辛い麺硬め。
板巻うどんは面白かったよ。でもごめん。讃岐人は讃岐うどんがベースなので、どうしても讃岐うどんと比べてしまうんじゃ。

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巨木探訪・飛木稲荷神社の焼けイチョウ

2019年03月03日 06時02分55秒 | 巨木・古木・ご神木・盆栽
2019.2.24東京メトロで巨木散歩、半蔵門線で押上駅。地上に出るとスカイツリーがすっくと見下ろす場所で、徒歩数分で飛木稲荷神社さんに12時26分到着です。

イチョウの大きさはそこそこです。しかしこの木の凄い所はそこではない。これを見て欲しい。

こんがりと根元から見上げる先まで幹が焼けてます。
 
もうね。生きてる木の木肌じゃないよ。触ってみた。ツルツルです。樹皮はどうした?って焼けたんですね。
説明板発見:”身代わり”飛木の焼けイチョウ
名前の由来 昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲で、御神木(神霊が宿っているとされる木)は、我が身を焦がし、懸命に炎を食い止め、町の延焼を防ぎました。
御神木は、戦災という大きな悲劇を乗り越え、数年を経て緑の芽を吹き出しました。
このようにたくましく生き延びた縁起のイチョウです。今の世にあって、私たちに生きる勇気と希望を与えてくれています」
最近巨木探訪するようになって、焼けイチョウが結構あちこちにあるのだと知りました。
麻布の樹齢750年超の善福寺(2017年12月16日)の記事  幹回り10、4メートル以上。都内最大の巨樹。
大塚の天祖神社の縁結びの大イチョウ(2017年12月20日)の記事 2本はいずれも高さ30メートル、太さ7メートル 樹齢600年でしたが、昭和20年4月13日の城北大空襲の際、米軍の爆撃で被災。大きく黒こげた跡が残る。

お稲荷さんなので狛犬ではなく狐が守ってます。
あ。説明板がもう一枚。飛木稲荷神社のイチョウ
神社の名前に由来する御神木で、目通り約4、8メートルもあり、樹齢も500〜600年はくだらない墨田区内随一の大木です。戦災で一部が消失し、樹高も15メートルと低いが、近年勢いを盛り返し、樹形も整ってきています。
江戸時代以前、このあたりは利根川(瀬替以前)の川口で、川の運ぶ堆積物により陸地化が進んできたところです。葛西地域の西の海岸線の一部となっており、平安・鎌倉時代あたりから、後の本所・向島の境ともなる古川沿いに自然堤防となっていたと推定されます。
江戸時代この辺は寺島新田と呼ばれ、順次開拓されていく様子もうかがえます。
このいちょうの大木はその自然堤防に育った歴史の証といえます。平成3年」
訪問は2019年2月24日、イチョウは完全落葉しています。なのでここまで丸焼けになったイチョウが、現在どの位葉っぱを茂らせてるのか分かりません。

でも奥の丸焼けの幹はともかく、その後成長したと思われる手前の幹は普通のイチョウと変わらない。
あ。絵馬が面白い。

絵馬にはたっぷりの葉っぱを持つイチョウの姿と、その奥にスカイツリーが描かれてますね。
ということは、合わせて撮影できるかも?

訪問は12時半でして、太陽の位置が悪くスカイツリーとイチョウがシルエットになってしまいました。
撮影のお礼と境内を借りてお昼ご飯を食べさせてくださいとお参りをする。
焼けイチョウのそばでお昼ご飯。熱いお茶とパンをぱくつく。
あ?またまた説明板発見:飛木稲荷神社の縁起
御祭神:字迦之御霊の神。一般に「おいなりさん」と言われ親しまれている神様で、農工・殖産・生活の加護において働きのある神様です。
神木 いちょう
樹齢一千年を超えると言われ、戦火により損傷を受けましたが、現在は元気に繁茂しています。
古老の言い伝えによれば、大昔のある時、暴風雨の際、どこからかいちょうの枝が飛んできて、この地に刺さったとのことです。そしていつの間には亭々とそびえたので、時の人がこえは異状のことであるとして、稲荷神社をお祀りしたのが始めてであると言われております。飛木稲荷の名もこれから起こったものです。
お祀りした時代については、当地は再三の水害・火災等により旧家や円通寺等では、古い書物が失われて詳しいことはわかりませんが、旧幕社寺奉行書によれば応仁2年(1468)とありますが、おそらくそれ以前であると思われます」
あ〜れ〜??樹齢が500〜600年とか一千年とか説明板に大きなばらつきがありますね。最近読んだ巨木の本のどれかに「本当の樹齢は書いてる半分と思え」というのがありました。肝心なのはここ。長生きした巨木が戦火で損傷したけど復活してる。それが事実です。
本殿裏の石の狐塚。え〜、気のせいだとは思うけども、写真撮ったら怒られた気がしたので、すぐに退散した。

狐塚の隣に境内社の日枝神社。お社がおそらく指物。素敵な彫刻つき。
さて、時刻は12時49分、押上駅に戻ります。
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旧新橋停車場

2019年03月02日 06時13分53秒 | レトロ建築
旧新橋停車場は入場無料。月曜休館。開館時間:10:00-17:00です。
東京メトロ新橋駅から浜離宮へ行く時は開館前でした。帰りに通りかかったのは11時15分ごろ。正面玄関が開いていた。

3月3日まで明治150年記念NIPPON 鉄道の夜明け展が、旧新橋停車場内の鉄道歴史展示室で開催されてます。とっても面白かったので、ぜひ画像を紹介したいところですが、展示室は撮影禁止です。私が一番面白かったのは、新橋ー横浜間の線路の地図です。
去年の大河ドラマは西郷隆盛が主人公でした。幕末当時、品川付近は薩摩藩の江戸藩邸がありました。去年放映されたNHKプレミアムの歴史番組「英雄たちの選択 汽笛一声!文明開化を決めた資金調達〜若き大隈・伊藤の挑戦〜」という番組では、外国に借金してまで今急いで鉄道を作る必要がない(西郷)VS鉄道こそ西洋列国の力の源泉。日本が西洋の食い物にされないためには喫緊に鉄道開設が必要だ(大隈・伊藤)という対立を紹介してました。新橋から横浜に向かうには薩摩藩の土地が必要でした。でも西郷が許さない。で、大隈・伊藤の結論は、陸がダメなら海があるじゃない!とばかりに、海の上に鉄道の線路を作りました。手作業の人海戦術で。明治期の土木は大概無茶ですよね。横須賀でも空いた口がふさがらないほどに魂消ました。今東海道線は陸地だから、現代を生きる人にはその頃の鉄道敷設の無茶苦茶具合は推察できませんが、「鉄道の夜明け」展には幕末期の海岸線と海の上を通した新橋から横浜までの線路の大きな地図が展示されてます。よくよく見ると、海上に線路があったのは、現在の高輪あたり。そして海に堤防を築き、その上に線路を作った横浜(現在の桜木町駅辺り)手前の神奈川海岸だけ。海の上を走る蒸気機関車か〜。まるれジブリ映画みたいですね。見物したかったなあ。
他に、開通記念に乗車に臨んだ明治天皇とおつきの人々の浮世絵も展示してて、服装が!束帯と冠と草履を履いて赤絨毯をいま歩こうとしてました。あ〜、お雛様が近くにありましたら、お内裏様の服装ね。西洋人は当時の正装のドレス着用の女性と金モールつきの軍服の男性。その後ろに蒸気機関車とこの新橋停車場が描かれてるのだ。必見です。
ちなみに、歴史資料展示室は2階と地下になってます。地下には開業当時の駅舎基礎石組みの遺構を建物内から見物できます。
いただいてきたパンフレットによりますと旧新橋停車場この建物は1872年(明治5)10月14日(太陽暦)に開業した日本最初の鉄道ターミナル新橋停車場の駅舎を概観を、当時と同じ位置に、できるだけ忠実に再現したものです。
新橋停車場駅舎は、アメリカ人R.P.ブリジェンスの設計による木骨石張りの構造で、1871年(明治4)5月に着工、同年12月に完成し、西洋建築がまだ珍しかった時代の東京で、鉄道開業直後に西洋風に整備された銀座通りに向かって、偉容を誇っていました。
1914年(大正3)に新設の東京駅に旅客ターミナルの機能が移り、それまでの烏森駅が新橋の名を引き継いで現在の新橋駅となり、貨物専用駅となった旧駅は汐留駅と改称。物流の大拠点として戦前前後を通じて東京の経済活動を支えました。
文明開化の象徴として親しまれた旧駅舎は、1923年(大正12)9月1日の関東大震災の火災で焼失し、1934年(昭和9)から始まった汐留駅の改良工事のため、残存していたプラットホームや構内の諸施設も解体しました。
1986年(昭和61)、汐留駅は廃止。跡地の再開発に先立ち埋蔵文化財の発掘調査が1991年(平成3)から行われた結果、旧新橋停車場駅舎とプラットホームなど構内の諸施設の礎石が発掘されました。
1996年(平成8)12月10日、駅舎とプラットホームの一部の遺構が史跡として国の指定を受けました」

プラットホーム側から新橋停車場の建物を撮影。
説明板発見:プラットホーム構造
プラットホームは「盛り土式石積み」という構造で作られています。両側面の真下には、溝状に地面を掘って基礎石を敷き詰め、その上に切石を石垣のように積んで土留め壁が作られ、内側には土が詰められました。基礎石には龍野藩脇坂家。仙台藩伊達家両屋敷の礎石などが使われました。切石は笠石を含めて6段あり、地表には笠石を含めた上3段が出ていました。最下段部分は小口面を揃えて横に並ばせ、2段目から小口面と長手面を交互に並べて積んでいます。ただし、一律的に小口面と長手面が交互になっているわけではなく、2・3段目では小口面が続く個所もあり、4・5段目では長手面が並ぶ個所もあります。
プラットホームの規模
プラットホームの前兆は151、5メートル幅は9、1メートルありました。再現されたのはそのうち駅舎寄りの25メートルです。遺跡指定の範囲に残されているプラットホームの遺構は35メートルです。

説明板発見:再現軌道
創業当寺、枕木やレールの台座(チェアー)は小石や砂の混じった土をかぶせられ、レールの頭だけが地表に出ていました。レール断面は上下対照のI型で、双頭レールといいます。この復元軌道の半分は小石をかぶせて当寺に近い状態を再現し、残りは枕木や台座が見えるようにしました。双頭レールは錬鉄製で、1873年にイギリスのダーリントンで作られ、官設鉄道で使われたあと、新潟県柏崎市の製油所で使われたもので、新日本石油株式会社、新日本石油加工株式会社の両社からご寄贈いただきました。

説明板発見:0哩標識:1870年4月25日(明治3年3月25日)、測量の起点となる第一杭がこの場所に打ち込まれました。1936年(昭和11)年に日本の鉄道発祥の地として0哩(ゼロマイル)標識と約3メートルの軌道を復元しました。1958年(昭和33)10月14日、旧国鉄によって「0哩標識」は鉄道記念物に指定され、1965年(昭和40)年5月12日、「旧新橋横浜間鉄道創設起点跡」として国の指定史跡に認定されました。

パンフレット掲載の再現見取り図。
10分で見学の予定が既に11時40分!急ごう!
東京メトロ銀座線新橋駅乗車。三越前駅で半蔵門線に乗換え、終点の押上駅へ。A3出口のエレベーターで地上へ。時刻は早くも12時23分。実は事前に計画してた東京メトロで巨木散歩はここがスタートのハズでした。

スカイツリーがど〜ん!撮影してる場合ではない!急ぎましょう〜。
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浜離宮は巨木がいっぱい

2019年03月01日 04時37分59秒 | ぶらぶら散歩
浜離宮恩賜庭園へ三百年の松と吉宗ゆかりの5本のトウカエデを見にいき、おまけで菜の花と梅を楽しんで、徳川将軍家の庭園に残る史跡を巡って記事を3つ投稿して、昨日で綺麗にまとまったのに、ふとそういえば浜離宮で大きな木や姿のいい松が多かったなあ〜と思い画像をチェックする。記録的な撮影だから木の大きさが推察出来る画像ではありませんが、一見の価値ある木をいくつか紹介します。
トップ画像は盆栽みたいなアカマツです。

続いては富士見山のそばにあったクスノキ。これまた分枝が素敵です。画像の背景にうっすら見えてるのは汐留川。クスノキって潮風にも強いのか。

潮入の池に枝が垂れてるクロマツを背後から(岸辺から)撮影。横から見ると、浮世絵によく描いてある松。この画像の松は大きめですが、北斎や広重が描くような松が潮入の池と中の橋が分ける横掘の周りには一杯です。絵描きなら一度は見る価値あり。撮影画像が残ってないのが不思議。あ、分かった。たぶん散策路が逆光だったからだ。

これは潮入の池にかかるお伝い橋にあった藤の木。相当に樹齢を重ねてます。くねり具合が絵的です。

クマザサの背後にあってこれ以上近づけなかったけど大きなクスノキです。
この木の根元にも空洞があるなあ〜と近寄ったら、ウロの中に何か挟まってた。これはもしや腐朽菌のサルノコシカケ?や、クマザサの向こうなので遠目に観察するしかないんだけども。除去しないとマズいんじゃ〜?

エノキかな?ケヤキかな?木は内堀の堤に立ってます。サイズが分からない画像ですが、注目したいのは根元です。根っこが踏ん張ってるよね〜。

浜離宮は木の1本1本の間隔が広い。木は十分に成長する空間がある。徳川将軍家の庭で江戸時代は手入れも十分。明治に入ると皇室の離宮になったので、手入れも十分に継続したんじゃないかな〜?分からんけども。戦後すぐに東京都に下賜され整備し、特別なお庭が一般市民にもこうして楽しめる庭となりました。素敵な時代だなあ。
さて、今度こそ浜離宮を離れなくては。時刻は既に11時過ぎ。散策計画の予定時間をオーバーしちゃってます。

あ。旧新橋停車場。忘れてた〜。ダンナがとっても寄りたそう〜。
「じじじじ、十分だけだから〜!!」
負けたわ。
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