現役引退後の1971年4月、国際ボクシングスポーツジムを設立した
高橋会長。
元アマチュアの強打者の小林和男をスカウトし「ロイヤル小林」の
リングネームで1973年2月デビューさせた。
拓殖大学~自衛隊体育学校でアマのトップ選手としてミュンヘン
五輪出場、ベスト8の成績を残し、アマ通算34勝 (28KO/RSC) 3敗、
KO率8割というプロ向きの小林。
プロデビュー後もKOの山を築き「KO仕掛人」の異名を持ったハード
パンチャーに育ち、世界ジュニア・フェザー級王座も戴冠した。
ただし、高橋会長はジュニア・フェザー級として防衛を果たせな
かった事を「申し訳なく思う」と後に語っておりました。
「短命で終わる素材じゃなかった。自分が会長として力が足りな
かった」…と。
たしかにリゴベルト・リアスコを倒したあと短期間で敵地防衛。
完全アウェーの韓国で判定を失ったのは痛恨の極みだったろう。
※交渉能力あるベテラン・マネージャーなら何とか日本開催に
持っていったケースだ。
WBC世界ジュニア・フェザー級王座を失った小林だったが、その後
ウィフレド・ゴメスやエウセビオ・ペドロサら名王者に国内挑戦。
名王者の勇姿を日本で見せてくれた。
※そもそも初挑戦がフェザー級王者時代のアレクシス・アルゲリョ!
高橋会長からすると、やはり相手がどうあれ勝たせるのが第一かも
知れなかったが。
ゴメスのセコンドがバンデージチェックで何度も巻き直しさせる
「嫌がらせ」を仕掛けてきたなんてエピソードを聞くと、それほど
中南米の曲者トレーナーが小林の強打を恐れていたのか…と、寧ろ
誇らしい気持ちになってきます。
そして、個人的に最も印象深いのはWBCフライ級王者レパード玉熊。
元インハイ王者で高橋会長からすると高校及び大学の後輩でもある
玉熊幸人は新人王こそ獲得したが必ずしも順風満帆なキャリアでは
なかった。
アウトボクサー体型なれど、ややスピード感に欠け、速い相手に
苦杯をなめる事もあった。
その玉熊をショート連打主体の独創的な選手に育て上げた手腕は、
大いに称えられるべきだ。
特に日本は既成概念に縛られたスタイルに嵌め込もうとする傾向に
あるが、高橋会長の育成は素晴らしかったとしか言いようがない。
思えば、国際ジムの選手は個性尊重で育てられてる印象がある。
そしてランカーには片仮名リングネーム。
ファイアー金田、ボンバー内田、ホープキラーのジャッカル丸山、
クラッシャー三浦、ランサー中村、トラッシュ中沼、キンジ天野、
プロスパー松浦などなど。
一見して才能の輝きが感じられなかったセレス小林も、日本王者と
してホープを迎え撃つ大勝負に打ち勝って世界に羽ばたいた。
国際ジムの選手の対談のようなものが専門誌にあったが、その中で
「会長はときに突き放す」みたいな話が出た覚えがある。
敢えて試練を与えられる。
玉熊も日本王者時代に敵地大阪で地元選手(徳島尚)の挑戦を受けた
事があった。
それぐらいの状況で勝ってみせろ…って事だったのでしょう。
忘れられないのが玉熊の防衛戦でドローがコールされた時に大きく
ガッツポーズを作られた事。
「やった!防衛だ!」
ロイヤルに味あわせてやることが出来なかった防衛。
それを果たせた。それが何より嬉しかった。
ファンの目で見てもお気持ちが分かりましたよ。
「アマプロ通じて戦わざるライバル」川上林成会長との遣り取りも
印象深いです。思い出すのはクラッシャー三浦vs田中小兵太戦。
「買った方がファイトマネーの取り分を増やす」分配契約も、話題と
なった。
試合直前、レフェリーの注意を聞く時、川上会長は「分かってるな」
~とばかりに「書類」を振りかざす。
「鬱陶しいな!」とばかりに振り払おうとする高橋会長。
「演技じゃないな、本気で確執あるな」と思わせるシーンでした。
*試合前の盛り上げとも言えたが、成功してましたよ。
昨日のことのように思い出されます。
ただし、死亡記事に載っていた近年のお姿は白髪で痩せられてて
昔の姿とは変わっていらっしゃいました。
寂しいです。
改めて高橋美徳会長のご冥福をお祈り申し上げます。
高橋会長。
元アマチュアの強打者の小林和男をスカウトし「ロイヤル小林」の
リングネームで1973年2月デビューさせた。
拓殖大学~自衛隊体育学校でアマのトップ選手としてミュンヘン
五輪出場、ベスト8の成績を残し、アマ通算34勝 (28KO/RSC) 3敗、
KO率8割というプロ向きの小林。
プロデビュー後もKOの山を築き「KO仕掛人」の異名を持ったハード
パンチャーに育ち、世界ジュニア・フェザー級王座も戴冠した。
ただし、高橋会長はジュニア・フェザー級として防衛を果たせな
かった事を「申し訳なく思う」と後に語っておりました。
「短命で終わる素材じゃなかった。自分が会長として力が足りな
かった」…と。
たしかにリゴベルト・リアスコを倒したあと短期間で敵地防衛。
完全アウェーの韓国で判定を失ったのは痛恨の極みだったろう。
※交渉能力あるベテラン・マネージャーなら何とか日本開催に
持っていったケースだ。
WBC世界ジュニア・フェザー級王座を失った小林だったが、その後
ウィフレド・ゴメスやエウセビオ・ペドロサら名王者に国内挑戦。
名王者の勇姿を日本で見せてくれた。
※そもそも初挑戦がフェザー級王者時代のアレクシス・アルゲリョ!
高橋会長からすると、やはり相手がどうあれ勝たせるのが第一かも
知れなかったが。
ゴメスのセコンドがバンデージチェックで何度も巻き直しさせる
「嫌がらせ」を仕掛けてきたなんてエピソードを聞くと、それほど
中南米の曲者トレーナーが小林の強打を恐れていたのか…と、寧ろ
誇らしい気持ちになってきます。
そして、個人的に最も印象深いのはWBCフライ級王者レパード玉熊。
元インハイ王者で高橋会長からすると高校及び大学の後輩でもある
玉熊幸人は新人王こそ獲得したが必ずしも順風満帆なキャリアでは
なかった。
アウトボクサー体型なれど、ややスピード感に欠け、速い相手に
苦杯をなめる事もあった。
その玉熊をショート連打主体の独創的な選手に育て上げた手腕は、
大いに称えられるべきだ。
特に日本は既成概念に縛られたスタイルに嵌め込もうとする傾向に
あるが、高橋会長の育成は素晴らしかったとしか言いようがない。
思えば、国際ジムの選手は個性尊重で育てられてる印象がある。
そしてランカーには片仮名リングネーム。
ファイアー金田、ボンバー内田、ホープキラーのジャッカル丸山、
クラッシャー三浦、ランサー中村、トラッシュ中沼、キンジ天野、
プロスパー松浦などなど。
一見して才能の輝きが感じられなかったセレス小林も、日本王者と
してホープを迎え撃つ大勝負に打ち勝って世界に羽ばたいた。
国際ジムの選手の対談のようなものが専門誌にあったが、その中で
「会長はときに突き放す」みたいな話が出た覚えがある。
敢えて試練を与えられる。
玉熊も日本王者時代に敵地大阪で地元選手(徳島尚)の挑戦を受けた
事があった。
それぐらいの状況で勝ってみせろ…って事だったのでしょう。
忘れられないのが玉熊の防衛戦でドローがコールされた時に大きく
ガッツポーズを作られた事。
「やった!防衛だ!」
ロイヤルに味あわせてやることが出来なかった防衛。
それを果たせた。それが何より嬉しかった。
ファンの目で見てもお気持ちが分かりましたよ。
「アマプロ通じて戦わざるライバル」川上林成会長との遣り取りも
印象深いです。思い出すのはクラッシャー三浦vs田中小兵太戦。
「買った方がファイトマネーの取り分を増やす」分配契約も、話題と
なった。
試合直前、レフェリーの注意を聞く時、川上会長は「分かってるな」
~とばかりに「書類」を振りかざす。
「鬱陶しいな!」とばかりに振り払おうとする高橋会長。
「演技じゃないな、本気で確執あるな」と思わせるシーンでした。
*試合前の盛り上げとも言えたが、成功してましたよ。
昨日のことのように思い出されます。
ただし、死亡記事に載っていた近年のお姿は白髪で痩せられてて
昔の姿とは変わっていらっしゃいました。
寂しいです。
改めて高橋美徳会長のご冥福をお祈り申し上げます。