東日本大震災から2年、震災の日も
陸前高田市を訪れた日も忘れることはないでしょう。
高田松原を見ておきたいと思いましたが、
目の前にあるのに歩いて行くことができませんでした。
「道の駅 高田松原」は、
岩手県陸前高田市の国道45号上にありましたが、
大津波によって甚大な被害を被り、今も休館中です。
隣りの「高田松原物産館」では、
野菜や海産物が販売されていました。
陸前高田市で毎年8月に開催されている
「気仙町けんか七夕」に使用される山車が展示されていました。
900年前から行われていた「気仙町けんか七夕」
津波での流出により11台もの山車が流され、
残された山車が1台のため、けんかはできませんが、
<伝統を途絶えさせない>という熱意と
<亡くなった人達への供養>のために
けんか七夕まつりが開催されています。
岩手県から宮城県にかけての南三陸は、入り組んだリアス式海岸。
変化に富んだ風景、港に揚がる魚介などの
旅の楽しみが点々と連なっているところです。
2009年は、新型インフルエンザの世界的流行で、
社員も家族も海外渡航自粛となり、夏休みをマイカーで、
東北の秘湯、下北半島から海岸沿いをドライブすることにしました。
途中で、耳の帯状疱疹による顔面麻痺が始まり、
耳の痛み、耳鳴り、めまい、熱もあり歩くのも困難になり、
予定を変更し、ゆっくりと海岸沿いに南下しました。
食欲はなかったのですが、
薬をのむために少しでも食べておこうと
こちらでご飯茶碗1膳ぶんほどのネギトロ丼をオーダー。
フラフラ状態であったにもかかわらず、
記念のスタンプを薄いのですが押していました。
もう限界と感じて、海岸沿いを走るのを諦め、
東北道を走り帰宅、ずっと眠り続けていたまるみでした。
その後、大学病院を受診し、即入院となりました。
南三陸の旅はまた行けばいいとその時は思っていましたが、
もう2度とあの高田松原は見ることができないのでしょう。
奇跡的に残った1本松が復興のシンボルになりました。
そして、1億5千万円をかけて元の場所に植えることに。
今なお31万5千人もの方が避難生活を送っていらっしゃるので、
複雑な思いもしますが、希望を託して前へ進んで行きましょう。
岩手県陸前高田市高田町古川
訪問日 2009.8.29
陸前高田市を訪れた日も忘れることはないでしょう。
高田松原を見ておきたいと思いましたが、
目の前にあるのに歩いて行くことができませんでした。
「道の駅 高田松原」は、
岩手県陸前高田市の国道45号上にありましたが、
大津波によって甚大な被害を被り、今も休館中です。
隣りの「高田松原物産館」では、
野菜や海産物が販売されていました。
陸前高田市で毎年8月に開催されている
「気仙町けんか七夕」に使用される山車が展示されていました。
900年前から行われていた「気仙町けんか七夕」
津波での流出により11台もの山車が流され、
残された山車が1台のため、けんかはできませんが、
<伝統を途絶えさせない>という熱意と
<亡くなった人達への供養>のために
けんか七夕まつりが開催されています。
岩手県から宮城県にかけての南三陸は、入り組んだリアス式海岸。
変化に富んだ風景、港に揚がる魚介などの
旅の楽しみが点々と連なっているところです。
2009年は、新型インフルエンザの世界的流行で、
社員も家族も海外渡航自粛となり、夏休みをマイカーで、
東北の秘湯、下北半島から海岸沿いをドライブすることにしました。
途中で、耳の帯状疱疹による顔面麻痺が始まり、
耳の痛み、耳鳴り、めまい、熱もあり歩くのも困難になり、
予定を変更し、ゆっくりと海岸沿いに南下しました。
食欲はなかったのですが、
薬をのむために少しでも食べておこうと
こちらでご飯茶碗1膳ぶんほどのネギトロ丼をオーダー。
フラフラ状態であったにもかかわらず、
記念のスタンプを薄いのですが押していました。
もう限界と感じて、海岸沿いを走るのを諦め、
東北道を走り帰宅、ずっと眠り続けていたまるみでした。
その後、大学病院を受診し、即入院となりました。
南三陸の旅はまた行けばいいとその時は思っていましたが、
もう2度とあの高田松原は見ることができないのでしょう。
奇跡的に残った1本松が復興のシンボルになりました。
そして、1億5千万円をかけて元の場所に植えることに。
今なお31万5千人もの方が避難生活を送っていらっしゃるので、
複雑な思いもしますが、希望を託して前へ進んで行きましょう。
岩手県陸前高田市高田町古川
訪問日 2009.8.29