履 歴 稿 紫 影子
香川県編
東練兵場と野戦病院
丸亀の歩兵第12連隊には、東西に別れた二つの練兵場があって、私達の近くに在ったのを東練兵場と言って居た。
私達が丸亀へ引越して来た年が、丁度日露戦争が終わった翌年のことであったので、この東練兵場には、未だ野戦病院が残って居て、数多くの傷病兵が療養をして居た。
丸亀の新居へ移ってからの私は、幼年期の誰もがそうであろうと思うのだが、日毎日毎にその日が暮れて、やがて洋燈の灯る頃ともなれば「加茂の家へ帰ろう、加茂の家へ帰ろう。」と、泣いては父母を困らせたそうであったが、父母はそうした私を何とかして宥めようと、鳩首をして思案をした末に、オルゴールつきの目覚時計を買って、それを鳴らして私を寝つかせようと言うことに意見が一致したので、早速実施をして見たのだが、その効果は全然無かったそうであった。
丸亀へ移ってからの生活状態は、先祖伝来の財産を余儀無く整理した残りの現金を、銀行預金にしたその利息と、市役所へ奉職をした父の俸給が主たるものであったが、その外に、我が家へ嫁ぐ時の母が、その当時のしきたりで2反歩の水田を実家から分譲されて居たので、その2反歩の年貢米もあったから、ささやかながら比較的安易な生活であったそうである。
私の郷愁にほとほと手を焼いた父が、役所が退けて帰宅すると郷愁にわめく私を背負って毎日のように練兵場を逍遥するようになったことが、私の記憶には残って居る。
当時の父が意図したのは、郷愁にわめく私を宥めることを兼ねて傷病兵を慰問しようと言う一石二鳥の効果を狙ったものらしかったが、いずれの窓へ行っても白衣の傷病兵が集まって来て、私をとても可愛がってくれた。
私が父の背に寝つく頃になると、四辺はもうすっかり黄昏れて、外灯の無い暗い家路へ、とぼとぼと疲れた足を運ぶのが、当時の父の毎日であったそうである。
そうした私達親子と傷病兵は、すっかり馴染になって、何処の窓へ行っても、「坊や、明日もまた来ておくれよ。」と言って、私達の行くのを待っていてくれる程の仲好になってしまった。
その日が何日であったかと言うことは、私の記憶に無いのだが、もう野戦病院の必要が無くなったものか練兵場から取り除かれて、その趾には只一面の草原だけが残された。
野戦病院が、練兵場から姿を消した後も、父と私の練兵場逍遥は暫の間続いたのだが、白衣の傷病兵と逢えなくなったのが幼い私にはとても淋しかった。
私の郷愁は決して薄らいでは居なかったのだが、傷病兵と逢えなくなった練兵場へは、いつとはなしに行くことを嫌うようになって、目覚時計のオルゴールで寝つくようになった。
撮影機材
Konica HEXAR