‘06/10/18の朝刊記事から
日ソ共同宣言
「帰属」先送りし国交回復
1956年10月19日に当時の鳩山一朗首相と旧ソ連のブルガーニン首相が調印し、両国の立法府で批准された法的拘束力のある条約。
同宣言によって日ソは戦争状態を終了させ国交を再開した。
平和条約の交渉を継続し、旧ソ連は平和条約締結後に歯舞、色丹両島を日本に引き渡すことを定めている。
第二次大戦後、米ソ間の冷戦が始まり、旧ソ連は米国が主導した51年のサンフランシスコ平和条約への調印を拒否。
日本は旧ソ連との間で個別に平和条約交渉を進めた。
55-56年の日ソ交渉で日本は当初、歯舞、色丹の2島返還を優先する方針で臨んだとされる。
日本はサンフランシスコ平和条約で「千島列島」の領有権を放棄。
51年の国会答弁では外務省の西村熊雄条約局長が国後、択捉両島がその千島列島を構成する「南千島」とする見解を表明した。
旧ソ連側は2島返還に前向きで、交渉は順調だったが、日ソ接近への米国の警戒などから日本側は4島返還論に転換。
択捉、国後両島の帰属は合意できず、平和条約交渉が先送りされて同宣言が締結された。
旧ソ連は60年の日米新安全保障条約締結に反発し、歯舞、色丹両島の引き渡しについても、日本からの全外国軍隊の撤退と言う条件を課し、それ以降、「領土問題は解決済み」との姿勢を続けた。
ただ冷戦終結でロシアは領土問題の存在を認め、93年には4島名を明記し、この4島の帰属が領土問題であることを確認した「東京宣言」が日ロ間で調印された。
98年4月には静岡県・川奈での日ロ首脳会談で、橋本龍太郎首相がエリツィン大統領に対し、北方領土の北側で国境を画定し、実際の施政権返還は別途協議とした「川奈提案」を行ったが、ロシア側は結局受け入れなかった。
プーチン大統領は2000年9月に「日ソ共同宣言は有効」と表明。
日ロ両国は01年3月のイルクーツク声明で、同宣言が、両国間の平和条約締結交渉の出発点となった基本的な法的文書であることを確認した。
北方領土が返還されないわけが
なんとなく分かりそうだ。
沖縄返還があり、その時の密約云々が取りざたされているが、
北方領土に関してもなにか米国の注文があったのかもしれんぞ…
日ソ共同宣言
「帰属」先送りし国交回復
1956年10月19日に当時の鳩山一朗首相と旧ソ連のブルガーニン首相が調印し、両国の立法府で批准された法的拘束力のある条約。
同宣言によって日ソは戦争状態を終了させ国交を再開した。
平和条約の交渉を継続し、旧ソ連は平和条約締結後に歯舞、色丹両島を日本に引き渡すことを定めている。
第二次大戦後、米ソ間の冷戦が始まり、旧ソ連は米国が主導した51年のサンフランシスコ平和条約への調印を拒否。
日本は旧ソ連との間で個別に平和条約交渉を進めた。
55-56年の日ソ交渉で日本は当初、歯舞、色丹の2島返還を優先する方針で臨んだとされる。
日本はサンフランシスコ平和条約で「千島列島」の領有権を放棄。
51年の国会答弁では外務省の西村熊雄条約局長が国後、択捉両島がその千島列島を構成する「南千島」とする見解を表明した。
旧ソ連側は2島返還に前向きで、交渉は順調だったが、日ソ接近への米国の警戒などから日本側は4島返還論に転換。
択捉、国後両島の帰属は合意できず、平和条約交渉が先送りされて同宣言が締結された。
旧ソ連は60年の日米新安全保障条約締結に反発し、歯舞、色丹両島の引き渡しについても、日本からの全外国軍隊の撤退と言う条件を課し、それ以降、「領土問題は解決済み」との姿勢を続けた。
ただ冷戦終結でロシアは領土問題の存在を認め、93年には4島名を明記し、この4島の帰属が領土問題であることを確認した「東京宣言」が日ロ間で調印された。
98年4月には静岡県・川奈での日ロ首脳会談で、橋本龍太郎首相がエリツィン大統領に対し、北方領土の北側で国境を画定し、実際の施政権返還は別途協議とした「川奈提案」を行ったが、ロシア側は結局受け入れなかった。
プーチン大統領は2000年9月に「日ソ共同宣言は有効」と表明。
日ロ両国は01年3月のイルクーツク声明で、同宣言が、両国間の平和条約締結交渉の出発点となった基本的な法的文書であることを確認した。
北方領土が返還されないわけが
なんとなく分かりそうだ。
沖縄返還があり、その時の密約云々が取りざたされているが、
北方領土に関してもなにか米国の注文があったのかもしれんぞ…