週刊誌に朝ドラの柳原白蓮と安倍総理夫人の安倍昭恵さんが共通しているものとして、書かれていた。
私はその週刊誌を買っていないので、書かれていたニュースのサイトを読んだ。
http://www.j-cast.com/tv/2014/07/25211483.html?p=all
よくもここまででっち上げをと、これが文化とでもいうのか?
別の週刊誌では、「柳原白蓮の生き方に共鳴して、不倫を成就するのが増えている」とか。
まるでファッションのように書いているが、朝ドラを見て「柳原白蓮のように生きてみよう」なんて、自分のかけがえのない人生を
それで判断する人はごく稀だろう。
人それぞれ違うだろうし、背景もいろいろと思うが。
歌人、柳原白蓮の歌は情熱的で言葉は美しく感受性が鋭い、そしてご本人も大変な美人であっただけに、格好のニュースであったと
いわれる。
吾は知る強き百千(ももち)の恋ゆゑに百千の敵は嬉しきものと
君故に死も怖るまじかくいふは魔性の人か神の言葉か (白蓮の歌)
しかし、それを安倍総理夫人と並べて面白おかしく書くのは低劣である。
マスコミはもっと他に書くことがないのかしら。
芸術家の生涯は作品そのものではないと思う。
作品にするときには白蓮も冷静に書いているはず、作品を客観的に見て完成させていると思うし、本当の気持ちなど誰にもわからない。
芸術は作家の手を離れて、天に舞い上がるのであり、イメージもそれなりに強烈にもなる。
世の中の女性はそれほどバカではない。
週刊誌はいいかげんにしてほしい。
私はこの朝ドラを最初から見ているが、それはモンゴメリーの「赤毛のアン」が大好きで、子供時代はわくわくして読んだものだった。
カナダの美しい風景や、アンが育ての親であるマリラやマシュウに感謝しながら成長する様子や、友人たちとの会話、そして何よりも
アンが作るケーキ、さわぎのもととなったイチゴ水ならぬ自家製ワイン、などであった。
これを読書感想文に書いたら入賞した。(小学校4年の時)
忘れがたい名作だけに、訳者の村岡花子氏にも興味があった。
今も新鮮なアンの名セリフ
「自分の未来はまっすぐにのびた道のように見えたのよ。いつもさきまで,ずっと見通せる気がしたの。ところが今,曲がり角に来たのよ。曲がり角を曲がったさきになにがあるのかは,わからないの。でも,きっといちばんよいものにちがいないと思うの。それにはまた,それのすてきによいところがあると思うわ。その道がどんなふうにのびているかわからないけれど,どんな光と影があるのか--どんな景色が広がっているのか、どんな新しい美しさや曲がり角や,丘や谷が,そのさきにあるのか,それはわからないの」
でも、この朝ドラ、花子の故郷である山梨の農民たちの顔を泥で汚れたメークをし、つぎはぎだらけのボロボロの着物、そして今にも
壊れそうな粗末な家、これに戸惑った。
NHKはこれに何か特別な意図でもあるのか、と思った。
日本の農民はこんなに汚くはない、ネットでそんな声があがって、「やはり」と思った。
それは週刊誌は書かない。
・・・「花子とアン」女学校のころを描いた場面