ベッラのブログ   soprano lirico spinto Bella Cantabile  ♪ ♫

時事問題を中心にブログを書く日々です。
イタリアオペラのソプラノで趣味は読書(歴女のハシクレ)です。日本が大好き。

淑女のお誕生日。

2015年11月30日 | 芸術

★ 私の大切な友人のさらりんさまのお誕生日、心からお祝いを申し上げます。
麗しき淑女にふさわしい音楽を選びました。
私はどれほどさらりんさまに多くのことを教えて頂いたかわかりません。

音楽、みなさまもどうぞお楽しみください。



マーゴット・フォンテーン、名花の中の名花、1950年代から活躍していた最高のプリマバレリーナです。
バレエの技術を見せつけるのではなくて、まるで名優のようなあでやかさと気品、曲はチャイコフスキーの『眠れる森の美女』から「薔薇のアダージョ」

  Margot Fonteyn Rose Adagio







そして、ドイツ語でしか歌わない(イタリアのナポレターナでもドイツ語で歌っている。もちろんイタリアオペラの名曲もドイツ語。それはフリッツ・ヴンダーリヒ。でもなぜかこの曲だけは英語で歌っています。
このyoutubeのコメントにも「英語!」って書き込みがありました。
曲は「ビーマイラヴ」

Fritz Wunderlich - Be my love (1965)




11月は秋と冬の境目にあり、紅葉も美しい季節です。本日は11月30日。明日から12月です。
まもなくクリスマスの雰囲気になりますが、この日は秋の美しさを存分に味わいながら、秋の味覚も堪能したいものですね。キノコ、柿(塩分を取りすぎた時は、柿を食べるといいそうです。)、洋梨、もちろん日本の梨も美味しい。

チャイコフスキーは『四季』の中で「11月」という曲を書きました。

TCHAIKOWSKY "THE SEASONS" "NOVEMBER"



コメント (8)
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フルトヴェングラー 指揮 ベートーヴェン第九交響曲~《合唱》 1942

2015年03月01日 | 芸術

★ 昨日はゲーテの詩によるモーツァルト作曲、歌曲「すみれ」でしたが、今日はゲーテの盟友でありライヴァルでもあったシラーの詩、ベートーヴェン「第九」の合唱です。

この演奏は第二次世界大戦頃の録音、フルトヴェングラーの境地やいかに。
いいわけもせず、国外に逃げることもなしに、戦後も一切言い訳をせず純粋に祖国「ドイツ」の音楽を愛した。
また、ユダヤ系の楽団員をそっと海外に逃がしたりしながら、ナチス政権の時も、「ドイツ音楽」のために祖国を動かず、その演奏はお聴きのように壮絶なものです。

動画のコメント欄にこんな文があり、読んで感動しました。

これほど緊張感のある、入り方をする第九を、聞いたことがない。戦争の世紀と言われた20世紀の、まさに真っ只中にあった この時、私は戦争の苦悩 人類の受けた苦しみを、不屈の精神で乗り越え 歓喜にいたろうではないか!という 偉大な指揮者のメッセージと、とらえたい。

ところで「歓喜」とありますが、シラーは「歓喜」ではなく、フライハイト、「自由」と書いていたのです。
ベートーヴェンが「歓喜」としたのは、検閲の問題と、自分自身が音楽家として致命的といえる
「難聴」のこと、初演の時、ベートーヴェンは聴衆の拍手が聴こえず、たまりかねた歌手が彼を聴衆の方に向かせると、感激した人々の様子を「眼」で見た、という悲劇。

それをロマンロランは「キリストさえ、十字架にかけられるときは嘆いた。なのに我々凡人が
嘆く日常をなぜ責められようか」と書いています。

こんな強烈な演奏空前絶後、音楽の魂、完全燃焼、です。
まさにDurch Leiden zu Freude 、苦悩を通って歓喜へ、でしょうか。
ロマンロランは「この作曲家の勝利がどんな勝利に勝ろうか、ナポレオンの勝利よりも」と言っています。

「不幸な貧しい病身な孤独な一人の人間、まるで悩みそのもののような人間、世の中から歓喜を拒まれたその人間が自ら歓喜を造り出す」この言葉はロマンロランがベートーヴェンのことを書いたものですが、私は同時にフルトヴェングラーが一切、言い訳をしない、音楽でのみ表現した「至高の指揮者」だったことを思います。

フルトヴェングラー 《歓喜の歌》 1942


★ 戦後まもなくフルトヴェングラーは音楽界から冷たい対応を受けましたが、親しく救いの手をさしのべたのは、ライヴァルの
トスカニーニでした。そして戦後すぐの公演は、なんと同じ敗戦国のイタリア、ミラノスカラでワーグナー。
最近、その時のRAI(イタリアの放送局)のインタビューを聴いたのですが、なんと明るくユーモアいっぱいの方で、丁寧でドイツなまりのイタリア語をゆっくり話しながら答えていました。思い描いていた古風で謹直なイメージとは全く違って明朗な感じがしました。

★ 他にヴェルディのオペラ『ドン・カルロ』もシラーの劇がもとになっていますが、真実をもとめ、その時代の理想や、やむにやまれぬ政治上の権力争い、スペイン皇帝をも超えるローマカトリックの権威、そして新教封じ込め、などなど、壮大な史劇です。

このブログにも何度かご紹介しましたが、また次の機会にもその名場面について書いてみたいと思います。


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ゲーテとシラーの「復習」をツイートでするなんて、思いもしなかった。

2015年02月28日 | 芸術

★ 高校時代は声楽やピアノのレッスン、そして読書をした。わけがわからない内容だったけれど、夢中だった。
  そしてそれから長い日々が過ぎ、毎日の多忙さのなかでふと政治に目がいったのは「尖閣」の事件からだった。
  ここで立ち止まって青春時代?にかえったようにゲーテとシラーを。なんとツイッターで「名言」を発見!!
  必死で読んだ高校時代より、今になってわかるような気がする名文を掲げてみた。


シラー

・@Schiller_v_F 崇高を伴わなければ、美はわれわれの品位をわれわれに忘れさせるであろう。
不断の享楽による弛緩のために、われわれは性格の頑健さを失うであろうし、生存のかりそめの形式に解きがたくむすばれながら、われわれの普遍の使命とわれわれのまことの祖国を見失うであろう。「崇高について」

・@Schiller_v_F 人間はつねにつねによりよい未来を語る 夢にもつ
金色の目的にむかってひたすらに突進する。
世界は老衰と更新をくりかえすが
人間はひとすじに向上の希望を抱いて精進する。「希望」

・ @Schiller_v_F
けれど目立たぬほまれにこころ足りて女性たちは現在の花を摘み
やさしくまめやかにそれを育てる。
いそしみの範囲はせまくとも自由にみち知識と詩歌の限りない世界では
男子よりも富んでいる。「女性の気高さ」

・@F_V_Schiller_jp
勿論私たちは、力に満ちた天才が自分の職業の限界を、自分の活動の限界にしていないことを知っています。
しかし中位の才能は、自分の受持である職業の中で、その乏しい力の全量を消耗してしまうのです。
自分の職分を損ねずに趣味のために何かを余らせておくには、平凡な頭では駄目です。-美的書簡-

・@F_V_Schiller_jp
流派を立てるくらいなら、いっそのこと他の間違いをしでかしたほうがよく、権威や他人の力に縋って身を真っ直ぐに立てているくらいなら、いっそのこと自分の力の弱さで倒れるほうがましです。-美的書簡-

・ @F_V_Schiller_jp
我々を取り囲む危険についての無知ではなく、――なぜなら、この危険は所詮止まざるをえないのだから――危険を知ることにのみ、我々にとっての救いがある。-崇高について-

・@F_V_Schiller_jp
私たちは、社会を持続させるためには、社会を自立させてくれる一本の支柱を、解消しようとする自然国家の中から探し出さなければなりません。
この支柱は、利己的で暴力的で、社会の維持よりも破壊を目指しているような人間の、自然的性格の中にも道徳的性格の中にも見出されません。-美的書簡-

・@F_V_Schiller_jp
国家はまさにそれ自身によって、またそれ自身のために、形成されている一つの組織でなければなりません。それ故にこそ国家は、部分が全体のイデーにまで高められている限り、実在しうるのです。-美的書簡-

★ ゲーテは多くのドイツリート(ドイツ芸術歌曲)の歌詞にもあります。一方シラーはベートーヴェン「第9交響曲」~≪歓喜≫やヴェルディのオペラ『ドン・カルロ』のもとになっています。

ではゲーテを。


・@J_W_Goethe_jp
才人は才知を失うことは決してなく、特に不正を甘受している場合にそうである。
その為孜々として努力する新人たちの心の中に憎悪と怨念が湧くのが屡々見られる。
そうすると激しい口論となってくるが、横領者たちはそれを自分たちの都合がいいように自分たちの派閥を堅固にするのに利用してしまう。

・@J_W_Goethe_jp
人間は世界を知る限りにおいてのみ自己自身を知り、世界を自己の中でのみ、また自己を世界の中でのみ認識する。
いかなる新しい対象も、深く観照されるならば、我々の内部に新しい器官を開示するのである。-適切な一語による著しい促進-

・@J_W_Goethe_jp
我々が[・・・]色々な対象を相互に結合すればするほど、我々の内部の観察能力はそれだけ多く訓練される。
これらの認識を実際の行動において我々自身と関係づけることができるならば、我々は賢明であると呼ばれるに値する。-客観と主観の仲介者としての実験-

・@J_W_Goethe_jp
芸術はまことの媒介者である。
芸術について語ることは、媒介者を媒介しようとすることであり、しかもそこから私たちに多くの貴重なものが生じてきた。-箴言と省察-

・@J_W_Goethe_jp
横領によって得られた名声は、しまいに大衆のもとで嫌疑をかけられることが間々あり、実際に事が明るみに出ると、彼らはこのような横領された名声を叱責する。
しかし本来、彼らは自分自身を叱責すべきである。
なぜなら、その名声を与えたのは彼ら自身にほかならないからだ。-地質学論集気象篇-

★ そうだ、そうだ、などと今更ながらわかるような気がする。ヒヨコの10代にわけもわからず背伸びして読んだことの「復習」のつもりが「はじめて読んだ」ような新鮮さ。


・・・ゲーテとシラーが語り合った「石のテーブル」(イエーナにて)


ゲーテは大天才、シラーは人生経験からの努力の人ときいたが、良きライヴァル。(「唐」の時代の李白と杜甫を思う。)
凡人の私は、美味しい紅茶でも淹れて、ささやかな自分の時間を楽しもう。


 
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イースター(復活祭)の音楽を。

2014年04月21日 | 芸術

靖国神社では春の例大祭、英霊にお供えし、魂をなぐさめます。

そしてキリスト教では「復活祭」、イースターって日本ではクリスチャン以外はあまり実感できないのですが、
キリスト教ではクリスマスと並んで重要な日にあたります。

seesaa1824さまのアメリカのご友人からイースターをお祝いする音楽のおたよりが届き、私のブログにどうぞと仰るのですが、
リンクを貼っても、個人的なカードのリンクなので、コピーができませんでした。

そのかたは大切なご家族を亡くされ、送ってこられた音楽からは真摯な祈りが伝わりseesaa1824さまは大変な感動をされたそうです。。

seesaa1824さま、ありがとうございました。




それでは私から、この曲を。

イエス・キリストがよみがえられた日、マスカーニのオペラ『カヴァレリア・ルスティカーナ』でこの復活祭の場面が歌われます。
オペラでは失恋の悲しみをかくして神に祈るヒロイン、イタリア・オペラの名場面です。

この曲は作家の百田尚樹さんが「永遠のゼロ」のヒーロー、宮部久蔵が零戦で出撃の最期の章、このオペラを聴きながらお書きになったそうです。間奏曲だったということですが、この場面は「復活の日」・・・。
泣けてしかたがなかったと・・・「何度も何度も書き直し、そのたびに泣いた」(百田尚樹氏)  

マスカーニ作曲 オペラ『カヴァレリア・ルスティカーナ』~主はよみがえれり


・・・ソプラノはアプリーレ・ミッロ(ローマのカラカラ古代野外劇場より)

★ やはりマリア・カラス、圧巻、心が震えます。





私が20代のころ、帽子屋さんが「イースターから春の帽子に変わるんですよ」って教えてくれました。
ヨーロッパはそうなのか、って感心しました。「帽子も一斉に衣替えなのかな」

この頃、昼間は暖かいのですが、朝夕がやはり寒いですね。



★ もうひとつ、ロシアの名歌手、オブラスツオーヴァが歌った同じ曲をお聴きください。





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作家、百田尚樹氏 「永遠の0」とクラシック音楽を語る 

2014年03月24日 | 芸術
 
【百田尚樹】 『永遠の0(ゼロ)』とクラシック音楽を語る


軽妙な会話が楽しめます。
しかし、百田さんの音楽の知識は広く深い。
小説を書きながら聴いたクラシック音楽を紹介。





1、モーツアルト『魔笛』夜の女王のアリア
 
2、ラヴェル『夜のガスパール』

3、ワーグナー『ワルキューレ』

4、マスカーニ『カヴァレリア・ルスティカーナ』間奏曲





次の曲はヘンデル作曲のオペラから「木陰よ」Ombra mai fu
ルチア・ポップの名唱でどうぞ。

Lucia Popp - Ombra mai fu




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