韓国の合同参謀本部の見解・・・北朝鮮国内はどうなる???
北の失敗した弾道ミサイル1発が「平壌」近隣に落下?=韓国
北朝鮮が1日、弾道ミサイル2発を10分間隔で発射した中、2発目のミサイルがピョンヤン(平壌)近隣など北朝鮮の内陸に落下した可能性が取りざたされている。
韓国の合同参謀本部はこの日「わが軍は、ファンヘナムド(黄海南道)チャンヨン(長淵)一帯から午前5時5分ごろと5時15分ごろ、北東に向けて発射されたミサイル2発をそれぞれ捉えた」と明らかにした。
北朝鮮による今回のミサイルは、“北朝鮮版イスカンダル”と呼ばれる「火星11型KN-23」と推定されている。
合同参謀本部の公報室長は、この日の定例会見で「2回目に発射された北朝鮮のミサイルは、初期の段階で非正常にに飛行した可能性がある」とし「非正常飛行の過程で爆発したのなら、その残骸が内陸に落下した可能性もある」と伝えた。
一部では「北朝鮮による2回目のミサイルは、平壌近隣に墜落したおそれがある」という見方も出ている。
軍の関係者は「2発目のミサイルは120余キロメートル飛行した後にレーダーから消えたため、落弾の地点を正確に知るのは難しい」としながらも「平壌の方に行った可能性があるとみている」と語った。
北の失敗した弾道ミサイル1発が「平壌」近隣に落下?=韓国 (msn.com)【沖縄の声】【琉球史の定説を覆す”新琉球史”】三山統一は真っ赤な嘘!【石井望】【主催:日本沖縄政策研究フォーラム】[桜R6/6/25]
沖縄で石井望先生の講演会が評判だ。私は今回、沖縄に行くことができなかっただけに、youtubeは大歓迎だ。この話は「明」(明国)の歴史やイスラム宦官(明にもイスラム宦官がいる)を知っていれば理解の助けとなる。
時代は永楽帝の終わり、やり手の宦官の衰退だ。
琉球はそれからも明と貿易をするが、これが勘違いのもととなる。
石井先生は京都大学出身、中国のあらゆる言語を自由自在に理解され、北京大学教授陣とも論戦され、北京大教授は顔色を変えた。香港における中国共産党政権の暴虐の少し前に香港大学で講演、
その後の帰国を懸念したことを今も思い出す。
1383年に洪武帝は「三山の朝貢をやめろ」といいながら洪武帝は止められない言い訳だった。
今のチャイナは「三山」の概念はなく「琉球はひとつですよ」と言っている。
琉球方言は九州方言とつながっている。言語的にチャイナとは別。
石井先生のサイト
琉球三山統一せず チャンネル櫻、沖繩の聲放送局 : - 尖閣480年史 - 今古循環、愚智往復 480 years history of Senkakus (blog.jp)
ブログ主の「明」嫌いをWIKIを参考に勝手に書く。「明」でなく「暗」だ!!
(鄭和を嫌いではない、皇帝たちが嫌いなのだ)
ムスリムの宦官、鄭和(WIKI)
鄭 和(てい わ、拼音: , 宣光元年8月14日(1371年9月23日) - 宣徳9年(1434年)頃)は、明代の宦官、武将、航海者。
宣光元年(1371年)に中慶路昆陽州宝山郷(現在の雲南省昆明市晋寧区)でムスリム(イスラム教徒)の次男として生まれた[1]。姓の「馬」はサイイド(預言者ムハンマドの子孫)
天元3年(1381年)、馬三保(後の鄭和)が10歳の時に明は雲南攻略の軍を起こし、翌天元4年(1382年)に梁王国は滅亡。父を殺された馬三保は捕らえられて去勢され、洪武16年(1383年)頃に燕王朱棣(後の永楽帝)に12歳で宦官として献上された[3]。
洪武帝の没後に起きた靖難の変において馬三保は功績を挙げ、建文帝から帝位を奪取した朱棣(永楽帝)より宦官の最高職である太監に任じられた。さらに永楽2年(1404年)には鄭姓を下賜され[4]、以後は鄭和と名乗るようになった。
ブログ主・・・しかし「明」という国は暗黒な政治が続いた。殺戮などあまりにも評判が悪かった。
近親や外国出身の後宮の妃たちの殺害、また皇帝没後の殉死を強要など・・・
そこで「永楽帝は洪武年間の消極的な対外政策の間隙を縫って、皇帝の座を奪取した悪名の埋め合わせのため周辺諸国への積極的な使節の派遣を行っており、この一環として大船団を南海諸国に派遣し朝貢関係の樹立と示威を行う計画が浮上した。
近親での殺しあいは凄まじかった。最近の中国ドラマ「永楽帝」でも隠し切れないだろう。しかしこのドラマを大掛かりに宣伝するのは・・・多分、今の政権だろう。
ブログのティールーム
しかし天才バーンスタインはどのイタリアの指揮者よりイタリアの南部の気風を音楽に表現、コレッリの歌唱はいうまでもなく素晴らしい。
Franco Corelli & Leonard Bernstein Cavalleria Rusticana - Jan. 12, 1970