SNSを見ていて反日左派についてはもちろん許せないことが多く「国家観」「愛国心」欠如の中で心を打つことはない。
一方「保守」(わけあってカタカナで書くホシュ)についても、本来なら批判されて当然のことだが放置されていることがある。例えば「種子法廃止」を訴えても意味がわかっていないで「日本の技術を信じてほしい」などと反論してくる、これはその人たちが悪いのではなくてキチッと報道しないマスコミや「モリカケ」などの騒ぎの間にコッソリ決めた政府が悪いのだけれど。
SNSではそれを「反安倍」「安倍おろし」と攻撃してくるのもいる。これではお話にならない。全く「白紙委任」を認めよ、でなければ愛国者ではない、という間違った考えでしかも幼稚である。よく老人は頭が固いというが、案外若手が頭が固くて「純情?一途」なのもかなりいる。これでは「仲間内」だけでセクトを組むことと同じである。
もう一つ最近特に気になるのが「年金」「医療費」などで老人優遇と怒って、「ボケ」「老害」「ジジイ」「ババア」などと汚い言葉で嫌悪し攻撃する人が、それも学のあると思われている人も迎合していることである。本来なら「将来の老人」もやがてそのようになるのだろうが、これから大量の外国人も入るようだ。
特定の外国人に手厚い方策を取っているのが問題なのだけれど、日本国民である老人に対して手加減ない言葉の暴力はいかがなものであろうか。
老人が気が短くなったり勘違いしたり、社会に適応しにくくなってくることも多いと思うが「人格攻撃」はしてはならない。そういう人は無責任に大衆心理で言っていると思うし、中には家庭では老人を大切にしている人もいることと思う。しかし言葉は無責任に一人歩きする。「そんなつもりではなかったのに」ということがあってもである。
最近、病院に行くとよく顔が腫れあがったり青黒い内出血のあとがありありと見える老人がいるのをよく見る。そのたびに心を痛めてきた。中にはぼけてしまって抵抗もできない老人もいるだろう。そして老人施設で暴力を受けたり殺されたり・・・これからの日本はどうなるのだろう。
小さな子供や乳幼児への暴力も同じである。弱い者はいじめれば恥だ、という日本古来の考えはこれからどうなっていくのだろうか。
もうひとつ気になることがある。それは「保守の品格」だ。これについてはまた機会があれば書くかもしれない。
もちろん、いいこともたくさんあるので、嬉しいニュースも書かなければならない。それも大切なことだから。
ブログのティールーム
「歌の品格」アウレリアーノ・ペルティレ、ドイツではローレンツが、イタリアではペルティレが芸術の極みを具現していたのかもしれない。私自身の勉強をしながら疲れ果てて昔の名歌手を聴いた。他にはヴォルピやカルーソも。・・・そしてこのペルティレを聴いてベルカントの極致に完全にマイってしまった。この心の琴線に触れるようなイタリア語の清らかなこと。そしてやがて本来の劇的な強い表現に持っていくときの何という「品格」か…これ見よがしのところなどひとつもない。ローレンツもそうだが、この時代は「音楽に身と心を捧げた」芸術家が聴衆の前に立ったのだった。心が清められるようなひとときだった。ヴェルディ作曲「運命の力」1928年録音
Tenore AURELIANO PERTILE - La forza del destino - "O tu che in seno agli angeli" (1928)