往年の大テノール、マリオ・デル・モナコ主演、モスクワ・ボリショイでのオペラ「カルメン」「道化師」のDVDを観ました。
ボリショイ側がロシア語で歌い、デル・モナコはイタリア語で歌っています。
今時、こんな演奏はないでしょう。原語か訳詞のどちらかをひとつの言語で歌うことでしょう。今はほとんど原語でしょうけれど。
ところで、往年の大テノール歌手マリオ・デル・モナコを聴いて、素晴らしいどころではありませんでした。自分のすべてを賭けて壮絶に歌っています。
アリアでは高音を力強くおもいきり伸ばし、「黄金のトランペット」と称えられた美声は<肺腑をえぐらんばかりの>・・・この例えは有名な批評家のことばですが・・・悲愴美に満ちています。
ボリショイ側も相手役には堂々たる至宝のアルヒーポワを出してきて、「名勝負、結びの一番!」といきたかったのですが、ちょっと待てよ、これは「土俵がちがうんじゃないかしらん」と思いました。
アルヒーポワは「ボリス・ゴドゥノフ」のマリーナや「ホヴァンシチナ」のマルファを歌うと底知れぬ力量、まさに<大河のごとく>聴かせるのですが、デル・モナコとはどうも噛み合わないのです。
アルヒーポワの歌は、イタリアのメゾ、シミオナートやダニエリとも通じます。
全体の中で他を引き出しながらも、自らを輝かせるのです。
コッソットは他を圧しながらも自分と他者のコントラストをハッキリさせていきます。
全体の中で生かしながら輝く歌手たちなのです。天動説ではありません。
戦後まもないイタリアでは、敗戦のなかから力強くパセティックな魅力のデル・モナコを期待し求めたのかも知れません。
デル・モナコは荒れ果てた国土のなかから立ち上がった「英雄的な声」でした。
そして「一騎当千」の勇者、関羽のごとく、悲愴感をただよわせた魅力でした。
こうしてデル・モナコという不世出の芸術家を味わうこともDVDならではでした。
私は今、カップッチルリとギャウロフの「シモン・ボッカネグラ」の東京公演のDVDを待っています。ヴェルディ歌手の至芸を味わうために・・・。
ボリショイ側がロシア語で歌い、デル・モナコはイタリア語で歌っています。
今時、こんな演奏はないでしょう。原語か訳詞のどちらかをひとつの言語で歌うことでしょう。今はほとんど原語でしょうけれど。
ところで、往年の大テノール歌手マリオ・デル・モナコを聴いて、素晴らしいどころではありませんでした。自分のすべてを賭けて壮絶に歌っています。
アリアでは高音を力強くおもいきり伸ばし、「黄金のトランペット」と称えられた美声は<肺腑をえぐらんばかりの>・・・この例えは有名な批評家のことばですが・・・悲愴美に満ちています。
ボリショイ側も相手役には堂々たる至宝のアルヒーポワを出してきて、「名勝負、結びの一番!」といきたかったのですが、ちょっと待てよ、これは「土俵がちがうんじゃないかしらん」と思いました。
アルヒーポワは「ボリス・ゴドゥノフ」のマリーナや「ホヴァンシチナ」のマルファを歌うと底知れぬ力量、まさに<大河のごとく>聴かせるのですが、デル・モナコとはどうも噛み合わないのです。
アルヒーポワの歌は、イタリアのメゾ、シミオナートやダニエリとも通じます。
全体の中で他を引き出しながらも、自らを輝かせるのです。
コッソットは他を圧しながらも自分と他者のコントラストをハッキリさせていきます。
全体の中で生かしながら輝く歌手たちなのです。天動説ではありません。
戦後まもないイタリアでは、敗戦のなかから力強くパセティックな魅力のデル・モナコを期待し求めたのかも知れません。
デル・モナコは荒れ果てた国土のなかから立ち上がった「英雄的な声」でした。
そして「一騎当千」の勇者、関羽のごとく、悲愴感をただよわせた魅力でした。
こうしてデル・モナコという不世出の芸術家を味わうこともDVDならではでした。
私は今、カップッチルリとギャウロフの「シモン・ボッカネグラ」の東京公演のDVDを待っています。ヴェルディ歌手の至芸を味わうために・・・。