ベッラのブログ   soprano lirico spinto Bella Cantabile  ♪ ♫

時事問題を中心にブログを書く日々です。
イタリアオペラのソプラノで趣味は読書(歴女のハシクレ)です。日本が大好き。

名歌手ジークフリート・イエルザレム(ヘルデンテノール)のオペラの名場面の写真

2022年07月23日 | オペラ

時々、1980~90年代に活躍したヴァ―グナー歌手(ヘルデンテノール・・・英雄的な強い声のテノール)、ジークフリート・イエルザレムのDVDやCDを聴いています。
明るいその美声は気分を晴れやかにします。
現在は引退し後進の指導をしています。80代です。
私は昔、彼の歌を実演で聴きましたが、明るくのびやかな美声と驚くほどの長身(ロビーで見かけました)が忘れられません。

 

ヴァーグナー「パルジファル」

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3人の画像のようです

レハール「メリー・ウイドー」

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ヴァーグナー「ローエングリン」
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・・・ヴァーグナー「マイスタージンガー」の練習風景・・・左からイエルザレム、ヴァイクル、プライ(バイロイトにて)


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1人以上の白黒画像のようです


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次回のブログで「サラバンド」を歌っているyoutubeをUPしています。

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今朝はこんな思い・・・Lohengrin, - "Mein lieber Schwan!"

2021年05月28日 | オペラ

Wagner: Lohengrin, WWV 75 / Act 3 - "Mein lieber Schwan!"  ジークフリート・イエルザレム



今朝はこの「ローエングリン」~わが愛する白鳥よ、を聴く。
しかもこの役にピッタリのジークフリート・イエルザレムの歌で。

下記の写真はヘルデン・テノールのジークフリート・イエルザレム。聴けば聴くほどただ者ではない実力を感じる。
彼が表現する言葉の美しさや限りなくエキサイトする声の強度に唖然とする。この人、ドミンゴより年長だった。しかももっと声があり、抒情性と燃えるような劇的な表現が際立つ。私はイエルザレムに会ったのに共演のカップッチッリばかりに目が行ってしまっていた。・・・若き日の思い出です。



 政治の記事は考えがあってもそればかりでは狭くなる。

現状はあまりにも多くの課題、それに向き合うには手遅れが続出。この国は「国民」でもっているように思う。
国民は真面目で真剣に努力して生きているのにそれに報いるだけの政治がなされていない。

一方「与党と野党」というグループに分けてゴミの分別よろしく「二者択一」という息苦しさ、またよくある思い込みの頑迷さなど、そして一種の宗教じみた「正義感」のおぞましさ、SNSにはそういうのが満ち溢れている。
・・・本日はもう一度ブログを書く予定。

というのは自宅の工事があり、日頃の多忙さと両方で落ち着かないから。

 もう一曲名テノール、イタリアの名テノール、カルロ・ベルゴンツイが歌うトスティ作曲の「秘密」

Il segreto





 ではとっておきの名場面、現代の演奏上、本当に素晴らしいふたりの名ソプラノによるヴァーグナー「ヴァルキューレ」
ジークリンデをジェシー・ノーマン、ブリュンヒルデをヒルデガルト・ベーレンス、これは名場面中の名場面だ。約3分ほど。

O hehrstes Wunder! Jessye Norman in Walküre





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奥山篤信氏のヴァーグナー論「パルジファル」、そしてヴァーグナーの「本音」と美しきヒーローとヒロインたち

2021年04月19日 | オペラ

 土曜日に「ブログのティールーム」で書いたヴァーグナーの傑作「パルジファル」について、これは大変難解な思想的背景を含んでおり、作家の奥山篤信氏にご指導をお願いした結果、次のような文を頂いたのでご紹介します。

◎ワグナーの描くイディオットのイエス像と女たち(母性のマリアか?肉欲のマリア?か両面のマリアか?)
ワグナーなる男は性悪であり悪党である。
才能はもちろん天才的だが、とにかく人を利用して金を取るなど、立身出世欲はすごいものがある。
こんな悪党だからこそ、その反動として美しく純粋なものに憧れあの数々の作品の純粋愛を賛歌するあのメロディ 
耳で聞くだけで涙がでるのだ。 あの五味康祐は最高の音響システムを自宅に持つほどの耳が肥えていて、クラシック通でもあったが、<悪い奴ほどあのワグナーの美しい音色に涙するのだ>と書いていたほどだ!
僕もその一人かもしれない。

僕はワグナーが大好きでバイロイトまでニューヨーク在住の頃家族で行って、子供たちのベビーシッターに困った思い出がある。出し物はローエングリンだった。
さてワグナーがキリスト教を利用せんとしてゴマを擦り数々のキリスト教賛歌のオペラや楽劇を作曲した。
彼ほどの悪党が真心からキリスト教を崇めるわけがないのだ。名声と金目当ては見え見えだ。
大体心の底でイエスの美しさ高邁さは認めていても、そんなものが現実社会にありえない理想だと軽蔑的に思っていたに違いない。だからワグナーにイディオット美青年で、どこの馬の骨かわからないような、いわば<天才的イディオット青年>を登場させるのだ。

ローエングリンが然り、このオペラの場合はエルザという美しい純愛女性いわばマリアがでてくるのだ。
一方楽劇パルジファルではまさに売女・最悪の悪女で下劣なクンドリを登場させる。
マグナダのマリアなど心は綺麗だがこのクンドリは根からのアバズレだ。
こんな女なども許されるとするイエスを皮肉っているのかもしれない。ワグナーらしい!!(ついでにタンホイザーではエリザベートという純愛の対象とヴィーナスという肉欲世界の対象を対比しながら、二人の女の相反性をアウフヘーベン(止揚)する方向もチラつかせ、特に一人二役のこともあるらしい。)

パルジファルはこれもイディオットであり 彼が聖化されて救済者となっていく過程は、プロテスタント的なイエスといえるのだ。 クンドリは、イエスのそんな罪深い女でも、それでもゆるされる不倫の石打たれ女なのか、その反面母性たるマリアを重ねたのか、母性のマリアの側面があればキリスト教もこの楽劇を受容しやすいからだ。
僕にはわからないが、要するにワグナーの二重人格(悪党だが純愛にも涙するワグナー)が象徴されるのか?
ベッラさんの専門的ご意見が聞きたいのだ。
 著者注:いま歴史的文学その他学術的にしか<イディオット>の日本語訳はポリコレとなっていてつかえない。
イエスとはまさに幼児のような綺麗な心そこには先入観が一切なく汚れがない、そんな無辜な心の持ち主を<イディオット>と呼ぶのだ。
デンマークの巨匠フォン・トリアー監督の映画<イディオット>も彼自身はイエスに対してアンビバレントな気持ちをもつアンチ・キリストではあるが、こういう映画にもイエスへの引っ掛かりを説くのだ。(以上、奥山篤信氏)



 ブログ主より・・・奥山篤信氏のヴァーグナー論は鋭いし作曲・台本・演奏をもとに、一貫して思い通りに自作のオペラを総合芸術として成し遂げた巨人ヴァーグナーの本当の姿を興味深くこれだけの少ない字数でお答えいただき恐縮です。
ヴァーグナーの芸術の魅力は、いったんとらわれると引き返すことなどできなくなって「芸術的魔術」の中に翻弄されてしまいます。映画評論でもその秀逸な視点を書き表され注目の作家・評論家ですが、私はこの不思議なヴァーグナーについて奥山篤信氏にお伺いしたいと熱望しておりました。最も演奏のレヴェルが高かったのは戦前・戦中でありましょう。
私の「ブログのティールーム」にとり上げる演奏は、今のように録音技術が発達し、肝心の実演より録音が良好、とか目立つキテレツな演出の横行する現代では、音楽の美しさは到底わからない、として意識的に古い録音録画を入れています。またどうぞよろしくご指導をお願い申し上げます。
・・・「ジークフリート」という名の薔薇です。
 今から70年前の録音だが音質が改良されていてビックリ。イタリア語訳で歌っている。
私は、耳でイタリア語を聴き、頭の中でドイツ語の対訳と置き換える、という変な作業で味わいました。
カラスが歌うと「ギリシャ悲劇」のようなイメージがする。「メデア」もそうだった。
名歌手モデスティとマリア・カラスによるヴァーグナー「パルジファル」1950年演奏
Giuseppe Modesti & Maria Callas "Die Zeit ist da" Parsifal

Orchestra Sinfonica di Roma della RAI Vittorio Gui, conductor Roma 
・・・絶世の美女クンドリーは十字架に向かうキリストのことを笑って呪いを受ける。実はクンドリーはキリストに恋をしていたのだった。同じように聖杯の騎士を目指した老騎士クリングゾルが挫折し、聖杯の騎士をめざす若い騎士たちを陥れてきた。そんな手先にクンドリーを使ったのであった。屈折した老騎士クリングゾルは彼女にパルジファルをも誘惑させようとする。

 マルタ・メードルが歌うクンドリー
Martha Mödl sings Kundry "Grausamer!" from Parsifal (Köln 1949)


救世主を!・・・ああ・・・でも遅すぎるわ!だって、あたし、その救世主を思いっ切り罵ったのよ ああ!
あなたにわかるかしら?この呪いが!
眠ろうが起きようが、死のうが生きようが、痛もうが笑おうが、
新しい苦悩に送り返され、終わりなく臨在して、あたしを苦しませる!
そう、あたしは見たのよ、あのお方を・・・(キリストを)
そして・・・笑っちゃったの・・・!
途端に、あたしに突き刺さった・・・あの眼差しが!(キリストのまなざし)
いま私は世界じゅうを探し回っている・・・もう一度その眼差しを見つけるために。
あの、この上ない危機に瀕したとき、
その眼は、もうそこまで来たように思った・・・あの眼差しは、もうあたしの目の前にあったの・・・
でも呪わしい笑いが、また甦ってきたと思うと、腕に転がり込んできたのは、一人の罪びと・・・!(アンフォンタス王)
もう笑っちゃうの、笑っちゃうの、なのに泣くことはできない
(絶世の美女の魅力から逃れ得る男は皆無だった。ただパルジファルだけが「けがわらしい女よ、去れ!」と言った。
パルジファルは、王がこのように絶世の美女クンドリーに誘惑され、聖なる槍を取られて今も血が流れるままのアンフォンタス王の嘆きを思ったのだった。

ここでパルジファルの息子「ローエングリン」をお聴きください。(後の時代になるが、作曲はローエングリンが先だった。)



★ マックス・ローレンツが歌う「ローエングリン」~わが愛しの白鳥よ
Max Lorenz Sings "Mein Lieber Schwan" from Lohengrin

・・・無実の罪に嘆く美しいエルザ姫は「白鳥に乗った騎士」が自分を救うという夢を信じ、話すが、みんなから相手にされない。しかし実際にその騎士は白鳥が曳く小舟に乗ってエルザのもとにあらわれ、敵と決闘をして打ち負かすのである。しかし騎士は「名前や身元を決して訊かない」という約束をエルザに求めるが・・・エルザはどうしても問いたくなって別れの悲劇となる。その時にはじめて騎士は「私の名はローエングリンといい、パルジファルの息子である」と名乗って去る。
ローエングリンの母親はクンドリーではない。なお彼は双子の兄弟で、もうひとりも有名なヒーローだったらしい。


マックス・ローレンツが歌う「パルジファル」
1933. Parsifal: Act III, "Nur eine Waffe taugt" - Max Lorenz (Strauss, Bayreuth)
そしてこの「パルジファル」のフィナーレを歌うのはローレンツ。ローレンツの歌の濃さ、これにはマイってしまった。
彼の歌う言葉の一つ一つが説得力があり、しかも凛々しい。
戦前のバイロイトでの実演、指揮は作曲家のリヒアルト・シュトラウスである。
・・・この物語はずっと血が流れたまま傷口が永久にふさがらないという王に、パルジファルは以前、アンフォンタス王が盗まれてしまった聖なる槍を取り戻し、王の傷口に当てる。「あなたの傷を治すのはこの槍だけです」・・・そして王の傷は癒える。
その聖なる槍はキリストを十字架に架けた時に突き刺した槍である。その血を受けた「聖杯」を掲げ、やがて聖杯を護る騎士となる。(ローエングリンは同じように聖杯の騎士として父パルジファルを継ぐ、これはワーグナーが書いた「ローエングリン」のオペラでこれも美しい)
 王の側近が受けた神託とは、「共苦して知に至る、汚れなき愚者を待て」というものだった。汚れなき愚者パルジファルを指している。この「共苦」Mitleid(独語)は哲学者のショーペンハウアーが語ったというが、東洋にも「戦国策」で同甘共苦という言葉がある。インドから渡った言葉かもしれないが、日本では仏教用語となっているようだ。
 私はヴァーグナーの長大な楽劇を聴くときは「ぼやっと」して聴いています。名歌手の美声や独特の語りのような旋律ばかりではなく、そこでは言い表せない表現をオーケストラの演奏がうねるように流れている。自然にヴァーグナーの音楽の中に入っていけるのです。イタリアのヴェルディが「祖国統一運動」にガリバルディ将軍を支持して「祖国の名誉」の為に愛国心をかきたてたのと、ヴァーグナーが名誉と不名誉をイッキにトリスタンやジークフリートなどの英雄に降り注ぎ、敗者の汚名も美しく昇華する音の渦巻き、アルプスを隔ててこのように異なる美学があったのか、と思う次第で、一音楽家の考えをはるかに超えた真面目さと同時に余裕と、真実を鋭く見抜く稀有な才能を持たれている芸術家、奥山篤信氏は政治・芸術・歴史ともに日本の誇る「正直でとらわれのない余裕」を見せられるお方と尊敬しています。
ヴァーグナーもきっと「見抜かれてしまった」と苦笑いしていることでしょう。
そして・・・ズバリとお書きになったのは、ただ「真実」のみ、ヴァーグナー自身も否定できないし、しないでしょう。かえってヴァーグナーの気持ちがわかり、あの時代の本当の姿を鏡のようにあきらかにしておられると思います。ヴァーグナーのすぐあとのリヒアルト・シュトラウスには退廃の美しさはありますが19世紀の世紀末、遊びのひと時に酔うのですが、ヴァーグナーは、そうではなくしたたかさと強さをMonsieur奥山は明らかにされた。誰にもできることではありません。美しさと非道徳のユーモアの案外近いこと、そしてそのエッセイを読み、ヴァーグナーの一見したたかな生き方は常人ではない「強さを経た美しさ」であるように思いました。嫌な人間でありながらヴァーグナーは世にも美しい音楽を作曲した、ヴァーグナーの音楽の勝利です。真面目に聴いているのに、演奏しているのに、翻弄されている楽しさ、深いですね。
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大戦後、ドイツからソ連に奪われた名演奏、戦中のヴァーグナー「トリスタンとイゾルデ」より/ベルリン陥落・絶望と覚悟のブラームス(1945年1月23日のフルトヴェングラー)

2021年03月01日 | オペラ

今回は「特別記事」です。次回からもとの政治記事に戻る予定です。

 大戦後、ドイツからソ連に奪われた名演奏、戦中のヴァーグナー「トリスタンとイゾルデ」より
フルトヴェングラー名演・ワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死〜1942年11月ベルリンフィル   解説:徳岡直樹氏



★ これはなかなか今までハッキリ解説されなかった貴重な資料の名解説です。
ベルリン陥落・絶望と覚悟のブラームス(1945年1月23日のフルトヴェングラー)徳岡直樹氏







キルステン・フラグスタートとマックス・ローレンツ、20世紀最大のヴァーグナー歌手(写真)

ブログ主より・・・ ナチス政権の時代にバイロイトで全盛期を迎え、今に残る素晴らしい演奏を繰り広げた指揮者のフルトヴェングラー、ヘルデン(英雄)テノールのマックス・ローレンツ、そして「神のようなフラグスタート」と称賛されたフラグスタートの3人の音楽家は、戦中にヒトラーがバイロイトに来てオペラを熱心に聴いたことで、誤解されて欧米では仕事がなく、そんな時に手を差し伸べたのがミラノのスカラでした。
イタリアオペラの総本山はヴェルディのオペラを頂点として輝く存在でした。
そこにヴァーグナーのオペラで、その指揮者フルトヴェングラー、ヴァーグナーを歌って右に出る者がいないローレンツとフラグスタート、夢のような取り合わせでした。
スカラの聴衆は「素晴らしい演奏」を期待し、それは今に語られる名演となったのです。


不世出のヘルデン・テノール、マックス・ローレンツが歌うヴァーグナー「トリスタンとイゾルデ」・・・英雄トリスタンは美しい姫イゾルデを尊敬する叔父のマルケ王の花嫁にするべく迎えにいくが、実はお互いに惹かれあっていたふたり、許されざる恋は? 苦しむ騎士トリスタン。
Max Lorenz sings 'Mein Kurwenal, du trauter Freund!' from Richard Wagner's 'Tristan und Isolde'




そして「神のようなフラグスタート」と絶賛されたソプラノのキルステン・フラグスタートが歌うヴァーグナー「神々のたそがれ」~ブリュンヒルデの自己犠牲
Kirsten Flagstad: Wagner Götterdämmerung, 'Brunhilde's Immolation'



 ミラノスカラのサイトから上演の記事と当時の」ポスターを発見しました。

ACCADDE ALLA SCALA: 2 APRILE...1950
Wilhelm Furtwängler chiude con Il crepuscolo degli dei il suo leggendario ciclo della tetralogia wagneriana L'Anello del Nibelungo con protagonisti Kirsten Flagstad e Max Lorenz. Da allora, solo Cluytens nel 1963 e Barenboim nel 2013 riusciranno ad eseguire un ciclo completo alla Scala con lo stesso team creativo. Le uniche due registrazioni del Ring di Furtwängler- che di questo repertorio è interprete di riferimento - sono entrambe con orchestre italiane (Scala 1950 e RAI 1953), che sfidarono lo stigma politico verso il grande maestro tedesco nel dopoguerra. Celebre rimane anche la sua antitesi con Toscanini.
©Teatro alla Scala / Erio Piccagliani

、「AAAY TEATRO ALLA SCALA AUTONOMO) STAGIONE LIRICA N.28lTurmeA
入場料金もあります。立見席は安いですね~。コーヒー代くらい?
ヴァーグナーのオペラもイタリア語で書かれていて変な感じ・・・


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ヨナス・カウフマン主演のヴェルディ「オテッロ」を視聴して、他に宮本百合子の「オセロー」論

2017年12月14日 | オペラ

今をときめくテノーレのカウフマンがはじめてヴェルディの後期オペラ「オテッロ」を英国ロイヤルオペラで歌ったのをBSで視聴した。

「オテッロ」はヴェルディの数あるオペラの中で、主演のテノーレが尋常でない声・資質が必要で、初演のタマ―ニョの声はスカラの外の電車道まで聴こえたというほどの声、また実演を聴いたロシアのシャリアピンは圧倒され、その自伝に書いている。また超一流のテノーレであってもこのオペラを特別のものとし、「オテッロの声ではない」と歌わない人も多かった(今では自分を知らずに歌いたがるが)。

戦後まもなくオテッロを歌ったのは「タマ―ニョの再来」と讃えられたマリオ・デル・モナコを頂点とし、例えばあのフランコ・コレッリやベルゴンツイも実際のステージでは避けた。

1970年代になり、プラシード・ドミンゴが歌い、話題になったが、マリオ・デル・モナコの「オテッロ」を聴いた人たちはその後継ではなくドミンゴのバランスのとれたオテッロ歌唱としてとらえ、讃えた。

あの舞台に出てきて最初の一声「喜べ!」と勝利を歌うところではマリオ・デル・モナコの有無を言わせぬ煌びやかで雷鳴のような響きで、不覚にもどっと涙を流した人たちは、ドミンゴにはその場面で「ああ、別の歌手だ」と頭を切り替えたそうだ。

今回のカウフマンを迎えた「オテッロ」だが、カウフマンは長い間オテッロを歌おうとしなかったという。しかし、カウフマンの声はヴァーグナーのジークムントを歌ってドミンゴを超え、魅力的だが。ヴェルディの輝かしいベルカントには到底向かない、ところどころ力強いところもあるが、その合間合間を暗い響きがフレーズから落ちるような感じがした。しかし懸命に歌っているのは確かで敬意を表さなければならないだろう。

この番組にはカウフマンへのインタビューや小道具の剣を忘れて楽屋に走って取りに行き、その状況を説明する場面がある。カウフマンは声帯の障害で長らく休んでいたが、サービス精神満点の人だ。

マリオ・デル・モナコだったらずっとしゃべらず、夫人にも無声音で話す。そして登場の前には「もうダメだ、歌えない」と震え、夫人が舞台に彼を突き飛ばすと素晴らしい声で満場の聴衆を魅了している。

このオペラはシェイクスピアの戯曲をもとにオペラ化したもので、私は以前イギリスの「グローブ座」が再建された記念公演をテレビでみた。その時のセリフはヴェルディのこのオペラと一致していた。そしてヴェルディはよくここまで・・・と感動したものだ。私は英国のシェイクスピア名優のセリフを聴きながら、同時にイタリア語の歌詞に置き換え、ヴェルディのその場の音楽が心の中で流れたのが不思議なくらい自然だった。

ところでムーア人の将軍オテッロは白人の美しいデスデモーナを妻にしていたが、オテッロが英雄として讃えられているのに嫉妬したヤーゴがオテッロに「デスデモーナが不倫をしているようだ」と吹き込み、最初は信じなかったオテッロだがやがて妻を疑い、デスデモーナに辛くあたり遂に満場の中で彼女を侮辱する。デスデモーナは夫がなぜこのように怒っているのかわからない、そして嫉妬でオテッロは最愛の妻を殺すのである。

今回の上演は見ていてやりきれないものを感じた。オテッロが妻の無実がわかって自殺する時、最近の演出はいつものことだが胸からドクドクと血が溢れ、流れ出す。

ここまで必要なのか? 私はイタリアの演出家が「拷問とか殺人などの時に惨たらしい場面をリアルに描くのは一流ではない。決してそれを出すことなく、聴衆がそれぞれ音楽の中で受け止めるようにする」と言っていたことを思い出す。たとえばヒッチコックもリアルな場面は出さなかったが、それ以上に人々は感じた・・・など。

しかしデスデモーナが夫によって殺される、この酷い成り行きを女流作家宮本百合子はこのように書いている。(1948年・・・「デスデモーナの白いハンカチーフ」シェイクスピアの戯曲を読んで)

>・・・オセロの悲劇の頂点は、オセロの嫉妬だけにおかれていない。オセロの人間的尊厳を愚弄されたと思った憤りと絶望の深さにある。その角度からみれば、地球上に植民地というものが存在し、人種間の偏見が少しでものこされている限り、オセロの悲劇のファクターは、人間社会から消えていないということにもなる。
 それにしてもデスデモーナは、愛のあかしとしておくられたハンカチーフは、つまるところ一枚のものであるハンカチーフにすぎないのだということを、どうして見ぬかなかっただろう。(宮本百合子 1949年)

http://www.aozora.gr.jp/cards/000311/files/2985_10087.html

彼女は日本共産党の宮本顕治夫人でもあったが、夫は別の女性と親しくなり、思想的にも対立するようになったという。この文はなんとなく気になった。デスデモーナに「こうしていたら?」と思ったのだろう。彼女の不幸な生涯を何となく思ったりもした。

結局のところ、カウフマンがインタビューで言うには「オテッロは女性に対してはウブだった」とか。私はどうもそれでは得心がいかなくて、カウフマンが語れないものを宮本百合子の「嫉妬だけでなく人間的尊厳を愚弄されたと・・・」書いたのを見て・・・もしかしたらカウフマンはそのことを言うのが辛かったのではないか、と思った。

指揮者のパッパーノと打ち合わせのカウフマン

 1、カウフマン Jonas Kaufmann and Antonio Pappano on the musical secrets of Verdi's Otello (The Royal Opera)

 

では、かつての名歌手の「オテッロ」から

2、デル・モナコ Mario del Monaco - Esultate (Live) 1959年 東京にて

 

3、ドミンゴ Placido Domingo - Otello - Esultate

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