稲村公望氏
季刊のオピニオン誌「伝統と革新」36号には、見出しをつけて、掲載します。
「詳細にご関心の向きは、伝統と革新36号の本件記事をご一読ください」
中国共産党総書記の国賓訪日を回避し、コロナ禍の世界の犠牲者を追悼して、開催季節が不適な東京オリンピックを返上して退陣を飾る花道とすべし
2015年10月下旬、習近平国家主席は国賓として英国を訪問した。原子力発電所や高速鉄道の建設など総額400億ポンド(約6兆2500億円)に上る札束外交を展開して、英国側も、女王陛下が出迎え、馬車の行列を組んでバッキンガム宮殿に伴い主席夫妻を宿泊させる、女王陛下主催の公式晩餐会を開催するなど、表面的には最大級の待遇の歓迎をした。
しかし、チベット弾圧に反対するチャールズ皇太子は晩餐会を欠席し、ワインは、天安門事件の「暗黒の年」1989年産のボルドーワインだった 晩餐会で習席がスピーチをした際、隣の座席のアンドリュー王子は、頬杖をついてみせ、女王陛下は笑顔を見せなかった。 翌年5月10日に開かれた、90歳の誕生日を祝う園遊会で、エリザベス女王陛下は、習近平主席一行について「非常に不躾(Rude)だった」と、習主席夫妻の警備を担当したロンドン警視庁の女性警視長ルーシー・ドルシ氏に話しかけ、国営放送BBCがその場面を放送した。
それにしても日本の、官邸の側近外交は鈍感であった。
安倍首相は「習主席と手を携えて日中新時代を切り開いていきたい」と述べて、令和2年春に国賓として再来日するよう発言して、習主席は「温かいご招待に感謝する」と応じている。
習主席は、副主席当時の2009年12月に来日しており、副主席でありながら天皇陛下との会見を強行させるという日本側の政治権力者による失態もあった。
安倍総理は、2018年10月下旬に訪中して、翌年の大阪で再会できることについても言及しているから、国際会議ではなく、国賓としての来日招請を構想したことが考えられる。
中国国家主席が最後に訪日したのは、2010年11月、共産党青年団出身の胡錦濤主席であり、福田総理(当時)と共に、日比谷公園内の松本楼で、孫文夫人ゆかりのピアノを視察して歓談している。
安倍総理は、大阪でのG20サミットで、「来年の桜の咲く頃、習氏を国賓として日本にお迎えし、日中関係を次の高みに引き上げたい」と述べ、習主席は「素晴らしいアイデアだ」と賛意を表した、が、英国の外交儀礼のように、国賓招請の親書が手交された気配はない。
ちなみに、政府答弁書において、「国賓は、政府が儀礼を尽くして公式に接遇し、皇室の接遇にもあずかる外国の元首又はこれに準ずる者であり、その招へいに当たっては、相手国との二国関係等を総合的に判断の上、閣議において決定している。」とあり、大阪での日中会談における総理発言は、閣議決定に基づくものではなく、国賓での招聘として調整を進めている最中の発言にすぎない。
安倍総理は、「習主席の国賓訪日を極めて重視、国賓訪日を有意義なものとし「日中新時代」にふさわしい日中関係を築き上げるべく、協力して準備していきたい」「その際、我々の手で日中関係を次の高みに引き上げ、地域や世界の平和・繁栄に対して、日中両国が有する大きな責任をしっかり果たす、との意思を内外に明確に示したい。」と習主席と安倍総理を「我々」と形容する踏み込んだ発言をしている。
真偽の程は定かではないが、習近平主席は、令和の御代の初の国賓訪日を切望しているとの噂はあった。それを阻止するために、トランプ米国大統領が、令和の時代の初の国賓として訪日することになったとのこれまたまことしやかな噂が飛び交っていた。
ちなみに平成の御代の最後の国賓は、ベトナム主席夫妻だけである。
サルタンではない、マハティール首相に対して、天皇陛下は、平成30年11月6日に外国人叙勲で桐花大綬章を授賞し、親授式を挙行した。翌日、首相と夫人を皇居・御所に招き昼食会を開催されたが、親授式に皇后陛下が陪席されていなかったので、親交の深さを考慮して昼食会が追加された。
皇室外交のきめ細かな配慮が窺える。
「太平洋には中国と米国を受け入れる十分な空間がある」と、2013年6月米国を訪問した習主席は、米支による太平洋分割統治論をオバマ大統領に嘯いた。ワシントンでは、G2を喧伝して、米支経済同盟が成立した雰囲気すらあった。第三列島線は、ハワイからサモア、ニュージーランドに至る海洋戦略の最前線だ。その先には、力の真空でる東南太平洋が広がる。
支那は、第三列島線を現実的な戦略として、メラネシアやポリネシアに莫大な経済援助を2006年頃から開始した。2018年、パプアニューギニアでアジア太平洋首脳会議が開催されたが、開催前日に習主席は、高速道路の開通式を行い、これを誇示することから会議を始めている。
しかし、米支の対立があり、初めて共同声明がなかった。トランプ大統領の米国は支那の太平洋での突出に妥協しなかった。トンガでは、壮大な官庁建物が支那の支援で完成しており、人民解放軍とも交流している。トンガの静止衛星軌道使用権は、2008年に支那に買収され、チャイナタウンが作られ、無法地帯が出現している。
ミクロネシア連邦のヤップ州には、支那のマネーロンダリングのためのカジノが計画されている。サイパンのカジノも10年前から稼働しているが、目的は同じだ。(コロナ禍のなかで、横浜のカジノ計画の返上がラスベガスの企業が発表したが、支那マネーの日本にあるカジノでの洗浄が目的であったが、コロナウイルス禍で目処がたたなくなったからか。そうであれば、僥倖である。)仏領ポリネシアでも空港や海底ケーブル布設を計画しているが、いずれも軍事用途に転用可能だ。
更に、第三列島線の先にある南米チリに急速に接近していることも注目される。チリ大統領は、2019年4月に北京を訪問して一帯一路への支持を表明している。支那は、チリを戦略的な要衝と考えており、第三列島戦で、米国を軍事的に牽制するだけでなく、米国が支配するパナマ運河を建設する構想にも関与している。壮大な太平洋の海域が実質的な無法地帯となり、支那から密輸される麻薬中毒が青少年に及び、人身売買や売春につながり、漁業では支那漁船による違法操業が日常茶飯事となっている。かつての「天国に近い」島々が、汚濁にまみれた拡張帝国主義の食い物となり、旧宗主国たる日本の後手の対応は、親日の「旧南洋群島」の面影を急速に消滅させた。
支那は、太平洋の日米激戦の島々を買収することに血道を上げているかのようだ。ソロモン諸島に、ブーゲンビルやカダルカナルがある。ツラギやタラワは激戦をした要衝の地だ。
支那が次に狙うのは、レイテかラバウルか、果ては硫黄島かと想像を逞しくする。
激戦の島伝いに日本を陥落させることが最終目的ではないのか。
支那の戦略家が、テニアンにB29ならぬミサイル基地建設を夢想している可能性は十分にある。
安倍政権には、太平洋の島嶼国を対象とする外交が決定的に欠落している。
しかし、権力は腐敗することが必定であり、令和元年10月に消費税が8%から10%に引き上げられ、経済に急ブレーキをかけるという前例があるにもかかわらず、大局観を見失った政策を強行突破している。12月までの国内総生産は、対前年比でマイナス7.1%になった。
もちろん、支那側は、日米同盟にくさびを打ち込むことが狙いであるから、ギリギリまで、訪日を実現させようとした。2月初めには、外交部の先遣隊が極秘裏に来日し、歓迎行事が行われる迎賓館などを見て回っている。
訪日延期が発表されたのは、3月5日で、その日に中国本土からの日本入国制限が発表されている。
安倍政権の外交政策が、「親中」路線に舵をきっていたことが明らかになり、その総仕上げが習主席の国賓訪日であり、そのためにコロナウイルス対策が決定的に遅れたことが天下に知れ渡ることとなった。
「一帯一路構想」による支那の収奪に対する批判の欠如や、南シナ海の環礁の埋め立て占拠・軍事基地化に対する低調な反発や、香港の一国二制度問題に対する無評価や、ウイグル人・チベット問題への無関心、等々、安倍政権の支那への迎合と鈍感さが漸次明らかになってきていたが、外交政策の基本を、平成29年以来、米国との同盟を基軸とする外交から「親中」路線に変化させていたのだ。
安倍政権の外交方針の変化を読み解くことが必要だ。コロナウイルス禍は、しかし、支那の拡張帝国主義と独裁秘密主義の悲惨な実態を世界に周知することになった。実に皮肉な学説であるが、コロナウイルスには、S型、K型、G型、欧米G型などと変異があり、S型とK型のコロナウイルスが、支那から日本に蕩々と入っていて、集団免疫状態となっていたために、武漢や上海から、強力なG型が入ってきても、免疫ができていたから、死亡する患者が日本では不思議なくらいに少なかったとする。
ヨーロッパには、S型は支那から入っていたが、K型がなかったために免疫がなく、欧米Gが猛威を振るうことになったとする説である。S型だけだと、G型をむしろ強力にするとの説で、京都大学の上久保靖彦教授などが、ケンブリッジ大学で発表している学説である。
習近平主席の国賓訪日を忖度するあまり、安倍政権がコロナウイルス禍への対応が杜撰で遅れたことが、ウイルスの集団免疫を作る上では「僥倖」となったことになる。安倍政権は令和二年4月7日に緊急事態宣言を発令したが、習近平主席が、コロナウイルス禍を「国難」と認めてからも、二ヶ月以上が経っていたし、上述の学者の説に従えば、4月の時点で既に集団免疫ができていたことになり日本では終息に向かっていたことになるから、科学的な裏付けのない、経済活動を阻害するばかりの緊急事態宣言だったことになる。
・・・河野防衛大臣が原田議員を訪問した先日の写真です。
天下の智者、稲村公望氏のエッセイを拝読して、無理をお願いして私のブログにご紹介させていただいた次第です。
稲村氏とは以前、「フーバー大統領の回想録」を拝読して全20編にわたり、わがブログに連続的に転載をさせていただき、それから4年後、大阪での講演会でじかにお話を伺い、その豊富な知識学識、陽気なお人柄など一気にファンになってしまった。