ベッラのブログ   soprano lirico spinto Bella Cantabile  ♪ ♫

時事問題を中心にブログを書く日々です。
イタリアオペラのソプラノで趣味は読書(歴女のハシクレ)です。日本が大好き。

『奇想天外「LGBT(女子トイレ使用)」/チャイナの人民解放軍が日本の「アビガン」の特許を取得/今こそシェイクスピア

2021年05月31日 | 政治

『奇想天外「LGBT(女子トイレ使用)」問題究極の解決策◇子供庁法案も潰れました』第457回【水間条項TV】



 しかしこの稲田朋美元防衛大臣、もう見境もなくバカなことを重ねていた、この人いったい何を考えているのか・・・
国民はあきれ果てるだけだ。こんな人を能力もないのになぜ最も重要な大臣のひとつである「防衛大臣」に任命したのか、
全くアベ元総理の考えがわからない。まだまだあきれ果てる「亡国法案」を通してきた自民党、今まで何をしていたのか、
いよいよ選挙も不透明になってきて、良心的な支持者もそっぽを向いてきた。
コロナ対策も・・・国民はギリギリまで協力している。
まだまだ不透明だ。政府がきちっと説明しないとね・・・。


【 05.29 役情最前線】中共軍の科学者が米国でウイルス研究、中共が台湾にワクチンの脅迫、日本 ワクチンの他国への供給を検討、
米国 疫病に関する新法案、ファウチ氏 武漢実験室に巨額資金提供を認め




 こんなニュースも・・・
中国人民解放軍がコロナ治療薬として期待される「アビガン」の特許を取得 
巧妙な手口に日本の関係者は危機感

配信

用途特許とは? 

国も事実を把握



★ ここで気分を変えて芸術を・・・シェイクスピアの世界!!

 ところで昨夜、以前に録画をしていたNHKテレビ番組「今こそシェイクスピア」を視聴、1時間30分が面白くて
あっという間に終わってしまった。
シェイクスピアの名優たちが舞台の録画による演技と共に、語り合う良い番組で、特に「4大悲劇」として有名な
<ハムレット・マクベス・オセロー・リア王>の名場面も俳優自らが解説し、また日本人俳優による本場イギリスでの講演は「ブラヴォー!」の嵐で、演劇のレヴェルの高さを示したという。

「ロミオとジュリエット」は悲劇なのだけれど「4大悲劇」には入らない、という。
この「4大悲劇」は神への反逆があり、ロミオとジュリエットにはそれがないという。

このDVD買いたいなあ、と思った。本場に行くことを思うと安いと思って。
 BBC シェイクスピア全集 (DVD37巻組)



下記はラジオドラマです。
 シェイクスピア「ジュリアス・シーザー(The Tragedy of Julius Caesar)」(ラジオドラマ)


作品紹介 ローマの英雄シーザー暗殺の陰謀劇と シーザー死後の後継者争いを描く。 「ブルータス、お前もか!」 2015年、蜷川幸雄演出、阿部 寛×藤原竜也×横田栄司×吉田鋼太郎出演で上演。

1953年の映画版は、ルイス・カルハーン、マーロン・ブランド、ジェームズ・メイソンら出演。 1970年の映画版は、チャールトン・ヘストン、ジェイソン・ロバーズ、ジョン・ギールグッド、クリストファー・リーら出演。
【出演】 ・ブルータス:中澤まさとも ・アントニー:内匠靖明 ・キャシアス:出先拓也 ・シーザー:呉圭崇 ・ローマ市民:内海祐紀、真一涼、五十嵐由佳、柏士文(al-share)
※劇中、使用している音楽・効果音、画像は全て著作権フリーの素材です。


ブログのティールームは休みます。



ジュリアス・シーザーの舞台写真

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林千勝「日本国総理大臣の雇い主、ロスチャイルド家の戦争と環境と原子力のビジネス」/宮内庁・皇室についての懸念、本音で考える

2021年05月29日 | 政治

【今、世界はどうなっている?】林千勝×水島総 第2回「日本国総理大臣の雇い主、ロスチャイルド家の戦争と環境と原子力のビジネス」[桜R3/5/15]



 この対談の中で林千勝氏のご意見は切れ味鋭く賛同することが多い。
印象的なものを一つ挙げれば・・・日本で一番成功しているのがキュリー夫人とチャップリンである。

彼のバックにハッスン一族、
英王室に合わせてチャップリンは舞い上がる。マルクス主義と同じ要素も見られる。
日本でチャップリン暗殺計画があったことなど。
では実際にご覧ください。

独裁者 (映画) - Wikipedia
「チャップリンの独裁者」私はこの映画好きなのですが、この場面はいけません。この場に流れるのはヴァーグナーの「ローエングリン」前奏曲ですから・・・ヒトラー大嫌いの大指揮者トスカニーニの指揮する「ローエングリン」の前奏曲の美しさはこんなレヴェルではないのです。

 ブログ主から(一部訂正あり)・・・「М子内親王とKKの結婚問題」のことで、皇族としてあるまじき発言に(こともあろうに)М子内親王がKK寄りで、「お分かりいただければ幸いです」と前代未聞の愚かなことを主張し、当然多くの国民に驚きと蔑視を招いてしまったこと。
KKよりもこのことでМ子内親王に国民の批判が向かったこと、そしてこの姿勢は「公にあるべきお方が・・・」という批判を受け、尊敬を失ったことなど。それにも気付いていないのか、KKとの結婚を???
この方たちの「愛に生きる」というのはこんな下品なものか?

私ははじめて「宮内庁」を庇った。
テレビでは「宮内庁が~」とほとんどのコメンテーターが言う、逃げだな?と思った。
コメンテーターたちの今後の雇用のことを思うと、本音は言えない、それで「宮内庁が~」となる。
また本当のことをわかっていても「宮内庁が~」で済ます。濡れ衣を無理やり着せられる、上手くいっても称賛はない。
その意見を以前にブログに書いた。今日はその付け足しです。

そのようにほとんどが「宮内庁が~」と言ってそこでごまかし、自身の保身をはかる人たちに残念に思った。
今まで何度も「宮内庁が~」で問題が終わらせてきたことが気になった。宮内庁は何をやっても叩かれる。
人としてそれで誇りある仕事といえるのだろうか。本当は思いもしないことだったけれど、今回のことで同情した。
宮内庁ではノイローゼになって離職する人もいる。人として耐えられない屈辱だ、誰のために叩かれるのか?
これだったら「宮内庁」に喜んで来る人は少ないだろう。
自分の努力でとうにもならないところにいろんなバッシングが絶えずある・・・としたら。

本来だったら私もここまでその決まり文句「宮内庁が~」というのをごもっとも、と思っていたが、これでご当人であるKK・М子内親王おふたりの姿勢を見ていると全く反省がない。・・・当然と思ってるようだ。

そこで「宮内庁は臣下ではない」と書いたのだ。
政治家もイザとなったら何も手を打たない。現状を非難したのは自民党の伊吹・西田両議員だけだ。
ホシュはダンマリ。(内心は言いたくてもバッシングがあって言えないのか?)

まだダンマリだけだったらいいが、積極的に「至らない一部の皇族」を庇うために、KK母の元婚約者を胡散臭い存在のように批判する人がいるのには驚いた。
確かにKK母にホレて信用するなど、誰も良いこととは思わないし、財産を失った本人もわかっている。
また弁護士を雇うおカネはない、せめて自分の主張をと思えば週刊誌記者しかいないだろう。
それに対し、一般人であるKKについては「警備」もあり「複数の弁護士」もついているようだ。
この費用はどこから?と思うのは当然だ。そしてМ子内親王が今回のことで恋人に加担しているのがわかった。
М子内親王はご自身がこういえば国民は黙るとでも思いあがっているのか、勘違いしているのか。

KKを胡散臭く思っていた多くの人は加地大夫の発言を「よく言ってくれた」と評価をしている。
加地大夫の発言は勝手に言えることではない。М子内親王らに頼まれて言っていると思うしかないがそれがМ子内親王の本心が暴露されて国民の批判を招いたのだ。加地大夫の発言はМ子内親王のあさはかな狙いどころか、逆風となった。
また元婚約者の方も恥を忍んで言っていると思う。しかし一方おカネを借りたほうは「解決済み」と前回も言い、今回は「42万円は入学祝としてありがたく頂きました」と・・・その金額に何も思わずに?

誰が42万円の「入学祝金」を貰うか? しかも相手は当然そんな祝い金を出したつもりはない。
生活が困窮し老齢の、しかも過去にお世話になった人に言うべきことか?とKKらの「人格」を疑う、
これは普通一般にはない思考回路である。
それを知ってのМ子内親王の思い切り上から目線のことば、同じ「国民」の金銭問題に恋人の肩を持つロイヤルにはふさわしくない居直りの態度、誰も制御しないのか? 駄々をこねる年齢でもない。30歳になろうとしているのだ。
「それ、間違っていますよ」と国民の多くは心配し呆れ、ためいきだった。

こんなバカげたことに「宮内庁」は本気で戒めるべきだが、ここで私が言うのは「親すら指導できにくいことを、それに反対し宮内庁だけが表立って言えるか?」ということだ。

宮内庁の苦悩もわかる・・・問題があまりにも低いレヴェルでしかもその親である殿下との間も「齟齬」があり、М子内親王がSNSでKKどころか、KK母にも優しい言葉をかけているという、そして自身の親には「話ができない」状態。

こんななかでマスコミも一般も「宮内庁」をフルボッコする。こういっていれば「安心で自分の身は安泰」だからだ。
そして「KKとの結婚は反対」が同じである。

宮内庁も批判されるべき要素もあるだろう、しかしできることとできないことがある。
私もまさか宮内庁に同情することになるとは思わなかった。
「宮内庁は臣下ではない」そして「国民は臣民ではない」のだ。

それは最悪の展開になって、もはや国民が批判し意見するしかない、それも上手くいっていない。
このままではますます皇室との距離は離れていく。国民もあきらめて背を向けていく。

それと「税金で生活している」と私は一度も言っていない。言わないようにしてきた。
しかし「このような状態で私は1円でも惜しい」とは書いた。

皇室の多くの方は困惑されていると思う。
他の皇族の方々も元皇族の方々もKKと親戚になりたくない、という。当然だ。
私など庶民でもこういう人とお茶を飲みにいくのも嫌だ。国際社会の中でこれからは皇族としての資質も問われる。

敗戦で天皇や皇族も財産を奪われたこともあるが、それよりも国民は兵士として差し出した大切な家族を失い、絶望の中で焼け野が原にたたずみ、食べるにも事欠き餓死もあった。住むところもなかった。
皇室だけが名誉や不動産や伝統の名品を失ったのではない。
それでも国民は「天皇」を護ろうとした。
昭和天皇が大戦で苦悩されたのも当然である。「天皇の名において開戦」した、というのもご存知だから、どれだけ悩まれたのかも誰もが理解できるし、それを騒ぐのもなんだかおかしい。
日本国民(臣民ではない)として見事に立ち直り、国民は天皇を恨むこともなく、象徴として大切に思った。

これを私が書く日が来るとは思わなかった。戦地では食べ物もなく、飢え死にが多かった。
この国民の多大な犠牲の上にたって今の「皇室」がある。
皇族でもそれを尊重して靖国や護国神社にお詣りをされる方も現在もいらっしゃる。

批判したら「左派の思うつぼだ」と言うなら、他にも似た話がある。
政治で政府の売国政策を批判したら「喜ぶのは左派だ」とか「左派の逆の意見が正しい」というバカげた発言も相次ぎ、私はこれらは「保守の面を付けた阿Q」と思っている。
もちろん「売国左派」も同じである。
こうしたことを「ゴミの分別」のように簡単に判断できない、それは国民がさまざまな本音を抱え、多くの犠牲を払って何とか乗り越えてきたからである。

「歴史」については皇国史観では国民の側への配慮はない。国民の窮乏や犠牲が目に入っていない。
いつからこうなったんだろう・・・昔は皇室は清貧だった。そしてМ子内親王のように個人的な恋人に肩入れして、もう一方の「国民」に対し、このようなことをされるとは何て身勝手で貧しい精神だろうと思う。

それからKKに費やした会計をハッキリさせることを要求すべき、これですべてはハッキリする。
これは政府もごまかしてきたが、皇室がKKの金銭問題、警備費用、生活費などにかかわっていないか、
もしそうならそれこそ「皇室破壊」を自らがしているのではないのか?
「天皇」をありがたくあがめるのはごく一部の人だが、これが正しいと思い込んでいるだけに、笑えない。
しかも思いあがって天皇の側に立っていると勘違いし、「口を慎め」と人に押し付けよう、教えようとする傲慢さ・・・
こうした偏ったことを歴史といいながら通そうとすると「皇室」は潰れる。ただし天皇によってではない。
間違った思い上がりで上段に構える不遜な論の押し付けによってである。これ一択か?

実際に戦場に行った方々はあまり聴きたくないという。
天皇家や皇族だけに焦点をあて、尊敬を要求するようなたわけた話は、一般人はもっと酷い目にあっているので、聴きたくないのだ。
しかし日本国民は当時生き延びるのに精一杯だった。
それゆえに天皇家や皇族に対して悪意はない、それどころか好意でいた。


ただ今回の件のような思いあがった事例については、「今こそ膿を出さなきゃ」と真剣な保守は厳しい視線を送っている人たちが多いことも当然だろう。
それをわからず「口を慎め」では通用しない。
愚かな皇族が犯罪臭のする恋人の側に立ち、不公平で不謹慎であることも理解できず皇族の身分を私物化したのだ。
今の国民には通じない。国民はあきれかえっている。
そしてこういうことが「皇室崩壊」につながること必至だ。国民の口をふさいで解決はできない。

よくある「あなたが悪いんじゃない、社会が悪いのよ」という反日勢力が大好きな「ルサンチマン」を天皇のミカタと勘違いしている傲慢さと瓜二つなのだ!!
前代未聞である。襟を正すべきは誰か?・・・それは「国民」ではない。




【ch桜・別館】小室問題、検察は厳正な姿勢を![桜R3/5/27]




ブログのティールーム

本日はスロヴァキア出身のソプラノ、ルチア・ポップが歌うドヴォルザーク作曲「ルサルカ」~白銀の月、をどうぞ。
Lucia Popp: Song to the Moon (Rusalka)


リカちゃん人形

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今朝はこんな思い・・・Lohengrin, - "Mein lieber Schwan!"

2021年05月28日 | オペラ

Wagner: Lohengrin, WWV 75 / Act 3 - "Mein lieber Schwan!"  ジークフリート・イエルザレム



今朝はこの「ローエングリン」~わが愛する白鳥よ、を聴く。
しかもこの役にピッタリのジークフリート・イエルザレムの歌で。

下記の写真はヘルデン・テノールのジークフリート・イエルザレム。聴けば聴くほどただ者ではない実力を感じる。
彼が表現する言葉の美しさや限りなくエキサイトする声の強度に唖然とする。この人、ドミンゴより年長だった。しかももっと声があり、抒情性と燃えるような劇的な表現が際立つ。私はイエルザレムに会ったのに共演のカップッチッリばかりに目が行ってしまっていた。・・・若き日の思い出です。



 政治の記事は考えがあってもそればかりでは狭くなる。

現状はあまりにも多くの課題、それに向き合うには手遅れが続出。この国は「国民」でもっているように思う。
国民は真面目で真剣に努力して生きているのにそれに報いるだけの政治がなされていない。

一方「与党と野党」というグループに分けてゴミの分別よろしく「二者択一」という息苦しさ、またよくある思い込みの頑迷さなど、そして一種の宗教じみた「正義感」のおぞましさ、SNSにはそういうのが満ち溢れている。
・・・本日はもう一度ブログを書く予定。

というのは自宅の工事があり、日頃の多忙さと両方で落ち着かないから。

 もう一曲名テノール、イタリアの名テノール、カルロ・ベルゴンツイが歌うトスティ作曲の「秘密」

Il segreto





 ではとっておきの名場面、現代の演奏上、本当に素晴らしいふたりの名ソプラノによるヴァーグナー「ヴァルキューレ」
ジークリンデをジェシー・ノーマン、ブリュンヒルデをヒルデガルト・ベーレンス、これは名場面中の名場面だ。約3分ほど。

O hehrstes Wunder! Jessye Norman in Walküre





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「父」とは何か ~子供に対してルールを「強制」する人間のこと、だが必ず「包容力が必要」/ 古典に通じる真の芸術とは                              

2021年05月26日 | 政治

 矢崎彰容氏のエッセイから(抜粋)・・・9年前の「正論」の記事より
                           
子供はスパルタへの恐怖心から、何がメッセージとして、ルールとして言われているのかわからず、パニックを起こしてしまう。
相手が、つまりは父が何かを「怒っている」ことは分かるが、何をすべきなのかを理解できない。怒りだけが伝わる。それでは恐怖しか伝達しない。一方の父もまた、怒る自分が最終的には何をめざして怒っているのか、わからなくなる。
こうして家庭においてもまた荒みきったことばが、怒号として、泣き叫ぶ子供の声として2012年の日本の家庭に現れているのではないか。

私が言いたい最終的な結論は次のようなことなのだ。

この父は「父」ではない。「父」とは、子供にたいしてルールを「強制」する人間のことである。だが、その「父」には、かならず包容力がなくてはならない。子供にルールの大事さを教え、時には厳しいことばをかけつつも、一方で、子供が社会で転びそうな場合には、そっと後ろに手をまわし気づかれぬように支える度量がなくてはならない。かならずそこには一種の「余裕」が必要なのだ。

子供から大人になることは、大きな川を必死に泳ぎながら高い堰を飛び越えるような困難な作業だ。
子供にとって、それは大きな賭けである。大人はそれを見守り、本流から外れそうになる魚たちにそっと手を差し伸べ、支流からもとの流れにもどす。
だが流れに逆らい泳ぎつづけること自体を、可哀そうだと止めることはない。それは過保護だからだ。
このような姿こそ「父」ではないか。


実はこの国には、本当の意味での「父」がいない。「父」がいなければ札つきの悪はチャンピオンになり、家庭をもつことができない。父親からの罵声は、国民という子供たちをさらに動揺・興奮させるだけではないのか。何を破壊すればいいのか、何を怒られているのか、私たちは本当のところ、分かっていないではないか――この比喩が、比喩ですまされないことを、私はことばの荒廃というささやかな、しかしまことに重要な部分に見いだしてきた。

そして最後に述べておこう。
「余裕」ある父性を帯びた人物を選ぶこと、これこそが今回の選挙で求められる私たちの判断基準なのだ。
(以上)
ブログ主が勝手に付け加える・・・女性の場合は・・・歴史に学ぼうか・・・それともこれからか?



 古典に通じる真の芸術とは・・・奥山篤信氏の評による中国映画「無極」について

・・・真田などがこの映画に出演していると聞いて、、また中国に金の為なら節操も売る日本の俳優かと決めつけていたが、この映画にはひとかけらも反日性も共産主義のドグマもない、・・・嘘で塗り固めた現在の中国共産党政府とは別世界で、この物語には詩があり、道徳性もある。このような監督が、言論統制の中国に居ながらこういう映画を作れるのは・・・中国の題名は「無極」果てしないこと。そこには唯物史観などかけらもない。・・・男の役割、男らしさなどふんだんに描かれており、しかも信仰心溢れる輪廻の思想がこの映画にあるのが嬉しい。この監督、古典に通じているのか・・・この映画を見て、あの拝金主義の権化といえる現在の中国からこのような作品が・・・願わくは監督が現在、中国共産党政府の唯物論を批判、精神や情緒の問題を提起したものと解釈したい。

文化面で先入観、食わず嫌いはつくづく禁物であり、・・・小津や黒澤らの日本映画の伝統は、悲しむべきかあの駄作「スパイゾルゲ」の篠田や「男たちの大和」の佐藤など、貧弱な発想とマンネリ、今や日本の監督、脚本家がいかに世界的レヴェルに達していないか、目の当たりに感じた次第だ。
(以上、奥山篤信氏の著作「超★映画評 愛と暴力の行方」より)

真田広之 Hiroyuki Sanada 中国映画『無極(プロミス)』 中国大陸版予告




ブログ主より・・・私は今の中国共産党のナチスをも超えるルールなき暴政に怒る人のひとりである。
しかし、芸術は別だ。私が「史記」「三国志」「水滸伝」「岳飛」、そしてこよなく「漢詩」を愛し、そして京劇の美しい剣舞も実際に北京で見て今も忘れられない気品ある名舞台を想う。
これらは今の中国共産党が排斥してきた芸術であり、芸術家が必死にその伝統を護り、文化大革命吹き荒れる中で、民衆もそれを秘かに支持してきたからこそ残ったものである。
それに今は拓本しかないが
王義之の書のキリっとした筆、また「唐」の皇帝に仕え、200回以上も危険を承知で皇帝を説得した魏徴「人生意気に感ず」の知と胆力、その他、それらの作品の中には今でもうっとりしてしまう魅力があるが、なかなか今は言いにくい、誤解されるような状況もあるので、あまり書かなくなった。

しかし芸術において一切の妥協がないことで「無敵」の奥山篤信氏の「超★映画評 愛と暴力の行方」に書かれているチェン・カイコー監督の「Promise」(無極)を読んでその毅然たる評に「政治的なこだわりや世間の物差し」は真の芸術の前には使わない自由自在の判断を新鮮な風がさわやかにヒューと通りぬける印象を強く受けた。それにやはりそれを支えるだけの知識と感性の豊富なことで地球的な文化規模でその基盤を支えておられることが文中にいつもながら見え隠れする。決して大袈裟ではなくにっこりと笑って指し示すような自然さで。
See the source image

趙雲子龍(全身是胆)・・・三国志より

番外編

 今に伝わる大切な名言

「一頭のライオンに率いられた100匹の羊の群れは、一匹の羊に率いられた100匹のライオンの群れに勝る」

「ゴールを征服したのはシーザーに率いられたローマ人であり、単なるローマ人ではない」


ブログのティールーム

本日はリパッティが弾くシューベルト「即興曲」をどうぞ。
Dinu Lipatti plays Schubert Impromptu in G-Flat Major (with preluding)




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奥山篤信氏の映画評「ノマドランド、」~現代の遊牧民ノマド、東洋思想とキリスト教を交錯させた永遠の世界

2021年05月26日 | 政治

★ 「ノマド」とは、遊牧民や放浪者を示す言葉で、日本ではほとんど聞かないが、大陸ではヨーロッパやアジアを問わず、いろんな生活形態で長年暮らしてきた、また現代はそれが「インターネットの発達によりクリエイター階級がいろんな場所で時間的制約にも捉われない、過去の「ノマド」を彷彿とさせる暮らしが到来している、・・・この映画の場合はその「恩恵」には縁の薄い人たちの生活、そしてそれを表面ではなく深い考察で奥山氏がお書きになっているということです。

NOMADLAND | Official Trailer | Searchlight Pictures



奥山篤信氏の映画評
アメリカ映画『ノマドランド』

原題『Nomadland』2020

~現代の遊牧民ノマッド、その生き様は、あの西部開拓時代にアメリカに入植し、新天地を探して旅をした移民のスピリットとの類似があるのだ。~

コロナ禍でアカデミー賞候補作品を観ることが難しかった。いくつか観た中から僕なりの判断で、この映画は好き嫌いは別としていけるなと直感した。特に主演のフランシス・マクドーマンドの天才的な演技力によるところが大であり、これは3度目の主演女優賞でもおかしくないと確信した。

 見事3度目の主演女優賞に輝いたフランシス・マクドーマンドは、シカゴ出身でカナダ人聖職者夫婦の養女となり、ピッツバーグで育った。

ベサニー・カレッジで演劇の学位、イェール大学で美術学修士号を取得。卒業後、舞台女優として活動を始め、1984年にコーエン兄弟の『ブラッド・シンプル』で映画デビューした。この作品が縁でジョエル・コーエンと結婚し、彼女が初めてアカデミー主演女優賞を獲った『ファーゴ』(96年)など、コーエン兄弟の作品には欠かせない存在となる。

 若き頃のコーエン監督の映画での怪しげな官能的演技もさることながら、まさに老いた女性の、人生の何か真実を迷うことなく一目散に追求し、周りにいる人間に対する暖かい社会的正義や調和など、さりげないなかに説得力ある生き様を演技させたら、まさにこれほどリアルで迫真の演技ができる女優はそうはいない。僕は彼女のファンの一人だ。

 今回取り上げる『ノマドランド』は、現代アメリカの車上生活者たちの生き様を描いている。ジェシカ・ブルーダーが2017年に発表したノンフィクション『ノマド:漂流する高齢労働者たち』が原作だ。

 監督のクロエ・ジャオは、北京生まれでアメリカの映画学校を卒業し、現在アメリカで活躍している。
第93回のアカデミー賞(2021年)では作品賞と監督賞を受賞したので、主演女優賞と合わせ、最も重要なオスカー三冠をものにしたのだ。

 ジャオ監督は白人以外の女性として初めて監督賞を手にした。ちなみに女性が監督賞を獲得したのは、キャスリン・ビグロー監督が2009年に『ハート・ロッカー』で初めて受賞して以来11年ぶりとなる。

 また本作は、第77回ヴェネツィア国際映画祭(2020年)でも最高賞である金獅子賞を受賞している。

 この映画は唯物主義で共産主義体制というまさに、非人間的社会で育った中国人にしては大自然への畏敬や輪廻的思想があり、美しいアメリカの自然の画像もいれながら、主演のフランシスと協調しながらその演技のうまさと自然さを、監督できたと読み取れる演出をしたと思われる作品だ。アメリカも日本も、そして共産主義を含む世界が、金金金かつ物質欲、生活向上(大衆蔑視としかいえないスローガン〈生活第一〉の政治)、大衆迎合経済政治に振り回されている。

 そんな中でこの映画は物質主義ではない、というよりはその恩恵に乗ることができなかったいわば社会的敗残者の人間たちの社会だからこそ生まれる人間らしさ、思いやりや愛を、輪廻的に描いて秀逸だ。

 アメリカの僻地の工場の閉鎖で街自体も地図から消えたエンパイアなる街に住む主人公の夫は、ゴーストタウンになっても、その土地を愛するからこそ、そこから離れずそこでガンで亡くなった。妻は、そんな街で最後まで、夫を見届けた。その彼女が自己の孤独感を満たす意味からも、社会の貧困のいわゆるホームレスの集団に積極的に参加して共に励まし生きる意欲をシェアするという現代のノマド族になっていく。

 神は汝を無尽蔵に愛した。だからそれに応えるために、同じように汝は神を愛しそして他人を愛せよ、というキリスト教の愛。ここに中国人の東洋的な輪廻の世界が加わり、さらに宇宙という気の遠くなる光年のサイエンスの世界の中で東洋思想とキリスト教を交錯させたとの印象を持つのも自由だ。人間はその短い世界のなかで自己の人生をまとめあげる。そして死という避けられない必然のなかでその素晴らしい思い出は霊として永遠に生きるのだ。そんな美しい世界を、凡庸で平凡だが、他者への愛や友情で描く、そんな役柄をフランシスは見事に演じるのだ。(以上、奥山篤信氏)

Okuyama  Atsunobuさんを含め2人の画像のようです
ブログ主より・・・遊牧民生活、再びこのような時代が形は変えても来ているようなところを感じています。これは古くて新しい展開と思います。
大衆迎合主義に毒された左右ともに行き詰った現代に問いかけ、歴史を通じて洋の東西にこのことが見逃せない事実であることをこの評を通じて感じます。
特に左のページの3段目にお書きになったこと、東洋と西洋の接点がこうして美しく評された言葉に感動します。
「東洋的な輪廻の世界観」が映画のセリフなどで出てくるものではなく、東洋の思想(これは私たち日本人が知らず知らずの間に生活の中で感じ取ってきているものが、西洋的なものとの出会いとその先の「交錯された印象」を受けられたのは、音楽で言えば美しい旋律の中に組み込まれる「通奏低音」のごとく見え隠れしながら効果的に言葉短い中に組み込まれた真実を見抜いておられる、これは芸術が伝えているものだ、と感じました。
私は芸術を「教育的なお説教」と捉えない、「感性」として警告であり縦にも横にも左右にも伝わっていくものと思っていて、実に緻密なことも見事な刺繍のように表裏を縫いながら伝わる如くに思いました。
奥山氏の著作で「Vフォー・ヴェンデッタ」の中に【政治家は真実で嘘を語る。小説家は嘘で真実を語る】という一節があったが、この映画は牧歌的な風景などを観ながら、なおそれを感じさせるようでふと思い出した次第です。
この「ノマドランド」はヴェンデッタ(イタリア語で「復讐」)なき、諦念と捉えながらも日々の日常で、さらに前進せねば生きていけない真実の情景を思わせます。


ブログのティールーム

ブラームス「ハンガリア舞曲」第一番 指揮はラトル。ベルリンフィルハーモニー
Simon Rattle, Berliner Philharmoniker – Brahms: Hungarian Dance No. 1 in G Minor, WoO 1




ショスタコーヴィチ作曲 「セカンドワルツ」~画面はヴィスコンティの映画「山猫」から・・・19世紀イタリア統一運動が起こり、ガリバルディ将軍はシチリア上陸、それまでにシチリアを占領していたフランスのブルボン王朝は撤退、激動のイタリアは・・・
Dmitri Shostakovich - The Second Waltz






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