アメリカンと聞くとコーヒーかフットボールしか思いつかない私ではありますが、アメリカンスクールも一応知ってます。が、そもそもその辺の知識が浅はかなので日本にいるアメリカ人が通う学校がアメリカンスクールであり、全国そこかしこにあるものだと思ってました。
基地内の学校も含めればその認識も間違いではないのかもしれませんが、日本でのアメリカンスクールとは東京の調布市にあるアメリカンスクール・イン・ジャパンを指すようです。
そこで思い出すのは南沙織さんの話。たびたび話題にする朝日新書「南沙織がいたころ」(永井良和著)ですが、今回もここからの引用。
南沙織さん(以下シンシア)は、「沖縄でアメリカンスクールに通っていた」と紹介されることも多いですが、実際に通っていたのはインターナショナルスクール。義父がフィリピン人だったため米軍人の子弟向けのいわゆるアメリカンスクールには入れず、米軍基地で働くフィリピン人が中心となって設立されたカトリックの学校に入ったとのこと。
シンシアは両親とも日本人ですが、妹さんや弟さんはハーフということになり、フィリピン系の子供はアメリカンスクールにも日本の学校にも通うことが難しく、その受け皿としての私立の学校に兄弟みんな通っていたという事情だそうです。そういう当時の沖縄の事情はこの本を読むまで知りませんでした。なんでそんなにフィリピン系の人が多かったかというのもちょっと考えればわかるのですが、以前は想像できなかったので。
そして彼女はデビューに当たって東京に出てきたわけですが、当時はまだ返還前だったのでパスポートを持って「来日」したと。その際学校は調布のアメリカンスクール・イン・ジャパンの11年生に編入されました。
このスクールは戦後は米国籍以外の生徒、アジアの子供や帰国子女をひろく受け入れるようになり、シンシアの先輩にはジュディ・オングさんもいるそうです。入学に当たってはCBSソニーの繋がりでジュディ・オングさんに推薦を頼んだようですね。
なので、南沙織さんについては
・沖縄ではインターナショナルスクール
・東京ではアメリカンスクール
に通っていたということになります。いいですね?(って、誰に言ってるのやら。)
その後、1973年の1月にアメリカンスクール・イン・ジャパンにアグネス・チャンが入学してきて、ふたりは英語で話し合える友人になったとか。
そしてシンシアは1974年6月にアメリカンスクール・イン・ジャパンを卒業し、上智大学の国際部(当時)に進みます。進学にあたっては上智の国際部か国際基督教大学か迷ったそうですが、当時のアメリカンスクールは日本では各種学校扱いだったため、国内の大学に進むには大学入資検定を受けねばならなかったとか。
学友の多くが米国の大学に進む中、彼女は芸能活動を続けるため国内に留まる選択をしました。そして、上智の国際部は米国の大学進学適性試験によって入試査定をしていたため入学できたとのことです。もちろん一定のスコアを取ることは必要だったので、普段から勉強はしっかりしていたのですね。デビューが決まって上京する際にも学校には通いたいと強く望んでいたそうで、そういう点には熱心な人だったのですね。
そういう人だったのが、実際デビュー当時の事務所は満足に学校に通わせずに地方での仕事をバンバン入れて、本人の健康状態やストレスも考慮しなかったということですから、当時の芸能界の闇も透けて見えます。住まいも社長宅の居候だったりホテルだったりで落ち着かなかったということですし。
と、それはそれとして、今回はアメリカンスクールとインターナショナルスクールのことを調べてみました。今ではアメリカンスクール・イン・ジャパンで12年間学んだ人も日本の高校を卒業したと同等とみなすようになりましたが、それは割と最近のことです。その経緯を知りたい人は調べてみましょう。(と、このあたりは手抜き。)
とにかくこの本はためになるので一家に一冊備えておくことをお勧めします。沖縄について考えるきっかけにもなりますし、10代の芸能人をどのように育てるかという点も考えさせられます。名著です。
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