歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

宜雲寺で“英一蝶”に出会う

2008年09月03日 | お寺・神社
8月10日に書いた続きとなります。

宜雲寺と一蝶寺の二つの名前を持つ“謎”の解明です。



正式名称は“宜雲寺”、臨済宗妙心寺派の禅宗寺院だそうです。以前は、と云っても昨日今日ではなく、元禄六年(1694年)に深川からこの地に移転したそうです。

それで、またの名を“一蝶寺”と呼ばれた理由は、“英一蝶”と云う絵師が“間借り”と云うか、“居候”と云うか、身を寄せていたので、そう呼ばれるようになったそうです。

“居候”の名前で呼ばれると云う事は、それなりの絵師だったのでしょう。時は“元禄(1688年~1704年) ”ですから、町人文化の華やかな頃です。

英一蝶(1652-1742)は、亀山藩の侍医の家に生まれ、1666年15歳のとき、家族とともに江戸へ移住したそうです。

自らの意志なのか、わけあっての遁走なのかは不明のようです。

彼の生涯を辿ってみると、父親が安定した地位を捨て、江戸の地に移り住んだ“事件”が、彼のその後の生き方を決定付けたと思うのです。

彼は、江戸で狩野派に入門したのですが、2年で破門されます。

牢獄にも入ります。罪状は不明だそうです。

島流しにもなっています。これも罪状がハッキリしないそうです。

島流しは、将軍綱吉の死により恩赦で江戸に戻ります。それから“英一蝶”を名乗ったそうです。

彼は、絵師として、徘人として、著名であり、また、大名、旗本相手の“幇間”としても著名だったそうです。


ここで、私の大胆な推理を発表します。

先ずは、入獄や島流しの原因です。

これは、彼のすべての仕事において、武家社会の風紀を乱し、秩序を乱し、権力を“芸”で嘲笑ったからでは・・・・・・と、思うのです。

このままでは、徳川幕府の“権威・威信”が脅かさると、権力が察知し葬ろうとしたのです。

それでは、反権力の想いをいつの頃からか、何故?どうして?抱くようになったのか?

それは、彼が15歳の時、一家で江戸に移住した“事件”の中に隠されているものと考えます。

今日は、ここまでとします。


それでは、また明日。




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