歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

一蝶寺は宜雲寺で“英一蝶”を“片岡鶴太郎”が演じていました

2008年09月04日 | お寺・神社
昨日の続きです。

一蝶が15歳の時、一家で江戸に移住した“事件”・・・私の勝手な想像で事件としました・・・とは、何だったのか?、伊勢亀山藩で何があったのか?

想像では、何か権力闘争があったのでは、医者であった父“多賀伯庵”もその争いに巻き込まれ、そして、弾き出されてしまったのでは?

江戸に出た父の伯庵は、生涯を通して、悔やみ、嘆き、愚痴り、酒におぼれる、傷心の日々を送り、寂しくこの世を去っていた・・・・・・・。

そんな父の姿を見て、息子の一蝶は、この世での金、地位、名誉、そんな現世利益を追い求めて、あくせく生きることの、虚しさ、儚さ、バカバカしさ悟ったのでは・・・・・・・と思うのです。

かなり、これは、勝ってな想像ですが、それなりに、かなりイイ処を突いているような、そんな気がしてきました。

狩野派を2年で破門されたのは、権力に庇護された“武家好み”の作風に対して、かなり批判的な言動を吐いたり、まったく異なる“庶民好み”の作風の絵を描く、その結果として、と・・・・・・思うのです。

絵師として“多賀朝湖(たがちょうこ)”を名乗り、“暁雲(ぎょううん)の”名で俳句を詠み、“書”もかなりのものだったようです。

絵師として、俳諧師として、書家として、江戸中にその名を知られた文人だったようです。

そして、そのうえ、何と、遊郭で「幇間」をしていたのです。幇間としても、一流の芸人であったようです。

この幇間に一蝶らしさが、そして、父“伯庵”への“想い”が現れている気がするのです。

文人であり芸人。大名旗本、豪商の紀伊国屋文左衛門、そして松尾芭蕉とも交流があった一蝶。

ここまで調べたところで、一蝶の生涯を描いたドラマを製作したら、かなり面白いものができそうな気がしてきました。

そうしたら、あるドラマに一蝶が描かれていたのです。それは、NHKの大河ドラマ「元禄繚乱」、1999年1月~12月放送の“赤穂浪士の討ち入り物”で、少しだけ出てくるのです。

それで、一蝶を演じていたのが、あの“片岡鶴太郎”でした。確かに、絵師、書家、芸人と来ると、それなりに、表面的に、鶴太郎なのかも知れません。


それで、本物の一蝶の方ですが、元禄6年(1693年)に入牢、罪名は不明。2ヵ月後に釈放。元禄11年(1698年)47歳の時に三宅島へ流罪。罪名は不明

11年の流刑後、57歳の1709(宝永6)年に、吉宗の死による大赦で江戸に戻り、英一蝶と改名したそうです。

この“英一蝶”の名ですが、三宅島から江戸に戻る時に、舟上で舞う一匹の蝶を見つけ、“多賀朝湖”の名を捨て、“英一蝶”となったのです。

英(はなぶさ)は母方の姓「花房」からです。ここで、父方の姓である「多賀」を捨て、父の“残像”を消し去ったのだと思います。間違いない!

それにしても、この船上のシーンは絵になります。ここで一蝶を演じるのは、鶴太郎では無理があります。それでは、誰が?と、いろいろ考えたのですが・・・・・・、浮かびません。

江戸に戻り、そして、どういう伝なのか宜雲寺で暮らすようになり、多くの作品を残したそうです。

それでは、早速、宜雲寺に行き作品を拝見して来なければと、思ったのですが、昭和二十年の“東京大空襲”で一蝶の絵はすべて焼失してしまったのでした。残念!

それでも、多数の作品が他の場所に残っているようで、私の歩き回る範囲にある、「板橋区美術館」にも、3点の所蔵されているので、近いうちに覗いてこなければと思っています。

島流し後、一蝶の時代の絵は多数残っているのですが、島流し前、朝湖の時代の絵はどうなのか良く判りませんでした。

朝湖の時代と一蝶の時代、絵に変化があったと云う説、無かったと云う説があり、どちらなのか? 気になります。

私としては、題材の選び方、描き方に変化があって当然だと思うのです。朝湖の時代より、一蝶の時代の方が人気は上がったようです。

それにしても、一蝶と云う人間は“面白い方”です。いい人を知りました。これは、墓参りの御利益です。


明日も、すこしだけ、宜雲寺の話です。


それでは、また明日。


コメント
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